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2005年1月

2005.01.24

武田信玄家督争奪メモ

 武田信玄は大永元年(一五二一)十一月三日、武田信虎の嫡男として要害山城で生まれた。幼名を太郎といった。武田氏は平安時代末期に甲斐に土着した清和源氏の嫡流であり、新羅三郎義光が甲斐国司に任じられて以来、代々甲斐守護職を務めてきた名家である。
 だが、武田氏も例外なく戦国の動乱に巻き込まれた。国内の豪族どもが割拠し、駿州今川氏や相州北条氏の侵入に悩まされた。そのような時代に武田家を継いだのが、信玄の父信虎だった。信虎は積極的に攻勢に出て甲斐を統一し、他の守護大名が次々に滅びていく中で甲斐守護職を守り通した。
 大永七年(一五二七)、駿河の今川氏親と和議を結び、南方の脅威がなくなった信虎は享禄元年(一五二八)、信濃の諏訪へ攻め入った。が、境川の合戦で諏訪頼満と戦って敗れ、逆に享禄四年(一五三二)には甲斐国内の塩川まで攻め込まれてしまった。天文四年(一五三五)、信虎は諏訪頼満と国境を定め、太郎の妹禰々を頼満の孫頼重に嫁がせて、諏訪家と和睦した。両家は血縁により結ばれることになった。
 太郎は天文五年(一五三六)に元服した。ときの将軍足利義晴の一字を賜り、晴信と名乗った。正親町天皇より従五位下大膳大夫の官位を得た。同じ年、今川義元の仲介により、京都の公家三条公頼の娘を娶った。姉は管領細川晴元の妻、妹は本願寺法主光佐の妻だった。これが後に本願寺との強固な対信長同盟を形成する要因となる。この仲介に礼するかのごとく、晴信の姉が義元の妻として嫁いだ。
 晴信の初陣は天文五年十一月、信州佐久郡海之口城を攻めたときであり、父信虎とともに出陣した。十一月二十一日、武田軍八〇〇〇は甲斐を出陣、海之口城を包囲した。しかし、大雪のために落城させることができず、十二月二十六日、信虎は晴信を殿軍として撤退した。ところが晴信は手兵三〇〇〇だけを引き連れて海之口に引き返し、城を急襲、落城させてしまったのであった。
 だが信虎は、晴信の力量を認めようとはしなかった。天文七年(一五三八)正月、信虎は晴信に盃を与えず、弟の信繁に与えた。これは信繁が次の後継者であると宣言したようなものであった。それ以前から気まずい雰囲気のあった父子の関係は、これを境にさらに悪化していくのであった。
 天文十年(一五四一)五月、信虎は諏訪頼満、そして信州埴科郡の村上義清とともに、信州小県郡の滋野一族を三方から攻め潰した。
 信州より帰陣した信虎は、戦勝報告と娘孫の見舞いを兼ねて駿河へ赴いた。六月十四日のことであった。この好機を晴信は逃さなかった。甲斐と駿河との国境を封鎖したのである。重臣板垣信方、甘利虎泰を中心とした家臣団も晴信の動きに加担した。信虎の圧政に苦しんでいた領民たちは、信虎の追放を知り、上から下まで喜んだ。信虎は隠居として駿河に留め置かれ、以後、武田家は晴信が実権を握ることになったのであった。
(参考文献:光栄「信長の野望合戦事典 信玄vs謙信」福田 誠編、新人物往来社「武田・上杉軍記」小林計一郎)
※拙著「信長の野望合戦事典 信玄vs謙信」の一文を訂正加筆したメモです。

・従来伝えられているほど信虎の治世は過酷なものではなく、領民の不満の原因はどちらかというと飢饉の影響だったらしい。
・晴信の初陣は「甲陽軍鑑」にのみ経過が記述されている。
・クーデターは晴信自身の仕業というより、板垣ら家臣団が中心になって実施、後に晴信を担ぎ上げたという説もある。

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2005.01.23

幸若舞

幸若舞(こうわかまい)
中世芸能の一つ。室町後期、桃井直詮が声明(しょうみょう)・平曲(平家琵琶)などの曲節を採り入れて創始したという声曲である。曲舞の一種で、軍記物を素材とした物語を謡うのを特色とする。烏帽子・直垂を着用して、太鼓や小鼓に合わせて謡い、勇壮なシーンでは謡い手が舞う。
幸若舞は戦国武将、中でも「敦盛」が信長に愛されたことで有名。秀吉・家康らも愛好したが、そのため次第に民衆芸能から乖離した存在となってしまった。現在は福岡県山門郡瀬高町大江にのみ三人立の幸若舞が伝えられている。
(参考文献:岩波書店「広辞苑(第五版)」、福井県ホームページ瀬高町ホームページ

