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2008年10月

2008.10.31

品川台場(4) 近代的国防思想の捨て石、品川台場

 品川台場は江戸湾の一番奥に位置する最終防衛線であり、その戦略的意義は低いものであった。もっとも、江戸そのものを守る要塞線として考えた場合、品川台場を第一線とし、海岸に設けられた諸藩の台場群を第二線とする二線防御陣地としては機能し得たとも考えられる。だがそれも、開国とともに意味のないものとなった。
 かくして、品川台場は幕末における徳川幕府の泥縄的対外政策の遺産となった。品川台場は設計者である江川の海防思想にまったく沿わぬものであったが、与えられた現実の中で任務を忠実に果たした江川らしく、もてる知識と技術力のすべてを台場の構築に投入し、皮肉にも江川が残した最大の事績となった。そして、幕末土木技術の集大成ともいうべきものとして現代に残されることになったのである。
 しかし、品川台場の築造は決して無駄ではなかった。この国家的大事業は幕藩に国防の重要性を認識させたという点で、まさに貴重な捨て石となったのである。江川の先見に満ちた海防論は幕藩の垣根を超え、実に明治政府にまで大きな影響を与えた。江川の海防思想は明治新政府軍に受け継がれることとなり、近代海軍が創設・強化され、浦賀水道防御策は東京湾海堡として実現を見ることになったのである。


(初出:学研「歴史群像」2002年6月号 No.53)大砲配備数を加筆
参考文献:佐藤正夫著『品川台場考 幕末から現代まで』(理工学社)/原剛著『幕末海防史の研究』(名著出版)/篠原宏著『海軍創設史』(リブロポート)ほか

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品川台場(3) 品川台場の構造と備砲

 品川台場は石垣で囲まれた六角形(第三台場は五角形)の洋式保塁で、石垣の刎ね出しや地震等で石垣が崩れないよう鎹で止める「ちぎり」など、築城技術の特徴は同時期に完成した五稜郭に酷似している。
 海中を埋め立てて築かれたことから、基礎が波にさらわれぬよう「亀張り」という石畳を張り巡らせてあり、後方に船着き場があるのが海上台場としての独特の構造であろう。この品川台場の建築技術が極めて優れたものであったことは、多少の補修があったものの第三台場および第六台場がいまだに原形を保ったまま健在であるということで証明されている。
 各台場の内部的な構造であるが、周囲には土堤が築かれて砲台が設けられ、塁壁の内側には石壁で固め土塁で囲んだ火薬庫や玉置所が作られた。中央には休息所と呼ばれる陣屋があった。基本的には陸上との連絡が途絶すれば簡単に孤立し、長期間の籠城には向かない構造である。
 品川台場の防備の要となるのは、いうまでもなく大砲である。ところがこれらは守備についた諸藩の事情、製造の遅れなどにより、配備時期にずれがあることなどから実数把握が難しい。 基本資料である『陸軍歴史』に記載された配備図によると基本的には正面に大型砲、側面に中型砲、そして後面に小型砲が配備されたようである。そして、備砲の種類と配置数は、台場全体で次の通りとなる。

 八〇ポンド砲       二三挺
 三六ポンド砲        四挺
 二四ポンド砲       二七挺
 一二ポンド砲       四八挺
  六ポンド砲       三七挺
 ランゲホーウィッスル砲  一六挺
          計  一五五挺

 ところが、明治一九年の『日本財政経済史料』によると、第一台場と第二台場には各六五挺、第三台場には四六挺、第四台場(御殿山下台場)から第六台場には各二八挺で、計二六〇挺が配備されたと記載されている。
 また、品川台場に配備された守備隊であるが、江川の守備隊編成案によれば大砲一挺につき人数六人と規定し、当番、控番、非番の三組を構成することになっていた。全部で一八人が一挺の大砲に配備されたことになる。しかし、実際に常駐していたのは規定よりずっと少ない人数だったようである。安政二年(一八五五)の大地震の際、第二台場では士分二五名、炊出男一名の計二六名が被災したとある。守備隊の多くは陸上で待機し、危急の際には船で応援に出る態勢にしたと思われる。
 品川台場に配備された大砲は湯島、佐賀藩および韮山の反射炉で製造されたものを充てた。大砲の製造もまた、砲術を学んだ江川自身が先頭に立った。江川は当時日本でもっとも製造技術が進んだ佐賀藩に大砲を発注するとともに、同藩の協力を得て所領の韮山に反射炉を造り、大砲鋳造の一大拠点にしようとしたのである。江川が外様である佐賀藩の大きな協力を得て軍事力の強化を図ったこの事実は、幕藩の垣根を超えた国防態勢の萌芽であったといえる。
 品川台場の築造を契機として国防の陣頭に立った江川は、安政元年末、幕府より勘定奉行および外国奉行就任の内命を受けた。だがそのとき、江川は過労のために倒れてしまった。無理をおして江戸に上ったものの、病は悪化し、ついに安政二年一月十六日、志半ばにして永眠したのであった。

