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2008年11月

2008.11.29

黒船来航(3) 幕府屈服の理由

 ペリーに先立つ七年前の弘化三年(一八六四)閏五月、すでにアメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが通商を求め、軍艦二隻を率いて浦賀に来航していた。この時は穏便に対処して事なきを得たが、ときの老中阿部正弘は、幕府実力者である水戸藩の徳川斉昭に宛て書簡を提出した。ビッドル来航の直後、同年七月八日付の書簡である。
「今や黒船撃攘の令を発するも必勝を期するべからず。若し然らんには日本の恥辱となるべし。日本の小船にては黒船に対して攻戦し得ざるのみならず、第一彼の為に江戸近海の通路を絶たれ、糧食欠乏に至るべし。因って先ず堅牢なる軍艦を製造し、海岸防備を厳にせざるべからず、是れ今日の急務なり」
 江戸幕府がペリーの黒船に屈して開国した理由は、まさにこれだったのである。幕府の首府であった江戸の経済流通は、主に海運によって成り立っていた。このシー・レーンを遮断するには、数隻の軍艦で江戸湾口を封鎖すればよかった。対抗しうる海軍力がまったくない江戸幕府にしてみれば、これは文字通り死活にかかわる問題だった。
 阿部はすでに七年も前から黒船の真の脅威を警告していた。また、ペリー来航の報はオランダ等からも伝えられ、幕閣内ではすでに周知のことであった。にもかかわらず、幕府としては何ら具体的な対応を実現することができず、その脅威が現実となった。
 海軍力の根幹となる軍艦というものは、戦わずしてその戦力を発揮することのできる戦略兵器である。軍艦の性能的な優劣は相対的なものに過ぎず、相手に対抗しうる軍艦がなければ、それは決定的な戦力差となる。しかも、その威力は隻数に乗じてアップする。
 一、二隻程度の軍艦なら対応できるとふんでいた江戸幕府は、軍艦四隻、翌年には九隻という空前の大艦隊を日本に送り込んできたアメリカの海軍力に、ただ畏怖するしかなかった。ペリーの勝利は、まさに海軍戦略を駆使しての勝利であった。
 そして日本人は初めて、海軍力というものが国家戦略そのものを左右する程、強力なものであることを実感させられたのである。


(初出:学研「歴史群像」2004年2月号 No.63)
参考文献:『船の科学館資料ガイド4 黒船来航』(船の科学館)/原剛著『幕末海防史の研究 全国的にみた日本の海防態勢』(名著出版)/佐藤正夫著『品川台場考 幕末から現代まで』(理工学社)ほか

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2008.11.28

黒船来航(2) ペリー艦隊の実態

 では、その江戸幕府を震撼させたペリー艦隊の実力とは、いかなるものだったのであろうか。
 ペリー艦隊の旗艦「サスケハナ(Susquehanna)」は西暦一八五〇年十二月二十四日、フィラデルフィア海軍工廠で竣工した。水線長七六・二メートル、満載排水量三八二四トン、乗員約三〇〇名、外輪式の蒸気フリゲートだった。当時の日本で最大の千石船は約二〇〇トン程度しかなく、日本人の感覚からすれば、二〇倍近く巨大な蒸気船であったということになる。
 備砲は一〇インチ砲が三門、八インチ砲が六門で、いずれも前装滑腔砲であったが、炸裂弾を発射できた。日本ではこれを開発者であるフランス軍人ペキザンの名を取り、ペキザン砲と呼んでいた。浦賀奉行所の与力中島三郎助は同艦を訪問した際にこの砲の存在を確認し、ペリー艦隊への対抗を断念したともいう。幕府は黒船の来航に備え、諸藩に命じて江戸湾の各地に台場を築き、多数の大砲を配備していたが、いずれも射程が短く、炸裂弾を発射できない旧式の青銅砲であった。
「ミシシッピ(Mississippi)」は一八四一年十二月二十二日、フィラデルフィア海軍工廠で竣工した。水線長六七・〇六メートル、満載排水量三二二〇トン、乗員約二六〇名の、「サスケハナ」より一回り小さい外輪式の蒸気フリゲートだった。備砲は一〇インチ砲二門、八インチ砲八門であった。
 江戸幕府の度肝を抜いた蒸気軍艦「サスケハナ」と「ミシシッピ」だったが、動力は外輪式であり、実のところ、すでに二線級の域に達しつつあった。
 外輪式蒸気船は石炭を燃やしてボイラーで蒸気を発生させ、その蒸気で機関を動かし、船体両側面にある外輪を回転させて、推進力としていた。しかし、これは非常に燃費が悪く、実質的には港湾の出入りや海面が凪いでいる時しか使用できなかった。外洋航海の大半は帆を張り、風力で帆走していたのである。しかも、英仏などの欧州で主流となりつつあったスクリュー式の蒸気軍艦に比べて鈍重であった。
 また、ペリー来航の年に勃発したクリミア戦争では、舷外に張り出した巨大な外輪が格好の標的となり、砲撃で外輪を破壊され、航行不能となった艦が続出、その弱点を露呈していた。
 このように、ペリー艦隊は当時の海軍力としては凡庸なものにすぎなかった。にもかかわらず、江戸幕府にとっては圧倒的な脅威となり、開国のやむなきに至った。それはなぜか。

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2008.11.27

黒船来航(1) 黒船がやってきた!

 江戸時代、日本では欧米の艦船のことを総じて「黒船」と呼んだ。当時、欧米の艦船はいずれも防腐・防水のため、船体に黒色のタールを塗布していたからである。だが多くの場合、黒船といえば今から一五〇年前に日本へ来航し、開国のきっかけとなったマシュー・C・ペリー提督に率いられたアメリカ艦隊のことを示している。
 嘉永六年六月三日(西暦一八五三年七月二日)、ペリーが率いる米東インド艦隊の軍艦「サスケハナ」「ミシシッピ」「プリマス」「サラトガ」の四隻が、江戸湾の入口である浦賀沖へ姿をあらわした。「サスケハナ」と「ミシシッピ」は蒸気フリゲート、「プリマス」と「サラトガ」は動力を持たぬ帆走スループだったが、蒸気船の二隻が動力を持たない二隻を曳航し、全艦が帆走せずに自由に航行する姿を幕府に誇示した。
 浦賀奉行所の与力中島三郎助は「サスケハナ」に乗り込み、外交窓口である長崎への回航を通達したが、ペリー側はこれを拒否、軍事力の行使も辞さずとの強硬な態度に出た。交渉の結果、国書の受領は久里浜にて行われることになった。ペリーは幕府が外交窓口と定めていた長崎以外の地、久里浜でアメリカ大統領の国書を浦賀奉行戸田伊豆守を手渡し、その目的を達成した。海軍力を背景とした砲艦外交成功の瞬間であった。
 久里浜で国書を渡したペリーはその後、江戸湾を北上、艦隊は小柴沖(現在の横浜市金沢区)で停泊し、ペリーはさらに「ミシシッピ」で江戸近郊の羽田沖まで北上した。このようなペリー艦隊の示威行動に対し、幕府は各藩に江戸湾の警戒を厳にするよう命じることしかできなかったのである。

