黒船来航(3) 幕府屈服の理由
ペリーに先立つ七年前の弘化三年(一八六四)閏五月、すでにアメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが通商を求め、軍艦二隻を率いて浦賀に来航していた。この時は穏便に対処して事なきを得たが、ときの老中阿部正弘は、幕府実力者である水戸藩の徳川斉昭に宛て書簡を提出した。ビッドル来航の直後、同年七月八日付の書簡である。
「今や黒船撃攘の令を発するも必勝を期するべからず。若し然らんには日本の恥辱となるべし。日本の小船にては黒船に対して攻戦し得ざるのみならず、第一彼の為に江戸近海の通路を絶たれ、糧食欠乏に至るべし。因って先ず堅牢なる軍艦を製造し、海岸防備を厳にせざるべからず、是れ今日の急務なり」
江戸幕府がペリーの黒船に屈して開国した理由は、まさにこれだったのである。幕府の首府であった江戸の経済流通は、主に海運によって成り立っていた。このシー・レーンを遮断するには、数隻の軍艦で江戸湾口を封鎖すればよかった。対抗しうる海軍力がまったくない江戸幕府にしてみれば、これは文字通り死活にかかわる問題だった。
阿部はすでに七年も前から黒船の真の脅威を警告していた。また、ペリー来航の報はオランダ等からも伝えられ、幕閣内ではすでに周知のことであった。にもかかわらず、幕府としては何ら具体的な対応を実現することができず、その脅威が現実となった。
海軍力の根幹となる軍艦というものは、戦わずしてその戦力を発揮することのできる戦略兵器である。軍艦の性能的な優劣は相対的なものに過ぎず、相手に対抗しうる軍艦がなければ、それは決定的な戦力差となる。しかも、その威力は隻数に乗じてアップする。
一、二隻程度の軍艦なら対応できるとふんでいた江戸幕府は、軍艦四隻、翌年には九隻という空前の大艦隊を日本に送り込んできたアメリカの海軍力に、ただ畏怖するしかなかった。ペリーの勝利は、まさに海軍戦略を駆使しての勝利であった。
そして日本人は初めて、海軍力というものが国家戦略そのものを左右する程、強力なものであることを実感させられたのである。
(初出:学研「歴史群像」2004年2月号 No.63)
参考文献:『船の科学館資料ガイド4 黒船来航』(船の科学館)/原剛著『幕末海防史の研究 全国的にみた日本の海防態勢』(名著出版)/佐藤正夫著『品川台場考 幕末から現代まで』(理工学社)ほか
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