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品川台場(2) 急ピッチですすめられた品川台場の構築

 前述したとおり、品川台場は江川の海防論に基づいて構築された。ペリー来航後、幕府は今後の方策を決定する海防廟議を六月十九日に開催した。以前から海防に関する献策を続け、その第一人者と認められた江川はこのとき勘定吟味役格に抜擢され、廟議に列席している。
 この廟議で江戸湾海防の実態調査を命じられた江川は精力的に江戸湾を回り、七月にその見分報告書である『海岸御見分ニ付見込之趣申上候書付』を提出した。それはおもに海軍創設の必要性を説いたもので、台場構築に関しては浦賀水道の防備を主眼に置いたものだった。具体的には三浦半島の観音崎と房総半島の富津に台場を配備し、さらに浅海部を埋め立てて海上台場を構築、これを第一線とするものであり、品川に関しては江戸湾防衛の一環としてわずかに記されているだけであった。
 しかし、江戸城西の丸焼失や第一二代将軍徳川家慶の死去などで財政が窮迫した幕府に海軍創設は無理な相談であり、江戸湾口の防備すら実現は困難であった。結局、江川の献策は容れられることなく、品川沖に台場を築造することが決定された。江戸湾海防の観点からすれば大きな後退であったが、しょせん幕府と江戸市中の防備しか念頭になかった幕閣にとって、浦賀の事件は遠地の出来事に過ぎなかったのである。
 七月二十三日、台場普請取調方の一人として選ばれた江川は、幕府に品川台場の設計と大砲の製造を命じられた。技術的な部分は江川に一任されることになったわけである。この大命を拝した江川は、安政二年(一八五五)に五五歳で急逝するまで、その構築に全力を注ぐことになる。
 品川台場の設計にあたり、江川はオランダの兵学者エンゲルベルツが記した築城書を参考にした。間隔連堡の項目中にあったレドウテンのリニーという堡塁形式を採用し、品川沖に一一基の台場を連珠状に築造しようというものであった。台場間の距離は左右が約六〇〇メートル、前後が約三〇〇メートルと、築造に適した隠れ洲(浅瀬)にほぼ均等間隔で配備し、隅田川河口に向かう航路である澪筋を封鎖するというものであった。
 基本プランが決定されると、ただちに材料の調達が行われた。木材は関東筋天領からの御木材、石材は相模の三浦岩や伊豆石などから切り出すこととなった。そして土砂は近郊の品川御殿山、高輪・品川方面にあった諸侯邸宅の高台を掘削して使用することになった。 その後入札が行われ、第一台場から第三台場までと、第六台場および第八台場の築造を請け負ったのは御大工棟梁平内大隅であった。また、第四台場、第五台場、第七台場および第九台場を落札したのは御勘定御用達の岡田次助であった。
 かくして嘉永六年八月二十一日、第一台場から第三台場までが起工された。江川が設計を開始してから一か月足らず、その間に入札が実施され、必要な資材の調達も行われたわけであるから、それまで緩慢だった幕府の行動からは考えがたい急ピッチで築造が開始されたことがわかる。
 江川の海防論は、常に当局者の立場から論じた現実的なものであり、あまた存在した評論家的論者の海防論とは一線を画していた。その建議書には常に完成に至る仕法が準備されており、下知さえあればただちに着手できるという強みがあった。それゆえ、品川台場もただちに着工できたと思われる。
 すでに江川の頭の中には、三三度にわたる海防建議書作成の過程で、構造から材料調達までの具体的な台場構築プランがあったのだろう。そうでなければ、まったくの白紙から一か月足らずで起工に取りかかることはできなかったに違いない。
 さて、第一台場から第三台場は嘉永七年七月に完成した。その間にペリーが再来日、彼の誕生日である四月十日に品川沖にまで旗艦「ポーハタン」を進めてきている。このとき品川台場はまだ竣工していなかったが、防備を担当していた各藩は配備についている。ペリーが建築中の台場を見た具体的な感想はないものの、江戸の防備態勢を見た感想は、大口径砲を搭載した喫水の浅い蒸気船二、三隻による攻撃で江戸市街を完全に破壊できるというものであった。品川台場の防備効果はまったくないと考えていたことがわかる。
 その後、第五台場および第六台場、そして御殿山下台場は嘉永七年一月に起工し、安政元年(十一月安政に改元)十一月に竣工した。第四台場と第七台場も築造を開始したが、第四台場は七割程度、第七台場は三割程度の工事で中止された。そして第八台場以降の築造は財政難と時局の変化のため、まったく着手されることなく終わった。
 品川台場の築造には江戸の石工等が約五〇〇〇人、土砂を運搬する船は約二〇〇〇隻が投入されたという。台場の築造開始で、それまで遠地の出来事だった外国船の脅威が江戸庶民にも現実問題として身近に感じられることになったようで、人と物資の動きが激しくなった。婦女子や子供を疎開させるなどの行動も見受けられた一方、人足の払底により賃金が高騰し、それに併せて物価も上昇したのであった。

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品川台場(1) 江戸防衛の最前線

 ウォーターフロントの開発中心地として賑わう東京港区の「台場」という地名は、嘉永六年(一八五三)の黒船来航を契機として築かれた品川台場に由来している。
 品川台場は、わが国で最初に築造された洋式の海上砲台である。現在、お台場公園として開放されている第三台場と、レインボーブリッジの脇に浮かぶ第六台場が残されているが、東京港の波間に洗われ、数度の大地震に遭遇しながらも崩壊することなく、約一五〇年もの間、その原形を保ってきた。高度な幕末の土木技術力と、当時の国際関係を知る上で貴重な史跡である。
 品川台場は軍近代化の先駆者であり、そして日本国防論の第一人者であった江川太郎左衛門江川によって構築された。代々伊豆韮山の幕府代官だった江川は、世襲後の天保八年(一八三七)より実に三三通もの建議書を徳川幕府に提出し、海防の必要性を訴えた。
 江川の度々の献策にもかかわらず、幕府の対応は遅かった。初代将軍家康以来、幕府の防衛方針はあくまで幕府そのものの護持を目的とするものであり、日本の国土を海外勢力から守ろうとするものではなかったからである。幕府の首府たる江戸の防備は陸路の五街道、すなわち国内の諸大名に向けられていた。海路たる江戸湾の防備についてはまったく無関心だったといってもよい。
 ところが、大国と信じていた清がアヘン戦争でイギリスに敗れ、国内では外国船をめぐる各種事件が頻発したことから、さしもの幕府も江戸湾における海防の必要性を認めざるを得なかった。幕府は江戸湾口の三浦半島や富津などに約二〇基の台場を築いたが、それらは戦略的にまったくの無策のものであり、外国船来航を阻むことに何ら寄与することはなかった。
 かくして嘉永六年(一八五三)六月三日、アメリカのペリーが軍艦四隻を率いて浦賀へ来航し、幕府に開国を迫った。この、いわゆる黒船来航に対する幕府の回答が開国であり、品川台場だった。幕府は諸外国に門戸を開くとともに、その侵略の可能性を考慮し、江戸防衛の最前線として品川台場を構築することとしたのである。

