2009.11.09

村上義清(2)義清の勢力拡大

 村上義清は文亀元年(一五〇一)三月十一日、村上顕国の子として葛尾城に生まれた。初陣は永正十六年(一五一九)だったという。翌十七年(一五二〇)に父顕国が病没し、義清が村上家当主となった。顕国の死と義清の家督相続は大永六年(一五二六)ともいう。
 義清が当主となった頃、村上氏の勢力範囲は更級郡、更埴郡を中心に水内郡、高井郡、小県郡にまで及んでおり、所領を接していた高井郡の高梨政頼、小県郡の海野棟綱などと係争中であった。天文十年(一五四一)五月、義清は甲斐の武田信虎、諏訪の諏訪頼重と同調し、小県郡を支配していた海野棟綱を攻めた。棟綱は関東管領上杉憲政を頼って上野へ逃れたが、その後回復することができず、海野氏は滅亡した。
 海野氏を駆逐して甲斐に凱旋した武田信虎であったが、盟将今川義元の駿府へと出向いた天文十年六月十四日、嫡男晴信を首謀とした政変が甲斐で勃発し、信虎は駿河へ追放された。
 家督を強奪した武田晴信は天文十一年(一五四二)七月、突如諏訪郡に侵攻し、盟約を結んでいた諏訪頼重を捕らえ、自刃に追い込んだのを皮切りに、毎年のように伊那郡、小県郡、佐久郡などへ出陣し、信濃各地に勢力を拡大していった。村上義清も小県郡海野平から佐久郡春日あたりまで勢力を伸ばしていたが、武田氏の爆発的伸張に比べれば微々たるものであった。
 天文一六年(一五四七)、佐久郡に出陣した晴信は志賀城を陥落させると、笠原清繁を討ち取り、生け捕った城兵や女子供をことごとく売り払った。これまでにない過酷な処置をとった武田晴信の悪名は信濃じゅうに広まり、その脅威に直面した信濃国人にとって、降伏か滅亡か、という選択を余儀なくされることになったのである。
 晴信の佐久郡および小県郡への侵攻が本格的なものとなり、自身も武田勢に直面する事態になると、義清にとってもこれを座視する訳にいかなくなった。ここに至り、義清のとるべき戦略は、戦国大名的な領土拡張戦から、信濃にとっての新たな侵略者となった武田氏に対する信濃防衛戦に転化した。
 義清を立ち上がらせるきっかけとなったのは、自領に武田氏の脅威が及んできただけでなく、「信濃惣大将」という、代々村上氏が信濃国人衆の筆頭であると自負してきた、反骨心旺盛な地位にあったと考えられる。弱体化したりとはいえ、義清の代にも存続していた足利幕府の初代将軍であった尊氏から村上氏に与えられた「信濃惣大将」という特別な地位は、村上氏が信濃国人衆の筆頭を占める上で重要な権威となっていただろうことは想像に難くない。
 むしろ「信濃惣大将」の権威が有効たり得なければ、当時坂城の一国人に過ぎなかった義清があれだけの勢力を糾合し得なかったのではないか。一般には足利幕府の形骸化=権威の形骸化という風に認識されているが、戦国時代においても権威は支配力を行使する上で重要な要素であり、それが有名無実となるか否かはひとえに当事者の実力次第であった。一方で、戦国時代がいくら実力の時代であったといっても、権威無き者に兵が集まらなかったのも事実である。

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