« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月

2008.12.31

震天制空隊

 昭和十九年(一九四四)十一月一日、マリアナから飛来したB29爆撃機の偵察型F13が初めて帝都上空に姿を現した。たった一機のF13に対し、陸軍第一〇飛行師団はその全力をもって邀撃に出た。しかし、高度一万メートル以上の高高度を飛行するF13を捉えることはできなかった。その後も偵察飛行は繰り返されたが、邀撃機はどれも高度一万メートルに到達するのがやっとの状態で、そのさらに上空を悠々と飛行するF13を見送るしかなかった。帝都上空、衆人環視の中で繰り広げられた初の空中戦である。彼我の技術力の差は歴然であったが、そのようなことを知る由もない参謀本部や防衛総司令部、さらには市民の間からもこのふがいない状況に非難の声が上がり始めた。
 第一〇航空師団長吉田喜八郎少将は、そのような声に決断せざるを得なかった。十一月七日、隷下の各戦隊に対し、空対空特別攻撃隊の編成を命じた。
「敵は高度一万米(メートル)で来襲、残念ながら我方には今これを邀撃するだけの優秀な飛行機はない。(中略)ここに於て、砲も弾丸も持たず、飛行機重量を軽減し、敵より上にあがり、体当たりを以て必墜以外にない」(『帝都防空戦記』原田良次)。
 後に「震天制空隊」と命名されたこの空中特攻隊は、武装や防弾装備を取りはずした特別攻撃機で、高度一万メートルを飛行するB29に体当たり攻撃をかけ、自機もろとも撃墜しようというものであった。特攻機には大きな赤い梓弓の矢印が描かれた。「帰らじとかねて思えば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」という楠木正之の古歌からとったものであった。同様の特攻隊は西方の防空を担う第一二航空師団でも編成され、こちらは「回天 制空隊」と命名された。当初は各戦隊四機ずつの編成であったが、後には八機に拡大された。
 この空中特攻隊が一般的な認識の特攻と異なるのは、搭乗員がパラシュートを装備していたことだ。B29に対する体当たり攻撃は延べ六十二回、うち生還の事例が十七ある。中には二四四戦隊の小林照彦少佐のように、二度特攻を敢行して二度とも生還、戦後を生き延びたという例もある。パイロットたちが「決死」の意気をもってB29に当たったこの特攻、「必死」の出撃ではなかった、ということがわずかな救いであろうか。
 この空中特攻に対しては悲壮、愚劣、無謀といろいろな声がある。たしかに、太平洋戦争末期の圧倒的劣勢下における帝都防空戦は軍事的にほとんど無意味な戦いであった。特攻隊員も自ら望んで特攻を敢行した者ばかりではない。しかし、彼らが自らの命をかけて特攻を敢行させた最後のものは、一般市民を空襲から守るという純粋な激情であった。空の勇士たちの志は、敬意を以て永く後世に伝えられるべきであろう。

(初出:新人物往来社「別冊歴史読本」戦記シリーズNo.55「日本軍戦闘機」)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