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2008.10.30

宮古湾海戦(9) 制海権を失った蝦夷政権の終焉

 宮古湾奇襲は「甲鉄」の奪取に失敗し、いたずらに蝦夷側の海軍戦力が失われる結果となった。蝦夷海軍の軍艦は「回天」「蟠龍」「千代田形」の三隻のみとなり、蝦夷の制海権は新政府軍に移った。
 四月九日、新政府軍は乙部に上陸、箱館へ向けて進撃した。蝦夷艦隊は五稜郭が敵艦の射程圏内に収められぬよう函館湾にとどまり、新政府軍の侵攻に備えた。
「千代田形」は五月一日、箱館湾内で座礁、放棄したところを新政府軍に捕獲された。「回天」は五月七日、函館港における新政府艦隊と戦いで機関部に被弾、稼動不能となり、浮き砲台として最後まで戦ったものの弾薬尽き、新政府軍の攻撃によって破壊、撃沈された。蝦夷海軍の主力艦に恥じぬ最期だった。
「蟠竜」は五月十一日、砲撃によって「朝陽」を轟沈させる戦果をあげたものの、やはり砲弾尽きて海岸に乗り上げ、放棄。新政府軍が焼却処分とした。本艦は後に修理され、「電龍」として日本海軍に復帰する。
 かくして蝦夷艦隊は壊滅し、箱館は新政府軍に占拠された。最後の牙城となった五稜郭は軍艦「甲鉄」の艦砲射撃を受け、完全包囲された。明治二年五月十八日、榎本は新政府軍に降伏、箱館戦争は終わりを告げた。
 箱館戦争は、彼我の海軍力が戦局を決した日本最初の戦いだった。蝦夷独立の背景には、シーパワーに制海権という海軍戦略の根本があった。榎本はその海軍戦略をもって蝦夷立国を果たそうとしたが、それはかなわなかった。マハンに先立つこと二〇年以上も前のことであった。軍艦の隻数が少なかった当時に制海権を決したもの、それは圧倒的な戦力を誇っていた軍艦「開陽」であり「甲鉄」だった。

(初出:学研『歴史群像』No.52 2002年4月号)
参考文献:篠原宏著『海軍創設史』(リブロポート)/菊池明・伊東成郎編『戊申戦争全史(下)』(新人物往来社)/大鳥圭介著『幕末実戦史』(新人物往来社)/小島俊一『宮古海戦ものがたり』/『箱館戦争』(旺文社)/『イラストで見る箱館戦争』(新人物往来社)ほか