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2008.11.02

坂本龍馬

歴史を変える為に生まれてきた男

「歴史は俺たちに何をさせようとしているのか」とは、映画『戦国自衛隊』のキャッチフレーズであった。現代から戦国時代に送り込まれた主人公は死の直前、自らがその別世界における歴史を大きく変えた人物、我々の歴史上における織田信長の役割を果たしたことに気づく。
 歴史が大きく変化しようとするとき、なぜか歴史は自らの変化に必要な人物を生み出してくる。戦国時代の歴史を変えるために生まれてきた人物が織田信長であったとすれば、幕末の歴史を変えるために生まれてきた人物は坂本龍馬であったといえる。歴史を変えたこの二人に共通すること。それは当時の常識では計り知れない、スケールの大きな発想力であった。

攘夷の中で勝海舟に出会い、世界を知る

 土佐藩の郷士の家に生まれた龍馬は、姉乙女に頭の上がらない少年であった。その少年が剣士になることを夢見て江戸に旅立ったのが一九歳のとき。京橋の千葉定吉門下に剣術を学ぶ。ときあたかも黒船が来航し、江戸中が大きく揺れ動く中、藩命により品川警備につく。「異国との戦あらばその首を取って国へ帰らん」と、そのときは龍馬も攘夷の空気に染まっていた一人であった。北辰一刀流の免許皆伝を得て帰国した龍馬は、武市半平太主導の土佐勤王党に入り、半平太とともに攘夷運動の先鋒に立つ。だが皮肉にも、その攘夷運動が龍馬を大きく変えることになる。半平太が押し進める一藩勤王の急進的な攘夷論に同意することができず、龍馬は土佐を脱藩する。
 龍馬が目指すべき世界を明確に提示したのは、幕臣勝海舟であった。天下の奸物だと聞き及んだ龍馬は海舟と面談し、その次第によっては叩き斬るつもりであった。海舟は自身の見聞にもとづいて世界の情勢を語り、日本の後進性を説いた。龍馬は海舟の話に深く敬服し、その場で門下生となる。幕府の神戸海軍操練所設立に協力、塾頭に抜擢される。しかし浪士まで入門させたとして幕命により操練所は閉鎖。海舟が失脚したことで、龍馬は操練所で出会った西郷隆盛を頼り薩摩藩に保護される。

薩長同盟、大政奉還を実現させるも、凶刀に斃れる

 海舟との出会いで大局的な国家観を持った龍馬は、隆盛の援助を得て長崎に亀山社中を設立し、海運と貿易に従事しつつ、政敵同士となっていた薩長の同盟締結に奔走する。長州の木戸孝充を説き、隆盛との会見を実現させて、ついに薩長同盟を結ばせた。龍馬が歴史を動かした瞬間であった。
 ここから歴史は龍馬とともにめまぐるしく動き出す。その原動力となったのは蒸気船だった。討幕派の結集に成功した龍馬は第二次長州征伐において長州海軍を指揮、幕府軍を破る。土佐の後藤象二郎と相知り、助力を得て社中を海援隊と改称。業務を発展させて討幕派の武装強化に寄与する。幕府の政権返上、朝廷中心の大名会議による統一国家構想「船中八策」を象二郎に託し、これを元にした大政奉還建白書を前土佐藩主山内容堂が将軍徳川慶喜に提示。薩長同盟締結からわずか二年足らずで、武力倒幕によらない大政奉還を実現させたのであった。
 その一ヶ月後、京都で盟友中岡慎太郎と共に暗殺され、龍馬の歴史的役割は終わりを告げる。結局新政府は武力倒幕を実施。果たしてこれは、龍馬の目指すものだったのだろうか。

[初出:宝島社「別冊宝島」シリーズ『よみがえる幕末伝説』]