桃井直詮(もものい・なおあき、1403-1480)
「幸若舞」の祖。初代幸若大夫。南北朝で活躍した越中守護桃井直常の孫。幼名幸若丸。越前国丹生郡西田中(現福井県丹生郡朝日町)に育ち、父の死後、比叡山へ。生来、音楽的才能に恵まれていた。天台声明の節で謡う『平家物語』が評判となり、上洛して御所などで舞曲を披露。足利将軍家に仕えた後、越前に帰国、朝倉家に扶持された。
(参考:角川書店「日本史辞典」、福井県ホームページ

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2005.01.22

対馬丸メモ(2)

日本は1944年8月から1945年3月までの間に沖縄から8万4000人の沖縄県民を疎開させた。
沖縄戦による一般市民の死者は12万人あまり。
あの絶望的ともいえる海上交通線をつかって疎開させたことを考えれば、彼らがもし沖縄に残っていれば死者20万人超の可能性があったことを考えれば、これは日本船舶史上の偉業だったといえるのではないか。

(ついでメモ)
マリアナ失陥はB29の進出だけではなく、潜水艦母艦の前線進出も可能ならしめた。
具体的にはパールハーバーからサイパン島まで3600マイルも一気に前進。そのため、日本近海における米潜水艦の活動がより容易になってしまった。
その後、日本と南方資源地帯を結ぶシーレーンの攻撃が本格化。
こう考えると、マリアナ喪失で太平洋戦争の決着は完全についていたのであった。
(参考文献:光人社「モリソンの太平洋海戦史」サミュエル・E・モリソン/大谷内一夫)

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2005.01.17

永禄飢饉

永禄初期の甲斐は疫病と飢饉に見舞われていた。
永禄二年4月に雹が降り、作物が壊滅的な被害を受けた。1月と12月に融雪洪水の被害。疫病流行。
永禄三年、6月から10月にかけて大雨が降り続き作物壊滅。昨年来の疫病が引き続き流行。
(参考文献:学研M文庫「川中島の戦い上」平山優)

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教来石

教来石(きょうらいし)
馬場信春の故郷。下教来石にへてこ石という文化財がある。日本武尊が座ったと伝えられる「経来石」が地名の所以。「清ラ石」の転訛とも。現北杜市(旧白州町)。
(参考文献:白州町ホームページ)

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2005.01.16

対馬丸メモ

対馬丸
竣工:大正3年(1914)12月22日
建造:RUSSEL&CO.(英)
総トン数:6,754トン
主機:レシプロ2基
全長:135.64m
船幅:17.68m
喫水:10.36m
最大速力:13.72ノット
経済速力:12ノット
沈没:昭和19年(1944)8月22日
沈没位置:鹿児島県悪石島北西沖約10km(北緯29度31.93分、東経129度32.90分、水深約870m)
乗船客:疎開学童826名、一般疎開者835名
遭難者:疎開学童767名、一般疎開者717名
撃沈艦:SS287「ボーフィン」

ナモ103船団
編成:輸送船3隻(和浦丸、対馬丸、暁空丸)、駆逐艦1隻(蓮)、砲艦1隻(宇治)
発:那覇(昭和19年8月21日1835時)
着:長崎(昭和19年8月24日)
目的:疎開学童及び一般疎開者の本土搬送
疎開者内訳:
「和浦丸」…疎開学童1514名
「対馬丸」…疎開学童826名、一般疎開者835名
「暁空丸」…一般疎開者1400名

609船団
編成:輸送船3隻(和浦丸、対馬丸、暁空丸)、駆逐艦2隻(蓮、梅)、砲艦1隻(宇治)
発:上海(昭和19年8月16日発)
着:那覇(昭和19年8月19日着)
目的:歩兵第62師団の沖縄搬送
輸送内容:
「和浦丸」…兵員2409名、馬匹40頭
「対馬丸」…兵員3339名、馬匹49頭
「暁空丸」…兵員3175名、馬匹40頭

SS287「ボーフィン(Bowfin)」
竣工:1942年12月7日
建造:Portsmouth Navy Yard(米)
艦級:パラオ級
全長:93.57m
全幅:8.22m、
排水トン:1526トン、潜水時2414トン
速力:水上20.25ノット、水中8.75ノット
最大潜航深度:120m
乗員:85名
出撃数:9回
撃沈数:日本輸送船39隻(他に500トン以下船舶10隻)、ヴィシー・フランス輸送船1隻、日本海軍艦艇4隻
撃沈トン数:179,646トン(商船のみ)
※1979年8月1日、真珠湾にて記念艦となる。

(参考文献:出版協同社「戦時輸送船団史」駒宮真七郎、Bowfinホームページ)

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