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宮古湾海戦(8) アボルタージュ

 明治二年三月二十日の夜半、宮古湾奇襲艦隊は箱館を出航した。旗艦「回天」には司令官荒井郁之助、総督土方歳三、酒井良裕の神木隊とニコールが乗り込み、「蟠龍」には彰義隊と遊撃隊の他、クラトーが搭乗した。「高雄」は神木隊とコラッシュが乗り込んだ。 二十二日、八戸郊外の鮫湊にいったん寄港し、宮古湾の様子を探った後、出航した。ところが、急に濃霧が立ちこめて視界が閉ざされ、やがて強風吹いて怒濤逆巻き、三隻ともに離散してしまった。
 風雨が治まったのは二十四日のことである。この日、「回天」はただ一隻、宮古湾南方の山田湾へロシア国旗を掲げて入港した。やがて米国旗を掲げた「高雄」が入港した。宮古湾の動静を探れば、すでに政府軍艦船が集結しているという。だが、ついに「蟠龍」は山田湾へ姿をあらわさなかった。このため、「高雄」だけが「甲鉄」に接舷し、「回天」が他艦を牽制すると作戦を変更した。奇襲艦隊は二十五日の午前三時に山田湾を抜錨、宮古湾へと向かった。
 ところが、いざ出撃というときになって「高雄」の機関が故障した。肝心の「甲鉄」に接舷する二隻が作戦に参加できなくなってしまった。作戦を中止すべきか否か。発案者の艦長甲賀源吾は、「回天」一隻でも乗り込む気概でこの作戦を提案していた。同乗していた元フランス海軍少尉ニコールは五〇人のフランス海兵隊によって三〇〇人乗船の英国船を捕獲したことがあると言い、「回天」の単独襲撃を強く主張した。この機を逃しては「甲鉄」を奪取する戦機を逸してしまうに違いない。そう判断した彼らは「回天」ただ一隻で殴り込みをかけることとなった。
 二十五日の午前五時、アメリカ国旗を掲げて宮古湾へ侵入することに成功した「回天」は「甲鉄」に突進すると、おもむろにアメリカ国旗を降ろし、日章旗を掲げた。そして五六ポンド砲を乱射しながら、「甲鉄」の右舷へのしかかるように艦首を接舷した。外輪船である「回天」は「甲鉄」の舷側に対して並行に接舷できないのだ。
 ここまではとりあえず奇襲成功である。ところが、またもや思わぬアクシデントが「回天」を襲った。いや、これは調査不足、認識不足といった方が正しいのかもしれない。舷側の低い「甲鉄」の甲板と、艦首の高い「回天」との高低差が三メートルほどもあったのである。予想以上の高低差に斬り込み隊は突入を躊躇した。
 業を煮やした司令官荒井郁之助と艦長甲賀源吾は「アボルタージュ」と怒号を発した。この声に「回天」一等測量士の大塚波次郎が「甲鉄」の甲板へ真っ先に飛び下りた。続いて軍艦役の矢作沖麿、彰義隊の笹間金八郎、加藤作太郎、伊藤弥七、新選組の野村利三郎、海兵の渡辺某などが次々に飛び移っていった。
 しかし、「甲鉄」の甲板に据え付けられていたガットリング砲の射撃を受け、斬り込み隊が次々に撃ち倒された。ガットリング砲とは六本の銃身を束ねた一種の連発銃で、後部のハンドルを回すことにより六本の銃身が回転し、自動的に装填と発射を繰り返す仕組みになっていた。発射速度は毎分約一五〇発以上。機関銃が登場するまで破壊的な威力を誇った。ところが、「甲鉄」にはガットリング砲が搭載されておらず、乗員による小銃の乱射だったという説もある。
 その真偽はさておき、「甲鉄」艦上で四人が討たれ、「回天」艦上でも多くの戦死者が出たのは事実である。本作戦を提案した艦長甲賀源吾はこめかみを撃ち抜かれて戦死、他に一三名が射殺され、三〇余名が負傷した。政府軍側の損害は「甲鉄」で戦死一名、負傷一一名、「飛龍」で負傷者六名、また、「回天」からもっとも射撃しやすい位置にあった「戊辰」は戦死三名、負傷一二名、行方不明五名という新政府軍の中で最大の損害を出した。
 奪取作戦の失敗は明らかだった。荒井郁之助は無念の撤退を命じ、「回天」は機関後進、「甲鉄」から離れると一路箱館への脱出を図った。激闘、わずかに三〇分の出来事であった。
「回天」は宮古湾を出たところで、機関を修復した「高雄」と合流した。しかし、船足の遅い「高雄」は「春日」と「甲鉄」の追撃を受け、羅賀海岸に乗り上げて自焼した。乗員は上陸して逃走を図り、後に津軽藩に降伏した。
 行方不明だった「蟠龍」は、荒天時の集結場所と定められていた鮫港にいた。二十五日まで待機していたものの僚艦は姿を現さず、単艦宮古湾へ向かっているところに逃走中の「回天」と合流し、二十六日に箱館へ帰還した。
 荒天による艦隊の散開が作戦失敗の最大の要因であった。「甲鉄」の舷側に接舷可能な「蟠龍」「高雄」が一隻でも同行できていれば、作戦の帰趨はどうなったかわからない。榎本艦隊には、悪天候の不運が品川脱走のときからついてまわった。海が荒れる秋季から冬季にかけて行動しなければならなかった不利が、悪い方へ悪い方へと転がったのであった。

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宮古湾海戦(7) 宮古湾奇襲作戦の立案

 三月九日、「甲鉄」「春日」「陽春」「丁卯」「戊辰」「豊安」「晨風」「飛龍」の八隻で編成された新政府艦隊は海軍参謀に任命された増田虎之助に率いられ、品川沖から一路北上の途についた。しかし、新政府艦隊もまたは幾度の暴風雨に見舞われ、バラバラになって宮古湾へ入港した。注目の「甲鉄」が宮古湾へ入港したのは、三月十八日のことであった。
 政府軍艦隊の動向はただちに蝦夷軍の密偵から五稜郭へ報じられた。榎本らは衝撃を受けたものの、「甲鉄」の対抗策を講じなければ新政府軍の侵攻を阻止することができず、蝦夷共和国の将来はなかった。軍艦一隻の存在が一国の存在を左右するというのは極端な判断であるかもしれないが、またこれは、制海権をめぐる海軍戦略の究極形であったともいえる。
 ここで「回天」艦長甲賀源吾が妙案を披露する。宮古湾は数隻の船を収容しうる良港であるから、新政府艦隊は必ずここに立ち寄るであろう。その不意をついて「甲鉄」を奪取すべし。願わくば「回天」一隻だけでも許されるならば、これを試みん。
 普段寡黙な甲賀の熱烈な提案に榎本はただちに軍議を開き、諸士の合意を得た後、蝦夷軍の軍事顧問であったフランス軍人のブリュネらに図った。
 ブリュネは元幕府軍の軍事顧問団の一人で、本国の帰国命令に従わず榎本の品川沖脱走から箱館まで同行した。当初はブリュネとカズヌーヴの二人であったが、仙台でフォルタン、マルラン、ブッフィエの三人が合流し、さらにニコール、コラッシュ、プラディエ、クラトー、トリボーの五人が箱館で加わった。
 彼らも甲賀提案の宮古湾奇襲作戦を検討し、「敵艦隊に対する攻撃こそ最大の防御となる」と結論した。かくして、甲賀源吾の建案である宮古湾奇襲、「甲鉄」奪取作戦が採決された。具体的には、「回天」「蟠龍」「高雄」の三艦をもって奇襲攻撃隊を組織し、外国旗を掲げて宮古湾へ侵入、攻撃直前に日章旗に改めた後、「蟠龍」と「高雄」が「甲鉄」の左右に接舷し、斬り込み隊を送り込んでこれを拿捕、「回天」は他艦の攻撃に備えるというものであった。
 接舷斬り込み、いわゆる「アボルタージュ」はこのとき初めて日本で実施された画期的な戦法のような表現がよくなされているが、敵艦に斬り込んで拿捕するという戦法は洋の東西を問わず古来より行われてきたものであり、最近では箱館戦争に先立つアメリカ南北戦争でもしばしば試みられていた。前近代海戦のスタンダードともいえる。よって、これを無謀な突撃と決めつけることはできない。むしろ、前年に「開陽」と「春日」の間で行われた洋上砲撃戦(阿波沖海戦)の方が、よほど画期的な海戦であった。
 宮古湾奇襲はかなり冒険的な作戦であるが、これに成功すれば、彼我の制海権は再び逆転する。よしんば「甲鉄」の奪取に失敗したとしても、使用不能な状態まで破壊することができれば、目的を達成できると判断したようだ。まさに旅順・青島・真珠湾と、後の日本海軍の伝統ともいえる敵港湾奇襲攻撃に通じるものがある。
「開陽」喪失後、蝦夷海軍の主力となったのが「回天」であった。速力一二ノットのプロイセン製木造外輪機帆船で、艦砲一九門を装備し、「開陽」が登場するまでは日本における最強の軍艦であった。そして「蟠龍」はもともとイギリス皇室のヨットで、砲六門を装備した三七〇トンの小型艦、「高雄」は旧幕府軍が蝦夷に上陸した際、箱館で捕獲した秋田藩の蒸気船で、砲五門を装備していた。