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鳥羽伏見の戦い(7) 維新を決した鳥羽伏見戦争

 十二月二十八日、大坂に江戸での一報が知らされた。これまで慶喜によって何とか抑えられていた幕兵と会桑藩兵の憤懣が一気に爆発し、「討薩」の声が城内に満ち満ちた。 せっかくここまで政治的交渉によって有利な情勢にもってきた慶喜はもちろん挙兵に消極的であったが、臣下の声を抑えきることができず、「討薩表」に署して、とうとうその出陣を認めてしまった。
 幕府側の御所制圧作戦の要旨は、大目付滝川具挙が保有していたという軍配書によると次の通りである。
 佐久間近江守の率いる幕兵二〇〇〇名と砲四門、会津兵四〇〇名と砲三門、高松兵三二〇名は大坂を進発し、会津別邸がある京都東部の黒谷へ向けて進む。
 同じく大坂を進発した高力主計頭率いる、幕兵二〇〇〇名と砲二門、会津兵四〇〇名と砲三門は京都南東の大仏に進む。
 これら大坂からの進撃に呼応して、大津からは福王駿河守の率いる幕兵一〇〇〇名が京都三条大橋まで進撃、以上の兵力をもって御所の東南部を制圧する。
 二条城には大久保主膳正の率いる幕兵二〇〇〇名と砲四門、見廻組四〇〇名が進み、留守居の本国寺組二〇〇名と合流して、御所の西側を制圧する。
 伏見には城和泉守の率いる幕兵一〇〇〇名と砲四門が進撃、奉行所に駐屯している幕兵一〇〇〇名及び新選組一五〇名と合流し、同地を制圧する。
 竹中重固の率いる幕兵二〇〇〇名と砲二門、桑名兵一六〇名と砲六門は鳥羽街道を進撃し、鳥羽を経て京都市中の東寺に向かう。
 また、淀には本営が置かれ、大多喜藩主松平豊前守が手兵一二〇名と共に入る。その後方の橋本には、小浜藩主酒井若狭守と忍藩主松平下総守の兵力(不明)が配置につくことになっていた。
 以上が京都方面に展開する予定になっていた幕軍兵力であり、大津以外の部隊は鳥羽街道を進撃することになっていた。残る兵力は大坂周辺を警戒することになっていた。
 基本的には、京都市中に進撃する主兵力約一万が攻撃前日までに所定の位置に展開し、御所を包囲することになっていた。史実の進撃スケジュールから予測すると、御所に対する攻撃開始日は慶応四年(一九六八)一月四日ないしは五日であったろう。また、伏見以南に展開する兵力は予備となって大坂~京都間の要所を制し、慶喜が上洛するルートを確保するのである。
 こうしてみると、幕軍は薩長軍が御所に立て籠もるだろうという前提の下に作戦計画を立てていたことが判る。薩長軍の持つ前装式のミニエー銃よりも新型の後装式シャスポー銃を配備している幕軍の前に、薩長軍はそうするしかないと予測したのである。だから、もし薩長軍が御所から打って出てきても、野戦で撃破できるという自信があった。
 年明けて一月二日、幕軍は「討薩表」を掲げた大目付の滝川播磨守具挙を先頭に、鳥羽街道を進撃した。その数一万。しかし戦闘態勢をとらず、序列も定めぬままの、長蛇のごとき進撃であった。もっともこの時点では、慶喜はこれが失策だったとは考えていない。幕兵の京都への進撃は、大久保党に対する一大デモンストレーションでもあった。この大デモ隊が御所を囲み、「討薩表」を朝廷に提出した後、慶喜が堂々と上洛しようというのであった。上京した後に大久保党の策謀が明らかになれば、粛清も容易となろう。
 一方、大久保党も幕軍大坂出陣の報を受け、兵力を繰り出した。彼我の兵力差は圧倒的であり、旧幕軍とまともに会戦しても勝算はない。前述したように、戦前の幕軍は近代化に成功した精鋭と過大評価されていた。また戦略的見地からして、古来より京都市中に優勢な敵兵力が入ってしまったら防御は不可能である。京都盆地の外郭域で、正面兵力差を少なくとも互角に持ち込めるような、防御に適した地域を戦場に選定しなければならなかった。
 大坂~京都間にある防御戦の好適地といえば、鳥羽であった。ここは大坂と京都を結ぶ主要道である鳥羽街道が走り、宇治川と桂川に挟まれた幅一キロほどの平坦な狭隘地で、川の対岸から砲撃される危険性はあるが、歩兵戦力が戦術的に迂回してくるおそれはない。少兵力でも十分に火力を発揮でき、防御戦に適している。
 薩軍は鳥羽街道を封鎖するように、小枝から油小路にかけて、薩兵四八〇名と砲四門を横隊配備した。持ちうる火力を最大限発揮しようという布陣である。
 また、すでに幕府兵力が入り込んでいる伏見は、幕軍の主な駐屯地である伏見奉行所の区画を包囲するように兵力を配備した。その内訳は薩兵四〇〇名と砲九門、長州兵一八〇名、土佐兵二〇〇名である。鳥羽で幕軍主力を防備している間に、伏見にいる幕軍を先制火力制圧によって積極的に撃破しようという構えであった。ただ、土佐兵は伏見を警護せよという勅命でやむなく薩長軍に同行したものであり、幕軍と戦うつもりはなかった。
 一月三日、幕薩両軍は下鳥羽の赤池で接触した。薩軍は街道を封鎖し、一歩も通さぬ構えであった。これを見た滝川は薩軍の推原小弥太と押し問答を繰り広げた末、午後五時頃、強引に通過しようとした。すでに西郷は推原に発砲の許可を与えていた。滝川を先頭とした旧幕兵が前進を開始したのを確認した推原は、薩軍に発砲を命じた。
 戦場では、ときに喜劇のごとき痴態が現実のものとして展開される。このときの滝川がまさにそうだった。薩軍の砲弾が砲車に命中、これに驚いた滝川の馬が彼を振り落とし、後続を蹂躙しながら鳥羽街道を南に狂奔したのである。これに巻き込まれた幕兵は大混乱に陥り、中には銃を放り出して敗走した。戦わずしての主力崩壊である。
 また、幕軍先鋒は鉄砲を持たず、なすすべもなく薩軍に一方的に制圧されていた。幕軍が鉄砲隊を展開したときにはすでに日が落ちており、有効な火力発揮ができなかった。
 伏見では、鳥羽方面からの砲声を聞いた御香宮の薩軍が伏見奉行所に砲弾を叩き込み、ここでも戦闘が開始された。奉行所に陣していたのは、精鋭をもって恐れられた新選組であったが、それは鉄砲を持たぬ志士相手の話であった。
 戦いの指揮を執っているのは副長の土方歳三だった。総長の近藤勇は過日の狙撃事件で肩を負傷し、大坂に後送されていた。新選組は奉行所の門を開き、薩軍が陣する御香宮に突撃をかけた。だが刀槍のみの新撰組は薩軍の激しい火力に制圧され、御香宮の壁に取り付くこともできない。再三突撃を試みたが、街路に屍を晒すばかりの結果となり、ついに撃退された。
 翌四日、明治天皇は仁和寺宮嘉彰に錦旗と節刀を賜り、征討大将軍に任じた。この日の戦闘は幕軍も健闘して一進一退の攻防となったが、錦旗が登場すると、幕軍に大きな衝撃を与えることになった。勅を奉じた薩長軍は「官軍」となり、幕軍は「賊軍」となったことで、この戦いを私戦として不参加の構えを見せていた土佐藩や傍観していた芸州藩も官軍に加わった。この時点で戦いの趨勢はほぼ決したといってもよい。
 戦闘三日目の一月五日、幕軍は淀城で態勢を立て直そうとしたが、淀藩兵の入城拒否に遭い、最終日となる六日には桂川対岸に布陣していた津藩が幕軍を砲撃するに及び、幕軍はついに大坂へ敗走した。ところがすでにそのとき、徳川慶喜は海路江戸へ逃亡していた。朝敵となった衝撃があまりに大きかったためといわれている。
 かくして、鳥羽伏見戦争は新政府軍の勝利に終わった。だが大久保党にしてみれば、これはまったく予想外の大勝利だった。近代化された幕軍の兵力は圧倒的であり、常識的に考えれば勝てるはずのない戦さだった。だからこそ、戦闘が開始されたら、ただちに明治天皇を山陰方面へ密かに避難させるというようなことを第一に算段していたのである。ところがいざ戦ってみると、散兵戦術を駆使する薩長軍に対し、幕軍には戦場で作戦を指揮する将がおらず、予想以上の弱体を晒すことになった。
 また、勅命の持つ威力を見せ付けた戦いでもあった。勅命にこのような破壊力を持たせたきっかけが、幕府の勅許戦術だったのだから、なんとも皮肉な結果である。
 開戦直前まで、大久保党は絶望的なところまで追い詰められていた。おそらく徳川慶喜が最初の予定通り、薩長と戦うことなく議定職に就任し、これまで通り大久保らを理詰めで追い込んでいけば、情勢はまったく違う展開となったことであろう。
 しかし、余裕から生じたちょっとした誤算から、形勢は一挙に逆転してしまった。これが軍事的な趨勢だけでは判断できない、クーデターというものの意外性なのであろう。


(初出:学研「歴史群像」2004年4月号 No.64)
参考文献:大山柏著『戊辰役戦史(上巻)』(時事通信社)/佐々木克著『戊辰戦争』(中公新書)/小島慶三著『戊辰戦争から西南戦争へ』(中公新書)/家近良樹著『孝明天皇と「一会桑」』(文芸春秋)/歴史群像シリーズ53『徳川慶喜』(学研)ほか