本土防空戦(7) B29の夜間焼夷弾爆撃により日本全土が焦土と化す

 ルメイはアーノルドの指令により軍事目標に対する高高度精密爆撃を取りやめ、都市に対する焼夷弾攻撃を実施することにした。焼夷弾による本格的な爆撃は昭和二十年(一九四五)二月二十五日の東京空襲で実行に移された。木造家屋の多い日本の都市に焼夷弾爆撃はきわめて有効だった。ルメイはさらに空襲を効果的にするため、高度二〇〇〇メートルに爆撃高度を下げ、しかも夜間に実施することにした。かくして三月十日未明、三〇〇機以上のB29が東京の下町に来襲し、二〇〇〇トンにおよぶ焼夷弾の雨を降らせたのである。
 この夜間低空爆撃は意外にも日本側の盲点だった。日本の防空監視態勢では夜間に低空侵入されたB29を早期に発見し、邀撃することが困難だった。また、夜間戦闘機が少なく、これを敵編隊へ誘導する無線システムがなかったことも夜間迎撃を困難にさせていたのである。第一〇航空師団と第三〇二航空隊は出撃できる限りの夜間戦闘機を邀撃に向かわせた。夜間航空戦の主力は陸軍が二式複戦「屠龍」、海軍が「月光」だった。いずれも斜銃を装備した複座の夜間戦闘機であった。低空で逐次侵入してくるB29に対し、陸海軍夜戦部隊はこの防空戦で最大級といえる十五機撃墜の戦果をあげた。しかし、この奮闘も文字通り焼け石に水だった。この空襲により、一晩で八万を超える東京市民が犠牲となった。これは、広島の原爆投下をのぞく都市爆撃の中で最大の犠牲者数であった。
 東京空襲の成功により、アメリカ軍は作戦方針を夜間焼夷弾爆撃へと転換、以後、横浜、名古屋、大阪、神戸といった大都市が次々に焼夷弾で焼き尽くされた。こうなってはもはやなすすべ無し、というのが防空作戦の実状で、震天制空隊などによるB29への体当たり攻撃が恒常化していった。四月に入ると硫黄島から発進したP51戦闘機の護衛が付くようになり、B29に接近することすら困難だった。六月に入り、陸海軍は本土決戦を期しての戦力温存に方針を転換した。これは防空戦闘を放棄したようなもので、もはやB29の爆撃を止めるものはなかった。六月十五日、大阪および尼崎の空襲をもってアメリカ軍は当初の目標を達成し、新たに日本の中小都市の大半を次なる爆撃目標に設定し、本土空襲は日本のほとんどの都市が廃墟と化す無差別爆撃の最終的な段階を迎えた。
 B29による空襲だけでなく、空母艦載機による空襲も開始された。これに対して「紫電改」を装備した精鋭、源田実大佐の海軍第三四三航空隊が奮戦したが、この期に及んですでに時遅しの感があった。
 焦土と化した日本はなおも本土決戦を叫んだが、連合軍側はすでに戦後体制をめぐる段階に入っていた。終戦を早めるため広島と長崎に原爆が投下され、これに刺激されたソ連が参戦して、大勢が決した。八月十五日、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏したが、その日も秋田や熊谷、小田原が空襲の被害にあい、市民は最後まで空襲に苦しめられたのであった。
「将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ、人心阻喪の結果、我は或いは、敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだろうか。何ぜなら、是の時に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落とすこと能わず、その中の二、三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焦土たらしめるだろうからである。(中略)だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである。この危険以前において、我機は、途中これを迎え撃って、これを射落とすか、またはこれを撃退しなければならない」
昭和八年(一九三三)八月十一日、信濃毎日新聞に掲載された『関東防空大演習を嗤ふ』という記事の一部である。軍部批判ともとれるこの記事は当時大問題となり、記者の桐生悠々は新聞界を逐われた。しかし歴史は、十年以上も前に桐生が予見した通りとなったのであった。

(初出:新人物往来社「別冊歴史読本」戦記シリーズNo.55「日本軍戦闘機」)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