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宮古湾海戦(6) 彼我の海軍力を逆転させた軍艦「甲鉄」

「開陽」の喪失により、蝦夷軍(旧幕府軍)と新政府軍の海軍力はほぼ拮抗することとなった。シーパワーの優勢を保持することによって新政府と互角の立場に立とうとした榎本の戦略は、大きく揺らいだ。ここで1隻の軍艦が大きくクローズアップされる。横浜にあったアメリカ軍艦「ストーンウォール」である。
 同艦は慶応元年(一八六五)、徳川幕府がアメリカから購入した軍艦であったが、慶応四年(一八六八)四月二十三日、日本へ回航されたときには購入先の徳川幕府はすでに大政を奉還、戊辰戦争が勃発していた。このため、局外中立を表明していたアメリカ政府は「ストーンウォール」の引き渡しを凍結していたのであった。
 十月二十六日、新政府は諸外国に対して奥羽平定を報じた後、中立解除の折衝を各国公使と数次に渡って重ね、十二月二十八日、ようやく解除を取り付けた。アメリカも他国にならって中立を解除し、「ストーンウォール」を新政府側に引き渡した。明治二年(一八六九)一月六日のことであった。同艦は「甲鉄」と命名され、ただちに新政府軍に編入された。これでようやく新政府軍はシーパワーの逆転に成功し、蝦夷侵攻を可能ならしめたのである。
 前述したとおり、新政府軍が蝦夷へ兵を進めるには、海上からの着上陸侵攻しか手段がない。新政府軍は明治二年の春を待って蝦夷攻略を進めるつもりでいた。荒天が続く厳冬の蝦夷渡洋が無謀きわまりないと判断したからに他ならず、また、東北戦争が終結したばかりで侵攻兵力も整っていなかったからである。
 新政府軍が投入した蝦夷侵攻兵力は最終的に八〇〇〇を数えるが、保有する艦船をもって一度に渡洋させることができる兵力は一五〇〇~二〇〇〇だった。しかも上陸軍の後続兵力投入と補給を確実なものとするには、蝦夷海軍からシーパワーの優位を奪い、本土から蝦夷に到るシーレーンの安全を確保することが必要だった。
 しかし、蝦夷側に「開陽」が存在する限り、新政府側がシーパワーを確保することはきわめて困難だった。少なくとも海軍力を互角に持ち込むためには「甲鉄」の入手が不可欠だったのである。
「開陽」健在ならば洋上決戦もありえただろう。「甲鉄」の優位点は全周を護る装甲と、威力と速射性を誇るアームストロング砲である。一方、「開陽」は砲門数で圧倒し、優速を誇っていた。また、榎本は新政府側への「甲鉄」売却を知るや、対「甲鉄」用の徹甲弾を開発していた。「開陽」が優速をもって「甲鉄」の背後に占位し縦射を加えれば、縦防御の「甲鉄」も苦戦を免れなかったとも考えられる。
 さらには、南北戦争中に起きた一八六二年のハンプトン・ローズ海戦で、木製船体に装甲を張り巡らした装甲艦「バージニア」が被弾したとき、そのひどい衝撃で乗員の耳や鼻から出血したという戦訓があった。まさに「甲鉄」はそのタイプの装甲艦であり、多量の被弾があれば、装甲を貫通しなくても艦内で思わぬ損害となり得たのである。
 よって「開陽」が存在する限りは、新政府側が「甲鉄」を手に入れたとしても、決してシーパワーの優位とはなり得なかった。しかし、その前に蝦夷側が「開陽」を座礁沈没したことで、新政府軍は大きなリスクを負うことなくシーパワーの逆転を図ることに成功したのであった。これは、新政府側にとっては僥倖というしかない。
 もし「開陽」座礁がなければ、新政府軍としては海軍の拡充を待って蝦夷侵攻か、外交手段による孤立化によらなければ蝦夷政権を崩壊させ得なかった。しかし、これらの手段では二重政権状態の長期化は避けられない。あるいは大きなリスクを承知で蝦夷侵攻を強攻するしかないが、もし新政府側が侵攻作戦に失敗すれば諸外国が蝦夷側の支援に回り、政権が確立してしまうおそれもあった。