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鳥羽伏見の戦い(6) 慶喜のカウンター・クーデター

 新政府=大久保党による王政復古クーデターは当然のことながら、二条城にいた徳川慶喜に衝撃を与えた。徳川慶勝と松平春嶽から幕府の廃止と辞官納地が通達され、城内の幕臣は沸騰した。とはいえ、慶喜の辞官納地は大政奉還実現の為に避けることのできない問題であり、そういった意味では、慶喜と新政府との間にまだ十分交渉の余地があった。
 だが、新政府と会桑両藩との間には、まったく妥協の余地はなかった。一方的に京都守護職及び京都所司代を罷免された松平容保と定敬は激怒し、ただちに兵を挙げんとした。さらに幕府旗本らも会桑に同調する勢いを示して、慶喜は鎮定に苦慮した。ここで大久保党の挑発に乗り、兵を挙げることは、慶喜側に何のメリットもなかった。朝廷に対して弓引く禁門の変の二の舞を、今度は幕府側が演じることになってしまうからである。
 十二月十二日、慶喜は新政府側との不慮の衝突を避けるため、容保と定敬の両者とともに兵を引き連れて二条城を発ち、翌十三日、大坂城に入った。情勢が沈静化するのを待ち、トラブルの元になりかねない会桑二藩をそれぞれ国元へ戻す為である、と慶喜は新政府側に通知した。
 この慶喜の下坂もまた、度々出てきた突然の独断であったが、これは戦略的に見て旧幕府側に有利な状況をもたらすことになった。大坂という畿内の一大策源地を確保したことにより、京都を経済封鎖することも可能となったのである。京都の主要流通路は、大坂から淀川を使っての舟運である。薩摩との主要連絡路も大坂湾経由であったことを考慮すれば、これはまさに大久保党の生殺与奪権を握ったに等しい。
 慶喜が大坂を確保した効果は、尾越両藩を介しての数次にわたる交渉結果に如実に現れてきた。新政府側は日を経るごとに譲歩し、納地辞官問題に関して、ついに強硬路線を放棄したのであった。具体的には、慶喜の辞官は朝廷の沙汰に従うこととするが、領地返納については諸侯一同の領地返納とあわせて行うことで決着をみた。さらに、慶喜の議定職就任をも認めたのである。
 これらの処置は、尾張、越前、土佐の勤王佐幕派諸侯と岩倉具視ら勤王派公卿によって決せられたものであり、大久保や西郷ら薩摩藩士は、ついにその主導権を握ることができなかった。クーデターには成功したものの、慶喜をめぐる事態は大久保党の手を離れ、皮肉にも大久保らが打破しようとしていた、諸侯主導の政治体制に軌道修正されようとしていたのである。これは、慶喜に強硬な辞官返納を求め続けていた大久保党が、新政権内の政争に敗北した事を意味していた。
 しかも戦略的には、クーデター後も大久保党に同調する勢力はなく、京都に孤立するような形になってしまった。あてにできる兵力は薩摩兵三〇〇〇名のみであった。このまま長期的な対峙が続けば、慶喜側の兵糧攻めのような形で、大久保党は戦わずして屈服を余儀なくされる恐れすら出てきた。
 政治的にも戦略的にも孤立し、追い詰められた大久保党がこの状況を打破するには、もはや軍事力の行使による旧幕府勢力の撃破しか残されていなかった。ここで朝廷を動かし、勅命によって慶喜を打倒しなければ、王政復古がご破算になりかねない。
 もはや後のない大久保は必死に岩倉を説得し、ついに決戦を認めさせた。西郷は江戸に過激藩士を送り込み、市中でテロ行為を頻発させた。幕府側を挑発し、開戦の口実を作るためである。
 一方、慶喜は大坂でじりじりと大久保党に対するカウンター・クーデターを進めつつあった。政軍共に有利な情勢にある慶喜側としては、慌てて事を進める必要はない。 クーデターで大久保党に朝廷を押えられてしまったものの、その後、尾越親藩や土佐藩の支援を得ての粘り強い交渉により、政治的には大政奉還直後の情勢にまで取り戻すことができた。
 そして軍事的には、大坂に引き下がったことで薩長と会桑の偶発的衝突を避けることができ、彼らを牽制する戦力を温存することにも成功した。さらに、江戸から来援した幕府兵や親藩譜代の諸藩兵が次々に大坂へ参集し、その総兵力は一万五〇〇〇名にまで膨れ上がったのである。
 幕軍の大半は大坂周辺に駐屯していたが、水戸藩右派の本国寺組二〇〇名と会津藩の編成した新選組一五〇名は依然として二条城に留守居として残っていた。しかし、本国寺組の大場一真斎と新選組の近藤勇はそりが合わず、新選組は十二月十四日に若年寄格の永井尚志とともにいったん下坂した後、同十六日には永井の命により伏見奉行所へ移動した。
 伏見奉行所には幕兵一〇〇〇余名が守備兵力として駐屯していた。伏見は京都市中への入口となる重要な橋頭堡であった。これを確保するため、大坂後退後も重点的に兵力が配備されていた。また、伏見は大坂からの水運による京都市中への入口という重要な拠点でもあったから、経済封鎖の意味も合わせて大坂後退後も重点的に兵力が配備されていたのであった。
 この他、京都方面に向けて淀、山崎、八幡の隘路に幕兵二五〇名、枚方付近に撒兵一六〇名が警戒兵力として配備されていた。
 このように、すべてがうまく進んでいるように思われた幕府側であったが、思わぬところで事態が急変した。江戸で頻発していた市中テロの下手人は薩摩藩であると幕府首脳が断じ、十二月二十五日未明、庄内藩に命じて薩摩藩邸を焼き討ちしたのである。ここに江戸と京都における情勢の認識に対する温度差が出てしまった。京都では薩摩を新政府勢力というヨコの関係で認識していたが、江戸では未だに幕府と藩という旧いタテの関係のままであるという認識だったのである。
 大久保党の思惑通り、慶喜のコントロールが及ばぬ江戸で幕府が挑発に乗ってしまった。新政府側の江戸領事館ともいうべき薩摩藩邸を焼き払ってしまったのだから、これは幕府を朝敵とする十分な口実になった。

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鳥羽伏見の戦い(5) 王政復古クーデター

 大政奉還という非常手段で徳川慶喜に機先を制される形となった大久保党は、主導権奪還を目指したクーデターの準備を開始した。
 一般に「王政復古の大号令」として知られるこのクーデターは、慶応三年十二月九日、摂関制と幕府制の廃止と、それに代わる天皇中心の新政府樹立を高らかに宣言したという、まるで平和裡に事が進んだかのような印象を受ける。だが実態は、徳川慶喜に主導権を握られた大政奉還後の政治状況を覆すべく、大久保党が薩摩藩兵を動員、決行した、起死回生のクーデターだった。
 大政奉還によって大久保党が目標としていた王政復古は実現した。たしかに政権は幕府から朝廷に返上されたものの、それは朝廷に政務能力のないことがわかりきった上での確信犯的な行為であった。そして案の定、朝廷は失敗し、幕府が政務を代行することになった。すでに政略のイニシアチブを慶喜に握られており、このままではかつての一会桑の如く、慶喜によってなし崩し的に政権を掌握されてしまうことが確実だった。
 また、薩摩藩の一家臣に過ぎない大久保らが徳川慶喜が主導する新体制に加わったとしても、並み居る諸侯の中でどれだけの発言力を得られるかは微妙であった。大久保党の主導による政治体制を実現するためには、自らが中心となって新しい政治体制を創出するしかなかったのである。
 朝廷内の有力者には、大久保党であり明治天皇の信任厚い外祖父の中山忠能がいた。したがって御所さえ支配することに成功すれば、大久保党だけでも天皇親政を実現することができる。あとは勅命で諸藩を従わせればいい。大政奉還によって慶喜に出し抜かれたという焦りがあったから、このあたりになってくると、大久保党のなりふりかまわぬ政権欲が顕著になってくる。
 大久保党の政権奪取を実現するためには、朝廷主導(実質的に幕府主導)の諸侯会議が御所で開催される前に薩摩藩兵を動かし、クーデターを決行する必要があった。だが、薩摩藩兵は大久保らの私兵ではない。彼らを動かすためには藩主の許可が必要であったから、大久保らの真意が暴露されないための巧妙な口実が必要だった。
 ここで大久保党は、出兵の口実とするターゲットを見い出した。この期に及んであくまでも攘夷と幕藩体制にこだわり、朝廷に働きかけて幕府復活を画策していた会桑両藩である。慶喜自身が従来の幕藩体制を否定していることは明らかであり、摂政二条斉敬も慶喜が旧体制に戻す気がない事を確認していた。ゆえに、守旧派である会桑の攘夷論は慶喜の趣意に相反したものであり、すでに幕府内でも孤立した存在だった。
 しかしながら大久保党をはじめとする討幕側から見れば、親藩でもある会桑両藩の存在は、それが慶喜の意趣に反していようがいまいが、旧体制の存続を図ろうとする幕府の象徴として、格好の標的となるのであった。
 大政奉還後の会桑の動向は不穏であり、慶喜らが会桑の説得に苦慮しているという岩倉からの報告もあった。ならば、御所を会桑の暴走から警護するという名目で、朝廷の要請に応じて薩長の兵を動員することは十分に可能であった。
 幕府側の会桑兵が朝廷の要請で動いた薩長兵と衝突することになれば、禁門の変と同様、ただちに幕府を朝敵として処分することも可能であったから、大久保党は会桑との軍事衝突を期待していたのではないかと考えられる。
 このとき、京都にあった幕府方兵力は、慶喜とともに二条城にいた旗本五〇〇〇、御所の警護に当たっていた会津兵三〇〇〇、桑名兵一五〇〇、合計九五〇〇であった。一方、大久保党が確実に動かしうるのは薩摩兵三〇〇〇、長州兵一二〇〇、芸州兵三〇〇の合計四五〇〇だった。先に会桑を叩けば、幕軍を分断撃破することは十分可能である。
 かくして十二月九日、大久保党によるクーデターが決行された。
 彼らは御所警戒の為と称して、薩長のみならず、土佐、尾張、越前の各藩兵を動かすことにも成功し、各藩兵によって御所の諸門を接収し、警備を固めた。公家門を守っていた桑名兵と蛤御門を警戒していた会津兵は、いずれも尾越両藩対抗することなく二条城へ引き上げた。会桑の挑発は失敗したものの、大久保党による御所の無血制圧は成功した。
 このとき慶喜は二条城にいたが、御所から引き上げてきた会桑兵がもたらした、突如として薩摩兵らが御所を囲んだという報告だけで、内部の状況は不明であった。薩摩側の意図や、この一挙に対する朝廷の様子などがこの時点では不明であり、状況が見えるまでやたらと動くことはできなかった。慶喜としては、事の成り行きを見守るしかなかったのである。
 御所内の学問所では、明治天皇が親王、公卿や五藩の諸侯を前にして、摂関と幕府を廃止、新たに総裁、議定、参与の三職を設置して、天皇中心の新政府発足するという「王政復古の大号令」を渙発した。
 その後、総裁有栖川宮親王をはじめとする三職が任命され、夕刻、小御所で初の三職会議が開催された。その席で徳川慶喜の辞官納地、京都守護職、京都所司代の免職が決定された。慶喜との辞官納地の交渉は、尾張の徳川慶勝と松平春嶽に任されることになった。