本土防空戦(6) ついに帝都へB29来襲

 十一月一日、初めて帝都に飛来した一機のF13に対し、帝都防空の重責を担う陸軍の第一〇飛行師団と海軍の第三〇二航空隊は邀撃に出たが、高度一万メートル以上の高高度を飛行するF13を捉えることはできなかった。その後も偵察飛行は繰り返され、その都度一〇飛師と三〇二空はスクランブルを繰り返したが、高度一万メートルに到達するのがやっとで、そのさらに上空を悠々と飛行するF13を見送るしかなかった。
 十一月二十四日白昼、ついにB29が帝都へ来襲した。その日の朝にマリアナのイスレイ基地を発進したB29は、オドンネル准将麾下の第七三爆撃航空団の一一一機。うち一七機が故障で引き返したが、残る九四機は硫黄島西方を通過し、最初の目標である中島飛行機武蔵野工場を目指した。
 午前十一時に小笠原の対空監視哨からB29の大編隊北上の報が東部軍司令部にもたらされた。続いて海軍監視艇からも発見情報が入る。十一時三十分、第一〇飛行師団は全力発進し、B29の邀撃に向かった。海軍の第三〇二航空隊も正午に空襲警報が発令されるや、延べ一〇九機を発進させた。
 しかし、高度一万メートルの戦いはジェット気流と各機の高高度飛行性能の不足から飛んでいるのがやっとといった状態で、B29に攻撃をかけることができたのは一度だけだった。高射砲隊も雲に遮られて十分な射撃ができず、B29は中島飛行機武蔵野工場を爆撃していった。約二時間半におよぶ邀撃戦で撃墜されたのはわずか一機、洋上不時着機が一機だけであった。撃墜したのは見田義雄伍長機で、体当たり攻撃によるものだった。これ以降、日本は体当たりによるB29攻撃を本格化していく。航空特攻隊「制空震天隊」を編成した第一〇航空師団長吉田少将は大晦日の夜、日記に「今やすべて遅し、依然、無理を強行する以外に手段なし」と記した。
 一方、B29の方もジェット気流と目標上空が曇っていたために、目標を爆撃できたのはわずか二十四機で、六十四機は市街地や横須賀に投弾した。武蔵野工場には爆弾四十八発が命中し、百三十名以上の死傷者を出したものの、発動機の生産ラインには大きな影響がなかった。だが、いとも簡単にB29の帝都侵入を許してしまった日本側の衝撃は大きかった。
 その後も第二一爆撃兵団のハンセル准将は日本各地の軍事目標に対する白昼高高度からの精密爆撃を繰り返した。高高度爆撃は日本機に邀撃されにくいものの、ジェット気流の影響から目標に爆弾を命中させることも難しかった。B29の損害に比べて戦果が少ないと判断した第二〇航空軍のアーノルド大将は高高度爆撃に固執するハンセル准将を更迭し、成都にいたカーチス・ルメイ少将をマリアナへ移すと、日本空襲の総指揮に当たらせたのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.30

本土防空戦(5) 帝都の防空態勢

 昭和十九年(一九四四)七月のマリアナ諸島失陥により、B29による日本本土空襲は避けがたいものとなった。これに対する防空戦力を強化すべく、関東地方、特に帝都上空の防衛を任務とした陸海軍部隊の改編や航空部隊の配置転換が実施された。
 帝都防空の主力は、陸軍の第一〇飛行師団(師団長吉田喜八郎少将)であった。十一月一日の時点において、同飛師はその全力を東京周辺に集中していた。その配備は次の通りである。
 調布 第二四四戦隊(飛燕 四十機)
    独立第一七中隊(百式司偵 十二機)
 成増 第四七戦隊(鍾馗 三十機)
 松戸 第五三戦隊(屠龍 二十五機)
 柏  第一八戦隊(飛燕 十二機)
    第七〇戦隊の一部(鍾馗 若干)
 合計機数は約二〇〇機、そのうち可動兵力は一六〇機であった。さらに防空兵力を強化すべく、十月末に太田で編成された第二三戦隊(「隼」十二機)を十一月二日に印旛へ移動した。さらに教育・錬成を兼ねた東部二号部隊(各地に五個隊、出撃可能機数五〇機)と、フィリピンへ進出予定だった第二一飛行団が指揮下戦力として加えられ、防空戦力は約三五〇機に強化された。第二一飛行団隷下の第七二戦隊(疾風)は相模原、第七三戦隊(疾風)は所沢に展開した。
 厚木に展開していた海軍の第三〇二航空隊も帝都防空の主戦力の一つだった。保有機は次の通りである。
 雷電 四十機
 零戦 三十八機
 月光 二十四機
 彗星 二十機
 銀河 三機
 極光 一機
 合計機数は一二六機であったが、可動機数はその半数以下の約六十機に過ぎなかった。
 第一〇飛行師団はB29が京浜地区へ侵入する前に捕捉攻撃すべく、前方へ進出して敵を迎え撃つ推進邀撃に重点を置いた。また、皇居上空には第二四四戦隊の一部を直衛に振り向け、不可侵を期した。防空戦力を迅速に展開するためには、情報の早期入手が何よりも重要だった。
 マリアナから太平洋を越えて来襲するB29を邀撃する場合、中国大陸を横断してくる成都からの来襲とは異なり、早期に発見し、警報を発することは難しかった。八丈島および硫黄島に設置されたレーダーと目視監視哨が頼りであったが、B29が高高度で飛行してきた場合、日本の戦闘機がようやく攻撃高度まで上昇できたときにはすでにB29が本土に達しており、要地上空で邀撃しなければならなかったのである。
 沿岸の防空監視態勢は、第三二航空情報隊のレーダーと沿岸各都県に配備された防空監視哨が常時監視体制にあり、海軍もB29探知のため、小笠原から伊豆諸島にかけての東西約一一〇〇キロにわたり、十数隻の監視艇を配置していた。航空目標の発見情報は、直通電話によってただちに東部軍司令部へ通報された。
 帝都防空の重責を担う東部軍司令部および第一〇飛行師団司令部は東京の竹橋にあった。作戦室に設置された警戒機表示盤や監視哨情報盤には、各地から寄せられる情報が電光掲示され、B29の進入経路を逐次把握できるようになっていた。入手した情報は、直通電話によって防空飛行部隊や高射砲部隊に連絡された。海軍の第三〇二飛行隊からも連絡将校が派遣されており、陸軍と協同作戦をとることができるようになっていた。
 蒼空を睨む地上防空兵力は、高射砲約五二〇門、照空灯約二五〇基などで、十一月中旬にはさらに高射砲三十五門が加わった。しかしながら、高度一万メートルまで到達する十二センチ高射砲はわずか三十門たらずであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.29

