武田信玄家督争奪メモ
武田信玄は大永元年(一五二一)十一月三日、武田信虎の嫡男として要害山城で生まれた。幼名を太郎といった。武田氏は平安時代末期に甲斐に土着した清和源氏の嫡流であり、新羅三郎義光が甲斐国司に任じられて以来、代々甲斐守護職を務めてきた名家である。
だが、武田氏も例外なく戦国の動乱に巻き込まれた。国内の豪族どもが割拠し、駿州今川氏や相州北条氏の侵入に悩まされた。そのような時代に武田家を継いだのが、信玄の父信虎だった。信虎は積極的に攻勢に出て甲斐を統一し、他の守護大名が次々に滅びていく中で甲斐守護職を守り通した。
大永七年(一五二七)、駿河の今川氏親と和議を結び、南方の脅威がなくなった信虎は享禄元年(一五二八)、信濃の諏訪へ攻め入った。が、境川の合戦で諏訪頼満と戦って敗れ、逆に享禄四年(一五三二)には甲斐国内の塩川まで攻め込まれてしまった。天文四年(一五三五)、信虎は諏訪頼満と国境を定め、太郎の妹禰々を頼満の孫頼重に嫁がせて、諏訪家と和睦した。両家は血縁により結ばれることになった。
太郎は天文五年(一五三六)に元服した。ときの将軍足利義晴の一字を賜り、晴信と名乗った。正親町天皇より従五位下大膳大夫の官位を得た。同じ年、今川義元の仲介により、京都の公家三条公頼の娘を娶った。姉は管領細川晴元の妻、妹は本願寺法主光佐の妻だった。これが後に本願寺との強固な対信長同盟を形成する要因となる。この仲介に礼するかのごとく、晴信の姉が義元の妻として嫁いだ。
晴信の初陣は天文五年十一月、信州佐久郡海之口城を攻めたときであり、父信虎とともに出陣した。十一月二十一日、武田軍八〇〇〇は甲斐を出陣、海之口城を包囲した。しかし、大雪のために落城させることができず、十二月二十六日、信虎は晴信を殿軍として撤退した。ところが晴信は手兵三〇〇〇だけを引き連れて海之口に引き返し、城を急襲、落城させてしまったのであった。
だが信虎は、晴信の力量を認めようとはしなかった。天文七年(一五三八)正月、信虎は晴信に盃を与えず、弟の信繁に与えた。これは信繁が次の後継者であると宣言したようなものであった。それ以前から気まずい雰囲気のあった父子の関係は、これを境にさらに悪化していくのであった。
天文十年(一五四一)五月、信虎は諏訪頼満、そして信州埴科郡の村上義清とともに、信州小県郡の滋野一族を三方から攻め潰した。
信州より帰陣した信虎は、戦勝報告と娘孫の見舞いを兼ねて駿河へ赴いた。六月十四日のことであった。この好機を晴信は逃さなかった。甲斐と駿河との国境を封鎖したのである。重臣板垣信方、甘利虎泰を中心とした家臣団も晴信の動きに加担した。信虎の圧政に苦しんでいた領民たちは、信虎の追放を知り、上から下まで喜んだ。信虎は隠居として駿河に留め置かれ、以後、武田家は晴信が実権を握ることになったのであった。
(参考文献:光栄「信長の野望合戦事典 信玄vs謙信」福田 誠編、新人物往来社「武田・上杉軍記」小林計一郎)
※拙著「信長の野望合戦事典 信玄vs謙信」の一文を訂正加筆したメモです。
・従来伝えられているほど信虎の治世は過酷なものではなく、領民の不満の原因はどちらかというと飢饉の影響だったらしい。
・晴信の初陣は「甲陽軍鑑」にのみ経過が記述されている。
・クーデターは晴信自身の仕業というより、板垣ら家臣団が中心になって実施、後に晴信を担ぎ上げたという説もある。
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