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鳥羽伏見の戦い(4) 薩長の機先を制した大政奉還

 薩長による武力討幕の噂に対し、突如として決着をつけたのは、他ならぬ徳川慶喜自身だった。慶応三年十月十四日、慶喜は土佐藩の提示した大政奉還建白書を受け容れ、朝廷に政権の返上を申し出たのである。
 またもや何の根回しもない慶喜の独断癖発露だったが、この場合は、いい方向に作用した。大政奉還は朝廷や諸藩のみならず外国勢力からも高く評価され、一挙に慶喜の株を上げたのである。
 国家として広く天下の公議を尽くし、天皇の御聖断を仰ぎ、皇国の対外方針の一定を図る。慶喜が決断した大政奉還の意義は、これまで幕府と朝廷の二極状態にあった日本という国家の意思決定機関がどこにあるかを明確にしたことだった。国論を統一して内戦を避け、外国勢力が付け入る隙を与えない。慶喜は薩長勢力よりもはるかに大局的な観点から日本の政局を見ていたのである。
 さて翌十五日、慶喜を加えての朝議が催され、大政奉還が正式に認可された。これにより政権が朝廷に返上され、幕藩体制にかわる新しい政治体制の確立が保障された。
 これに慌てたのが大久保党であった。実は大政奉還案を提示した土佐藩とは、慶喜が大政奉還を拒否した場合、それを口実に挙兵する密約を交わしていたのである。薩長に加え雄藩である土佐も挙兵することになれば、その他に同調する藩も出てくるだろう。そして彼らは、大政奉還は拒否されるであろうと予想していた。挙兵の為、急いで錦旗の製造をはじめていたほどである。その矢先の大政奉還実現だった。
 大政奉還が実現したことにより、すでに十月十三日の時点で薩長両藩に下っていた討幕の密勅が、十月二十一日に朝廷によって取り消されてしまった。大久保党の描いていた武力討幕戦略が、一気に崩壊してしまったのである。
 このような状況の中で大久保党が討幕の道を求めるとすれば、過去の失政に名目を見出すしかなかった。だがそれも、大政奉還を英断して評価が急上昇している慶喜の前に、ほとんど意味を成さないであろう。しかも多くの諸藩と公卿は、穏便な解決策を求めていた。それがたちどころに実現したのであるから、何をいまさら、である。大久保党の政治的敗北は明らかだった。
 さて、大政奉還を実現した慶喜から政権を明け渡された朝廷は、たちまち失政を暴露することになった。これまで国政運営を経験したことがないのだから無理もない。当面の国政を外国に通じている二、三藩と協議していく、としたことに対し、諸藩からたちまち痛烈な批判が浴びせられた。この批判に対して二転三転と発言を変転しているうちに、彦根藩ほか八藩から、当面の政務は幕府に任せるべきであるとのが意見書が提出された。
 朝廷はこれを受け、朝廷が評議体制を整えるまでの間、従来通り幕府に政務が委任されることが決まった。実質的に国家運営を行いうる政治体制が幕府以外にない事を証明することになったわけで、これもまた、慶喜の政略的勝利のひとつであった。