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宮古湾海戦(5) 軍艦「開陽」の喪失

 箱館を占領した旧幕府軍は、蝦夷から新政府勢力を一掃するため、松前城の攻略に乗り出した。松前藩は当初、奥羽越列藩同盟に加盟していたが、八月に起きた勤王派のクーデターにより、新政府側に転換していたのである。土方率いる攻略隊は十月二十八日に函館を発ち、松前口を進んで十一月五日に松前城を総攻撃、これを落城させた。この間、軍艦「蟠龍」は松前勢に艦砲射撃を加え、また「回天」とともに津軽海峡を渡って青森の津軽家に建白書を届けるなどしている。他の艦船も輸送や榎本ら要人の移動に使われていた。蝦夷から東北にかけての制海権は旧幕府側にあったわけである。
 松前攻略後は、海岸沿いに江差方面へ後退する残敵の追撃戦であった。松岡四郎次郎率いる一隊も、松前城を逃れ館城に立て籠もった松前藩主松前徳広を追討すべく、十一月十日に箱館を発ち、二股口を進んだ。十一月十五日、松岡隊は館城を攻略。同日、海道沿いに追撃してきた土方隊も江差を占領した。松前藩兵は海路本土へ脱出し、これにより旧幕府軍は蝦夷地を平定したことになる。
 この日、榎本は陸軍の進撃を支援すべく「開陽」を江差沖へ進めた。一説には、陸軍の連戦連勝の報を耳にして、また「蟠龍」や「回天」が出撃する一方、箱館に留め置かれて欲求不満を募らせた「開陽」将兵が出撃を熱望したため、榎本は出撃を認めたのだという。ところが、残敵掃討戦にすぎない江差攻略に「開陽」を出撃させた榎本のちょっとした私情が、取り返しのつかない事態を招くこととなった。
 江差沖は夕方になって急激に天候が悪化し、激しい暴風雪となった。停泊していた「開陽」は浅瀬に流されて座礁し、三日間激しい風浪に弄ばれた末、ついに放棄のやむなきに到った。さらには救援に向かった「神速」も座礁、喪失の運命をたどり、旧幕府海軍は戦わずして二隻の軍艦を江差で失うことになったのである。
「開陽」の喪失は旧幕府軍にとって大きな衝撃だった。「爾来品海及房総辺に於て威力を逞せし実に皇国無二の戦艦なりしに不幸にして此の如きに到る衆人暗夜に燈を失ひしに等し可惜」と、江差奉行だった小杉直道は回顧録『麦叢録』に悔恨の情を記している。「江差で大砲を二、三発ぶっ放して帰ってくるつもり」の気軽な出撃だったというが、爾後の政戦両局を左右する、きわめて大きな代償となってしまった。
 十二月十五日、旧幕府軍は箱館の砲台及び軍艦から一〇一発の祝砲を放ち、全島平定を祝った。また、士官以上の入札(選挙)によって政府閣僚を決定し、新政府を樹立した。蝦夷政権の誕生である。総裁となった榎本は「開陽」喪失の失点を取り戻すべく、その巧みな外交手腕と国際法の知識を駆使して諸外国と交渉し、デ・ファクトを認めさせることに成功した。これにより、蝦夷政権は明治新政府との正当な交戦権を得たことになる。
 しかし蝦夷政権は、新政府軍を凌駕していた海軍あってのものだった。「開陽」は蝦夷政権の象徴となるはずだった。前述したとおり、シーパワーの優勢はひとえに「開陽」の存在にかかっていた。その喪失は、これまで中立的立場を保っていた諸外国の態度を一変させるほど大きなインパクトがあった。諸外国は蝦夷政権を認めたかわりに、中立を解除して新政府への援助を開始したのである。

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宮古湾海戦(4) 旧幕府軍の蝦夷防衛戦略

 箱館を制した榎本もまた、ここを蝦夷開拓の拠点とすべく、五稜郭に行政府を置いた。箱館を護る五稜郭は、奉行所を兼ねた箱館防備の要として、箱館中心地から北方の亀田に構築された。五つの稜堡と一つの半月堡からなる星形の洋式堡塁であった。それぞれの稜堡は隣接する稜堡を射線でカバーしており、死角のない構造となっていた。
 洋式堡塁の構造としては完璧な五稜郭であったが、問題は東西両海岸から約二・五キロに位置しており、海岸から五〇〇メートル以内に軍艦が接近すれば、沖合から艦砲射撃を加えることができる、ということだった。幕末期における対外戦争や長州戦争などの経験から、強力な艦載砲を多数装備した軍艦による地上への艦砲射撃はきわめて有効であると判断されていた。当然のことながら、艦砲射撃の射程圏内にある五稜郭を防備するためには、軍艦の侵入を阻止するための台場を沿岸に構築する必要があった。
 箱館山麓の弁天岬には、箱館港の海上防備の要として弁天台場がつくられていた。箱館港内の築島および沖ノ口にも台場がつくられることになっていたが、予算不足のため完成を見ることはなかった。このため、弁天台場だけでは五稜郭を艦砲射撃の射程圏内に収めようとする軍艦の侵入を阻止しえず、海上防備はきわめて不完全な形のままで置かれることになった。これは、五稜郭に対する軍艦の艦砲射撃は海軍力をもって阻止するしかない、ということを意味していたのである。
 また、榎本は蝦夷において阿部正弘の政策をそのまま踏襲しようとしていた。すなわち蝦夷開拓の他、対外貿易による富国強兵策で蝦夷立国を図ろうとしていたから、少なくとも新政府軍に対する海軍力の優勢は、政軍両面での絶対条件だった。幸いなことに、旧幕府軍には新政府軍を凌駕する強力な海軍力、すなわち「シーパワー」があった。
 シーパワーが「平時・戦時にかかわらず、自国周辺海域やシーレーンにおける自国商船や軍艦等の航行を可能とする能力を維持し、反対に相手国の自由な航行を阻止する能力」であると示したのはA.T.マハンである。彼が著書『海上権力史論』の中でその概念を示したのが一八九〇年であるから、箱館戦争より二二年も後のことになる。
 当然のことながら、箱館戦争当時にはまだシーパワーの概念がなかった訳だが、圧倒的に優勢な旧幕府海軍は蝦夷へ航行する自由を有し、一方、新政府側はこれを阻止しうる能力を持っていなかった。旧幕府海軍のシーパワーが機能していたのである。
 新政府軍は圧倒的に優勢な陸軍を有するものの、それによって蝦夷の旧幕府勢力を打倒するには、海上からの上陸侵攻しか手段がない。しかも、新政府軍が保有する船舶では旧幕府軍以上の兵力を一度に輸送することはできず、補給も海上輸送に頼るしかない。
 旧幕府軍としては、上陸軍を載せた艦船をその直前に邀撃、撃砕すればよい。よしんば第一派の上陸を許したとしても、優勢な海軍力をもって新政府艦隊を叩き、後続・補給を断てば、上陸軍を蝦夷に孤立させることができる。よって、旧幕府軍がシーパワーの優勢を維持できる限り、新政府軍の蝦夷侵攻を阻止し得るはずであった。
 また、シーパワーは政治的にも大きな影響力を持っていた。諸外国が中立を維持していたのは旧幕府側が強力な海軍を保有していたからで、榎本はこれをバックに蝦夷開拓の承認を朝廷から受けるか、さもなくば蝦夷政権を樹立し、諸外国からデ・ファクト、すなわち政権の承認を得ることにより新政府と同等に立とう、という思惑があった。