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鳥羽伏見の戦い(3) 武力討幕とそのリスク

 非凡な徳川慶喜の活躍を幕府再興のためであると危険視したのが、薩摩の大久保利通や西郷隆盛、そして公卿の岩倉具視らの主導する討幕過激派だった。本稿では今後、彼らを「大久保党」と称することにする。
 慶喜の将軍就任間もなく、孝明天皇が突如崩御した。十二月二十五日のことである。たびたび衝突はしたものの、朝廷内における最大の理解者であった孝明天皇を失ったことは、慶喜にとって政局上の大きな痛手だった。
 皇位を継承したのは明治天皇だったが、元服を済ませていない一六歳の幼帝であるとして、岩倉の提言により外祖父の中山忠能が天皇の輔弼となり、大久保党は朝廷権力の一角に食い込むことに成功した。
 実はこの忠能が曲者だった。禁門の変では長州に加担したため失脚したが、明治天皇の外祖父であったことが幸いして朝廷に復帰するや、禁門の変時に追放された公卿らを天皇の名の許に赦免し、自派の拡大に努めた。もちろん大久保党がこの好機を逃す手はなく、水面下で忠能と手を組み、倒幕を画策していったのである。
 だが慶喜は、独力でこの障壁を乗り越えていった。慶応三年(一八六七)五月、慶喜は兵庫開港問題をめぐる朝議において、薩摩の島津久光、宇和島の伊達宗城、越前の松平春嶽、土佐の山内容堂ら、いわゆる四候らと激しい論争を交えた末、兵庫開港を勝ち取ったのである。
 朝廷に対する政治的主導権を再び握った慶喜をおそれ、在京志士たちはにわかに武力倒幕へと動き出した。大久保党と組する薩摩家老小松帯刀は在京薩摩藩士に檄を飛ばし、さらに国元へ出兵を要請した。また、長州や土佐の志士と討幕の盟約を交わした。
 だが現実問題として、藩による武力討幕は極めて大きなリスクを伴うものであった。一般に我々は、この段階で薩長がともに藩を挙げて武力討幕を決断し、以後それを実行に移していったという認識があるが、これは正確な事実を反映したものではない。なぜなら、この頃結ばれた薩摩と長州あるいは土佐との武力盟約は、藩是として決定したものではなく、あくまで在京志士たちの間で交わされたものに過ぎなかったからである。
 藩主が幕府に対して強硬な対決姿勢を見せることは、あくまでも政治的ポーズの一つであった。だが、幕府に対して兵を挙げるとなれば、それは軍事的アクションである。明らかにその目的が異なるし、リスクの度合いも比較にならない。一部の血気にはやった志士が挙兵討幕を語り合うのと、藩是として武力討幕を決断することを同一視することはできないのである。
 なぜ薩長が、藩を挙げての幕府との軍事的対決を躊躇したのか。それは慶喜の主導した軍政改革が、実態よりも過大に評価されていたからである。例えば、フランスのロッシュが軍制改革の遅延を嘆く一方で、長州の桂小五郎は幕府の軍制改革を極めて高く評価していた。土佐の坂本龍馬も、薩長土海軍を連合しなければ幕府海軍にはとても対抗できない、という見通しを明らかにしていた。
 もうひとつの理由として、薩長の討幕に同調する藩が期待できないということもあった。この頃、長州が雄藩の動向を分析しているが、勤王藩は薩長両藩のみであり、その他多数の藩は佐幕勤王ないしは佐幕であると判断していた。爾後の経過を見ると、なるほどと思わせる的確な評価であり、それだけ冷静に各藩の意向を調査していたといえる。
 この時点では、薩長両藩がたとえ藩を挙げて武力討幕に出たとしても、与力を期待できる藩は極めて少なく、薩長も近代改革に成功して国力が増していたとはいえ、もし幕府との総力戦となれば、潜在的国力の差は圧倒的だった。情勢は薩長両藩にとって厳しいものである、と判断するのが普通であろう。
 さらに、討幕派の急先鋒だった薩摩ですら、国内の藩論が武力討幕にまとまっていた訳ではない。それどころか、京都で強引に推し進めている大久保党の討幕路線に強く反発する空気の方が強かったのである。このため、小松帯刀の要請した京都出兵を忌避する者が続出し、藩主自らが討幕のための出兵ではないと、わざわざ布告しなければならなかったほどである。
 また、すでに幕府との戦いを経験し、幕軍を撃退した長州だったが、藩論としては幕府との和平に希望をつなぎ、国力の回復と富国強兵策をさらに推進すべきだという意見の方が強かった。このため、長州はついに主力を畿内へ送り出すことはなかった。
 以上のように、藩を挙げての武力討幕を実現するには不利な状況ばかりであった。そこで大久保党は、討幕の密勅を奉戴いただくことにより、藩論統一の材料にしようと目論んだ。前述したように、勅命の威力は絶大であった。勅命を奉じた薩長軍に武力で対抗するならば幕府は朝敵となり、藩を挙げての武力討幕に大義名分が立つ。さらに、勤王佐幕藩や日和見藩が討幕に傾くことも大いに期待できたのである。

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鳥羽伏見の戦い(2) 慶喜の将軍就任

 孝明天皇の厚い信任を得た一会桑であったが、慶応二年六月の第二次長州征伐をきっかけに崩壊してしまった。その原因となったのは、慶喜の独断による長州出陣中止だった。 第二次長州征伐で幕軍は長州軍に手痛い敗北を喫し、その最中の七月二十日、一四代将軍徳川家茂が急逝した。戦乱中における突如の将軍空位という緊急事態の収拾に担ぎ上げられたのが、家茂の後見役だった慶喜であった。七月二十六日、慶喜はこの時点での将軍就任は断固として拒否したものの、徳川宗家を継ぐことには同意し、宗家相続と長州征伐の名代出陣が二十八日に公布された。
 八月八日、慶喜は孝明天皇の許に参内して長州追討の勅語を賜り、八月十二日には大坂を進発することになった。ところがその前日、老中板倉勝静が九州諸藩の撤兵を報じると、慶喜は突然、独断で出陣を取りやめてしまった。そして今後、雄藩諸侯との「協議」によって長州処分などの政治的問題を解決していく旨を表明したのである。周囲への根回しがない慶喜の独断癖はこの後も重大局面で度々起こり、政局を左右するほど大きな影響を及ぼすことになる。
 それはさておき、突然の出陣中止に苦言を呈したのが、孝明天皇や朝廷であった。すでに慶喜出陣の方針で朝議一致した直後だっただけに、面目丸つぶれである。孝明天皇を尊崇する松平容保も慶喜を激しく非難し、京都守護職の辞職を申請。慶喜と会桑との分裂が決定的なものとなり、一会桑による公武支配体制が崩壊した。この後、慶喜は諸藩との融和を図ろうとしたのに対し、会桑は薩長との対決姿勢を崩す事はなかった。
 かねてから慶喜に批判的だった幕臣たちもまた、幕威が大きく失墜したと憤りをあらわにした。慶喜の出陣中止は幕府内の分裂を露呈し、事実上幕軍が長州征伐から撤退する結果を招いた。この敗北に討幕を叫ぶ志士たちの活動は活発となり、政局は混迷の度を増していくことになった。
 征長失敗によって幕府の軍事力がすでに限界にあることを悟った慶喜は、以後、朝廷や諸藩との関係改善に乗り出し、対話路線を基調とした新たな政治制度を模索していくことになる。そして近代的軍制改革、対外問題の解決、実力派幕臣の登用など、近代国家として脱皮を図るための方策を積極的に推し進めていった。慶喜の幕府大改革は、幕府そのものの権威回復というよりも、日本の国威発揚を狙ったものであったといえる。すでに慶喜は諸藩に対する幕府の強化という小さな考えを捨て、外国勢力に伍していけるだけの国力充実を目指していたのだった。
 改革をさらに推進するため、慶喜はついに再三固辞していた一五代将軍に就任した。慶応二年十二月五日のことである。

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鳥羽伏見の戦い(1) 薩長同盟と一会桑

 政局が混迷を深めていた江戸末期の慶応二年(一八六六)一月、薩摩と長州が盟約を結んだ。いわゆる薩長同盟である。薩長両藩は天皇主体の新しい政治体制を打ち立て、幕藩体制を維持しようとする徳川幕府の打倒を約したとされる。
 ところがその実態は、元治元年(一八六四)に起きた禁門の変で朝敵とされた長州の冤罪を解くことを薩摩が斡旋するという趣旨のものであった。再び幕府による長州征伐となったら、薩摩が畿内に兵を集め幕府を「牽制」する。もし「一会桑」が薩摩の斡旋を妨害するのであれば、薩長はこれらとの決戦に及ぶ他ない、というのである。
 一会桑とは、禁裏御守衛総督一橋慶喜、京都守護職の会津藩主松平容保、京都所司代の桑名藩主松平定敬の三名を示す。後に慶喜が一五代将軍となったことから、通説では一会桑=幕府であると解釈されているが、これは当時の情勢からして正しくない。一会桑は江戸幕府の代弁者ではなく、極端な攘夷主義者であった孝明天皇の厚い信任を得て、独断で公武合体政策を推し進めんとしていた、「在京」幕府勢力だったのである。彼らも幕藩体制の維持を第一としていたことから江戸幕府と混同しがちだが、こと対外政策という点では、幕府と大きく対立していた。
 では、一会桑が一枚岩の関係にあったのかというと、そうではない。兄弟である松平容保と定敬は孝明天皇に忠誠を誓い、攘夷の姿勢を終始守り通した。これに対し慶喜は、宥和政策を基本として、刻々変化する情勢に穏便に対処していこうとする態度を示した。攘夷に対する両者のスタンスには、はじめから大きな温度差があったのである。
 そのような違いはあれども、孝明天皇と太いパイプで結ばれた一会桑は、朝廷と幕府との仲介役として、京都における公武支配体制の中で絶大な権力を獲得することになった。
 これに強く反発したのが、薩長をはじめとする雄藩だった。特に彼らの策謀で朝敵とされた長州や、結果的に中央から締め出される形となった薩摩は、孝明天皇および朝廷との癒着はなはだしい一会桑を打倒すべく動き出した。薩長が同盟することになった真の理由は、朝廷をめぐる権力闘争だったのである。
 ではなぜ、江戸時代を通じて権力を持つことのできなかった朝廷の権威がこの幕末期に大きく向上したのか。それは、ペリー来航後の開国問題を契機に、幕府は朝廷の勅許を得ることで諸藩の批判をかわそうとしたことを契機とする。以後の政局運営では、勅許を得ることが諸藩の信任を得るために不可欠の要素となってしまったのである。これが朝廷の権威を引き上げる、天皇や公卿が政治に参与してくるきっかけとなった。朝廷の頂点に立つ天皇との関係を確保することが、幕末の政治的主導権を握る上できわめて重要なこととなったのである。

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2008.11.01

五稜郭(5) 孤塁の運命

 明治維新に至るまで政庁舎として十分に機能した五稜郭であったが、難攻不落の城塞と期待された防御機能は未完であった上、稜堡式城郭による防備という概念も、実のところ大砲の高性能化により世界の軍事的思想から遅れていたのであった。
 五稜郭の機能が実戦で試されたのは、明治二年(一八六九)の箱館戦争だった。榎本武揚を首班とする旧幕府軍は頼みの制海権を失い、五稜郭を拠点として新政府軍を迎え撃つことになったが、もっとも懸念していた艦砲射撃を受けることになった。
 実施した軍艦は「甲鉄」で、もともと河川戦闘を目的とした浅喫水のモニターだったため、海岸に接近するのは容易だった。備砲はライフルを施して弾道がより安定し、射程も約四キロメートルに延伸したアームストロング砲だった。また、箱館湾はペリーが大きく評価したように湾内の水深と風浪が安定しており、艦砲射撃を実施するには絶好の場所だった。
「甲鉄艦亀田村の海岸に近付き五稜郭に向ひ砲発せり、其の七十斤の破裂尖弾廓内に落ち迸列し、其の勢太だ猛烈にて廓内の屋根或は土堤に当り、或は柱を折り或は石を摧き、極めて大害をなせり」(『幕末実戦史』)。
「翌十二日夜襲を決行すべく幹部の面々一堂に会し、訣別の宴酣なるに甲鉄艦より打出せるピントコーゲルの巨弾陣屋に落下し、最後の一弾は屋根を貫て宴席の中央に爆裂せる為め、居合せたる酒井兼三郎、川井卓郎、松井五郎、梶原由之助、田島安次郎、石島徳次郎の数名惨殺され…」(『衝鋒隊戦史』)。
「十二日暁天より甲鉄艦五稜城へ向け着発弾を打出し達せざるあり越るありしに、午前に至り其距離の定りし故か、悉く命中す」(『麦叢録』)。
 諸書にあるように、五稜郭は「甲鉄」の一方的な艦砲射撃を受けて榎本以下の城兵は士気阻喪、ついに防御機能を発揮することなく、降伏に至ったのであった。

(初出:学研『歴史群像シリーズ74「幕末大全下巻」』)
参考文献:函館市史編さん室編『函館市史』(函館市)/株式会社大林組広報室『季刊大林No.46「函館」』(大林組)/大鳥圭介著『幕末実戦史』(新人物往来社)/別冊歴史読本ビジュアル版『イラストでみる箱館戦争』(新人物往来社)/藤崎定久著『日本の城 攻・防の戦略』(ナツメ社)/粕谷与市著『五稜郭築城の経過』(五稜郭築城研究会)ほか

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五稜郭(4) 五稜郭の設計と築造

 後に五稜郭と呼ばれる亀田役所土塁の設計を担当したのは、箱館奉行支配諸術調所教授の武田斐三郎であった。その様式と構造は『西洋諸州陣法術書』を参考にした稜堡式城郭であった。当初の設計では五基の稜堡と五基の半月堡によって厳重な防備が施され、予算書によれば二四ポンド砲五〇挺という強力な火力が配備される予定であった。「稜堡」とは、城塞の死角を無くすため鋭角に突出した防御施設のことである。また、稜堡式城郭には稜堡の側面援護と和式城郭の馬出的な役割を果たす「半月堡」があり、稜堡と組み合わされて星形をした独特の縄張を形成した。
 一方、和式城郭も江戸時代初期には火縄銃による火線形成を意識して折や歪を取り入れて死角を無くし、丹波篠山城に代表されるように防御の容易性を考慮して単純な方形の縄張へと発展していた。天守閣は砲撃による格好の目標となることから姿を消した。実は和式城郭もより実戦的な形状へと変化しており、その行き着いた先が稜堡式城郭だったと考えれば、五稜郭の登場もあまり唐突だったとはいえないだろう。
 だが、敵からの視認性という点では稜堡式城郭の方が優れていた。和式城郭は曲輪の立体構成による防御火線の形成を重視していたのに対し、西洋式城郭は稜堡と半月堡、その死角を無くすための斜堤を組み合わせた平面構成だった。このため多くの和式城郭はその全容を敵に暴露することになるが、五稜郭の場合、大林組によるコンピュータ・グラフィックスでの検証では太鼓櫓の上部しか見えなかったという。
 安政三年十一月、五稜郭の築造に先立って弁天岬台場が着工となった。予算一〇万両が計上され、文久三年(一八六三)に竣工。五稜郭と同じく武田によって設計され、その形状は周囲約七〇〇メートルの不等辺六角形をなし、壁面約一一メートルという堅固な石垣で築かれ、南東面にアーチ型の門が特徴の砲台となった。
 続いて安政四年(一八五七)、五稜郭の築造が開始された。当初の計画では石垣によって惣堀および土塁を構築する予定であったが、工期短縮および予算節減のため、まず惣堀を堀割し、その揚げ土で土塁を築き、芝付けをして補強、御役所や役宅を新築・移転した後に石垣の構築を行うことに工事内容を変更したのである。工事は七月に開始され、十月に堀割と土塁が完成した。ところがここで大きな問題が発生した。冬季になって土塁が凍結、崩落する事態となったのである。結局のところ石垣を最初に構築するほかなく、大幅に予算を超過する事態となった。
 元治元年(一八六四)五月、五稜郭は当初の計画を縮小した規模で完成をみたが、五基予定されていた半月堡が一基だけとなり、防備に重要な胸墻や斜堤が三面のみに築かれただけで、備砲も配されることはなかった。胸墻と内庭の連絡路は予定されていたアーチ型のトンネルのかわりに日本式の虎口となった。虎口や塁壁の石垣は立派だったが、急遽構築することになった惣堀の石垣は戦国期の主流だった野面積みで、材質も粗悪だった。洋式にして洋式にあらず、という中途半端なところが五稜郭の特徴となってしまった。かかった費用は約五万両で当初見積の半額だったが、すでに予算が払底し、計画にあった築島台場、沖ノロ台場の築造は中止となった。