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宮古湾海戦(3) 旧幕府海軍、江戸脱走

 江戸開城をよしとしない旧幕府軍の一部は再起の望みをかけ、あるいは最後の意地を見せるべく新政府軍に抵抗していた。五月十五日、上野に立て籠もった彰義隊は新政府軍の総攻撃により壊滅、東北に逃れ奥羽越列藩同盟に合流した旧幕府軍も、戦術に勝る新政府軍によって撃破されていった。
 江戸開城後も「開陽」を筆頭とする強力な海軍力を保持して、品川沖で新政府を威圧していた榎本であったが、それは徳川家と旧幕臣の善処を求めるためであった。新政府は五月二十四日、徳川主家の駿河七〇万石への転封を決定したものの、旧臣に対する沙汰はなかった。新政府軍の攻撃に苦戦する奥羽越列藩同盟からは、榎本に対してしきりに来援の催促が届いた。しかし、新政府に睨みをきかせ、徳川主家の成り行きを見届けるため、榎本は品川沖から動かなかった。
 八月十五日、先の決定通り徳川主家が駿河転封が実施され、これで榎本が品川沖に留まる理由はなくなった。榎本が艦隊を率いて江戸湾を脱走したのは、八月十九日のことであった。行き先は仙台松島湾である。列藩同盟軍の救援が表向きの目的であったが、脱走の本意が蝦夷渡航にあることを榎本は四月二十三日の時点で勝に表明していた。
 ところで、八月十九日は新暦の十月四日にあたる。台風シーズンの真っ盛りであった。案の定、榎本艦隊は八月二十二日に鹿島灘で暴風雨に遭遇し、離散の憂き目に遭う。当時、いったん視界外に離散してしまった艦隊は、当初定めておいた停泊地で再集結を図るしかない。この暴風雨で「美嘉保丸」と「咸臨丸」が失われ、残った六隻の艦船は三々五々、最初の停泊地としていた仙台・松島湾に集結した。いずれの艦船も損傷し、修理が必要であった。
 艦隊の集結を待つ間に、仙台藩、続いて会津藩が降伏、奥羽の大勢が決した。修理中、松島に旧幕軍と列藩同盟軍の残党が合流した。その中には、元陸軍奉行大鳥圭介や新選組元副長土方歳三もいた。仙台藩から輸送船「大江」と「鳳凰」を徴発し、榎本艦隊は再び八隻となった。
 ここで榎本は諸士に、北方防備と新天地開拓のための蝦夷渡航を明らかにする。集結した軍勢はいずれも敗残の兵ばかりであったが、新政府軍に一矢報いんとの士気高く、あるいは新天地に夢を託し、蝦夷渡航に合意したのであった。
 十月九日、榎本艦隊は旧幕軍の残党二五〇〇名を収容して松島を脱し、十月十三日に三陸・宮古湾へ到着した。ここは仙台と蝦夷の中継地として、官幕両軍の艦船だけでなく、外国船もひっきりなしに出入りしていた当時の要港であった。ここで燃料となる薪を補給した榎本艦隊は十月十八日、蝦夷へ向かった。
 幕末期、蝦夷は徳川幕府の直轄領であった。ところが、王政復古とともに箱館府が置かれ、榎本らが上陸したときにはすでに新政府側が管理する領地となっていた。府知事として公家の清水谷公考が派遣され、箱館郊外の五稜郭を行政庁としていた。そして箱館は貿易港として諸外国に開港された最北の要港であり、数多くの外国船が行き交う蝦夷の中心地であった。
 十月二十一日、新暦にしてすでに十二月であり、蝦夷の地はすでに雪の季節を迎えていた。旧幕府軍は白雪舞い、風浪吹きすさぶ中、箱館北方の鷲ノ木に上陸した。箱館への直接上陸を避けたのは、新政府軍との戦いで諸外国の船舶や居留民に被害を与えないためだったという。すでに国内に同調勢力のない旧幕府軍としては、諸外国との外交の成功が蝦夷で生き残るために必要だった。
 旧幕府軍は二手に分かれ、大鳥圭介率いる主隊は森から峠下へ続く本道を進み、土方歳三率いる支隊は沿岸沿いの道を川汲から迂回するルートをとって箱館に向かった。新政府側には約一二〇〇の守備兵力があったものの、清水谷公考は防備らしい防備もせず、箱館を放棄した。旧幕府軍はほとんど戦うことなく、二十七日までに箱館および五稜郭を占領した。

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宮古湾海戦(2) 旧幕府海軍をめぐる情況

 日本における海軍創設のきっかけは嘉永六年(一八五三)のペリー来航であったが、その必要性を最初に訴えたのが老中阿部正弘であった。阿部はすでに弘化三年(一八四六)の段階で、堅牢なる軍艦の建造と、それによる江戸のシーレーンおよび海岸防備の必要性を訴えた。だが、当時はその先見が聞き入れられることなく、ペリーの来航を迎えることとなる。
 阿部は開国とともに大船建造禁止令を解除し、海軍創設に乗り出した。安政二年(一八五五)、長崎に海軍伝習所を開校し、総督として勝麟太郎(海舟)を抜擢した。安政三年には海外貿易による富国強兵策を打ち出し、幕府近代化に奔走した。しかし、阿部は安政四年(一八五七)、志半ばで病死した。
 阿部の意志を継ぎ、具現化していったのが、阿部に抜擢された勝海舟だった。オランダに「開陽」の建造を発注し、あわせて榎本釜次郎(武揚)をはじめとする海軍留学生を派遣、神戸に海軍操練所を開設するなど海軍の基盤づくりに力を入れた。軍艦は諸国から買い付けた新旧雑多な艦船の寄せ集めではあったが、慶応三年(一八六七)の段階で幕府は一〇隻を有していた。諸藩がそれぞれ一、二隻程度の軍艦しか保有できなかったことを考えれば、他を圧する海軍力であった。
 慶応三年十二月の大政奉還により徳川幕府は事実上消滅したが、翌年一月、徳川勢力の一掃を目論む新政府とそれに反発する旧幕府の間で戊辰戦争が勃発した。新政府軍は鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を破り、江戸に迫ったが、西郷隆盛と勝海舟の会談により四月十一日の江戸開城が決定、併せて品川沖に停泊していた旧幕府海軍の艦船も、すべて新政府側へ引き渡されることになった。
 当時、新政府海軍が有していた軍艦は「春日」「乾行」(以上薩摩藩)「丁卯」(長州藩)「電流」「孟春」(以上肥前藩)の諸藩からかき集めた五隻で、いずれも外国から購入した中古船だった。数の上でも、性能的にも旧幕府側に劣る新政府側が、政治的に幕府海軍を接収しようとしたことはいかにも納得できる。
 だが艦隊は、旧幕府側が江戸城を明け渡した後、新政府に対して有利に事態を進めうる唯一の切り札である。榎本は新政府側への引き渡しに難色を示し、全艦を引き連れて安房館山沖へ脱走した。
 事態を憂慮した勝は館山まで出向き、榎本を説得して品川沖へ帰還させた。折衝の末、榎本はようやく四月二十八日に「観光」「富士山」「朝陽」「翔鶴」の旧式艦四隻を新政府側へ引き渡した。これにより、旧幕府海軍の保有艦船は「開陽」「回天」「蟠龍」「千代田形」の軍艦四隻、「咸臨丸」「長鯨丸」「美嘉保丸」「神速丸」の輸送船四隻、合わせて八隻に減少した。それでも新政府海軍は旧幕府海軍に対抗することができず、手をこまねいていた。
 旧幕府海軍を強力たらしめていたのは、ひとえに「開陽」の存在であった。
「開陽」はオランダで建造され、榎本自身が日本へ回航してきた、当時の日本における最大かつ最強の軍艦である。二六門の艦載砲を有し、幕府・諸藩が保有していた艦船の中で圧倒的な火力を有していた。その存在は特に海軍力の重要性を理解していた諸外国にも一目置かれ、維新戦争において諸外国の中立を維持させるという、大きな政治的影響力も持ちあわせていたのである。

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宮古湾海戦(1) シーパワーが決した箱館戦争

 明治維新の最終章、明治元年~二年(一八六八~九)にかけて南蝦夷(北海道南部)を舞台にした箱館戦争は、五稜郭が大きく注目されたために陸戦が中心だったように思われがちだが、実のところ、彼我のシーパワーが戦局を決した日本最初の戦いだった。
 旧幕府海軍副総裁榎本武揚は、旧幕府艦隊を率いて箱館に上陸、蝦夷共和国の樹立を図った。しかしそれは、軍艦「開陽」を中心とした新政府軍を凌駕するシーパワーあってのものだった。「開陽」の遭難とアメリカ軍艦「ストーンウォール=甲鉄」の新政府軍への売却により、彼我のシーパワーは逆転した。
 明治二年三月二十五日、蝦夷海軍(旧幕府海軍)はこの再逆転を図るべく、宮古湾を襲撃して「甲鉄」を奪取しようとした。いわゆる「宮古湾海戦」であるが、数々のアクシデントが重なり、蝦夷海軍の雄図は失敗に終わった。土方歳三と新選組の登場、敵艦斬り込みという展開から、ともすれば単なる「討ち入り」「殴り込み」的発想で実施されたような印象を受ける宮古湾襲撃であるが、その背景には「シーパワー」「制海権」という海軍戦略の根本があったのである。

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