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五稜郭(3) 蝦夷地経営の拠点

 幕府は箱館開港に先立ち、蝦夷地を再び直轄領とした。安政元年六月に箱館奉行を再設置、竹内保徳・堀利煕らが着任した。彼らはただちに箱館防衛構想を策定、十二月に幕府へ上申書を提出した。
 その要旨は、箱館防備のために既設台場の改築あるいは新築を要するというものであった。また、箱館山の麓にあった箱館役所は敵の攻撃下に陥り孤立してしまう「死地同様之場所」であって、容易に艦砲射撃を受ける位置にあり、箱館山上等から衆目監視の状況にあるのも好ましくないとして、亀田への移転を上申した。これが五稜郭築造のきっかけとなったのである。
 上申を受けた幕府は弁天岬台場、築島台場、沖ノロ台場、亀田役所および役宅の築造を決定した。亀田役所は政庁舎であったが、あわせて「土塁」を持つ防御拠点として築造されることになった。他の沿岸・港湾地域で構築された防御施設はせいぜい台場どまりだったのに、なぜ北辺の箱館にのみ強力な防御機能を持つ役所が構築されることになったのか。それはまさに、ロシアの脅威が間近にあったからだった。
 箱館奉行として着任した堀は、前年にロシア軍が樺太へ上陸したとき、談判役として現地に派遣された一人だった。堀が到着したとき、ロシア軍はすでに樺太から退去しており事なきを得たため、その後、堀は蝦夷地一円を巡視したが、その中でロシア軍の脅威が箱館にも及びうることを実感したはずである。択捉・千島の対露防備を優先せよという前水戸藩主徳川斉昭の北方重視論に対し、堀は箱館を蝦夷地の防備・開拓拠点とする南方重視論を主張、幕府はより現実的な堀の意見を採用した。この結果、蝦夷地経営の拠点としての亀田役所が築造されることになったのである。
 当初の亀田役所築造プランは、役人とその家族のみならず現地住人をもことごとく収容できる「根城同様」の機能を有した大規模なものだった。これは、敵軍に包囲されても長期間の籠城に耐えうるものとして考慮されていたに違いない。蝦夷地にまで城郭を包囲するだけの大軍を動員することが可能であろう対外勢力といえば、それはロシア以外に考えられなかった。
 亀田役所は箱館湾および大森海岸の東西両海岸よりそれぞれ約二・五キロメートル離れた亀田村の奧、鍛冶村の西、中道の南となる平原上に築造されることになった。ここは艦砲射撃の有効射程外となる位置であり、遮蔽物のないなだらかな丘陵上にあって防御火線を形成が容易で、水利にも恵まれて籠城に適しており、当時の箱館市街から一時間以内の近郊にあって平時の政務に支障をきたすことがなく、政軍ともに好適地であるというのが選定の理由だった。
 箱館奉行より上申書を受けた老中阿部正弘は安政三年(一八五六)五月、詳細な予算書提出を受けた後に築造を認可した。総予算は四一万八七六〇両。急を要する工事のはずだったが、逼迫した財政ゆえ二〇か年の継続事業として一年につき二万両を下付するという、なんとも気の長い防衛整備計画となった。

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五稜郭(2) 日露国境紛争と開国

 幕府の蝦夷地経営は明らかにロシアの南下政策を意識してのものだったから、日露両国の衝突は必然であった。文化三年(一八〇六)、最初の国境紛争ともいえる択捉事件が起きた。皇帝アレクサンドル一世の特使レザノフが来航し、日本との国交通商を再び要求したが、幕府は礼節に欠けた応対の末に国交を拒否、これに憤ったレザノフは報復として樺太・千島の集落を次々に襲撃したのである。
 幕府はこれを機に蝦夷地全域を直轄領とし、弘前・盛岡両藩に駐屯を命じるとともに樺太調査団を派遣した。一方、ロシアも千島へ探検隊を派遣したが、国後島に駐屯していた盛岡藩士が軍艦ディアナ艦長ゴローニンの身柄を拘束、ロシアも報復として商人高田屋嘉兵衛の観世丸を拿捕し、両国の緊張は最高潮に達した。
 これを解決に導いたのが、他ならぬ嘉兵衛であった。嘉兵衛はロシアに談判して自身の解放を実現すると、幕府にも交渉してゴローニンの釈放に尽力し、これをも実現、両国の緊張緩和に大いに貢献した。
 以後、ロシアはナポレオンによる本国侵攻もあって極東を顧みる余裕がなく、蝦夷地はしばしの安定を見た。このため幕府は蝦夷地を松前藩に返還し、箱館奉行はいったん閉鎖された。
 ところがペリー来航で対外的な緊迫が最高潮に達した嘉永六年、北蝦夷地(樺太)ではロシア軍が久春古丹を上陸占拠するという事件が発生した。あわせてロシア使節プチャーチンが長崎に来航して開国を要求し、日露間の緊張が再び高まった。翌安政元年(一八五四)、クリミア戦争の影響でいったん帰国したプチャーチンは英仏艦隊を避けて再び来日、ついに日露和親条約を締結するに至った。
 米英等と異なり、ロシアは唯一日本と領土を接する国家であったから、両国間には千島・樺太をめぐる国境問題という大きな難題が横たわっていた。よって、日露和親条約の締結には開国よりも国境問題に重点が置かれた。交渉の末、樺太は両国の共同管理、千島はウルップ島以北をロシア領、択捉島以南を日本領とすることで決着をみた。ここにおいて、日露両国の国境が確定したのである(余談だが、現在日本が北方四島の返還を主張しているのは本条約第二条に基づいている)。
 とはいえ、ロシアの南下政策は不変のものであり、その脅威がなくなったわけではなかった。箱館における五稜郭築造の背景にも、こうした長年にわたる対露関係が大きく影響していたのである。

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五稜郭(1) 蝦夷地経営の開始とロシアとの接触

 北海道函館市のシンボル五稜郭は、箱館戦争において榎本武揚の本拠地となったことで有名な幕末期の城郭である。五稜郭は通称であり正式名称は亀田役所土塁だったが、後に通称が正式名称となった。現在は国指定の特別史跡となっており、石垣や水堀等がよく保存されている。
 洋式築城法を採用し、五つの稜堡が星形をなす独特の縄張は従来の和式城郭と一線を画した存在である。なぜ五稜郭が函館に築城され、洋式築城法が採用されたのか。それをさぐるには、江戸時代における日本の北方防衛戦略という観点から、築造に至る状況を見ていく必要があるだろう。
 日本が欧米に対して全面的に開国したきっかけは嘉永六年(一八五三)のペリー来航であったが、実はそれ以前から欧米勢力との接触を避けることのできない状況となっていた。その相手とは、極東で南下政策を開始したロシアだった。
 カムチャツカ半島からベーリング海にかけて勢力を伸張してきたロシアは樺太・千島、さらには蝦夷地にも進出の機をうかがい、日本に対してたびたび開国を促していた。それはペリー来航から実に七〇年近く以前の、老中田沼意次の時代まで遡る。
 当時、幕府はロシアの存在こそ知っていたが、松前藩の管轄下にあった蝦夷地に関してはその実態を把握していなかった。そこで天明五年(一七八五)、田沼は蝦夷地に調査団を派遣し、同地の開発・防備に乗り出した。これが幕府による蝦夷地経営の始まりであった。
 蝦夷地経営は田沼失脚とともにいったん後退したが、寛政四年(一七九二)に女帝エカテリーナ二世の特使ラックスマンが大黒屋光大夫ら漂流船員の送還という名目で根室に来航し、あわせて国交通商を要求してきた。幕府は再び北方に目を向けざるを得なかった。東蝦夷地を直轄領に変更した幕府は享和二年(一八〇二)に箱館奉行を設置すると、蝦夷地経営を本格化した。

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