本土防空戦(4) B29、高高度昼間爆撃に戦術変更

 夜間爆撃では大きな成果を期待できないことから、第二〇爆撃兵団は高高度からの昼間爆撃に切り替え、八月二十日に実施した。支那派遣軍から早期に情報を得た西部軍は午後四時三十二分に空襲警報を発令、第一二飛行師団の八十七機が邀撃に向かった。海軍の三五二空も三十七機を発進させた。来襲したB29は七十五機で、高度七五〇〇メートルからの爆撃であった。この日は野辺重夫軍曹の屠龍が体当たり攻撃を敢行して二機を撃墜するなど日本機による激しい邀撃を受け、損失は十四機に達した。目標となった八幡製鉄所は被害を受けたものの、二日後には操業を再開した。しかし、邀撃に向かった戦闘機は高高度での飛行性能が大幅に低下し、攻撃高度に達するまでに一時間もかかった。無理な運動ができず、攻撃機会は一度だけと、邀撃の困難を痛感させた。
 第二〇爆撃兵団はしばらく満州の鞍山と台湾に対して爆撃を実施、再び北九州上空に来襲したのは十月二十五日のことであった。五十九機のB29は大村の第二一海軍航空廠を爆撃、海軍の第三五二航空隊と大村航空隊合わせて七十一機が邀撃に向かったが、高高度爆撃を実施するB29に対して撃墜一機とふるわなかった。この反省から三五二空は戦術を変更、十一月二十一日の空襲に対しては、来襲したB29六十一機のうち五機を撃墜、事故も合わせて九機を損失せしめるという戦果を挙げた。その戦術は夜間複座戦闘機「月光」を索敵を兼ねて前方に配置し、その一〇〇キロ後方の高高度に待機した「雷電」と零戦が襲撃するというものであった。
 この後、成都から飛び立ったB29による北九州爆撃はマリアナからの空襲が開始されたこともあって、二十機程度の小規模な爆撃が二度実施されて終了した。成都からの爆撃は遠距離のため爆弾搭載量が少なく、困難の割に成果が伴わなかった。さらに、支那派遣軍からの早期警報により北九州上空で邀撃態勢を整える余裕があった。
 高高度の邀撃戦は大きな困難を伴い、撃墜数は決して多いものではなかったが、B29は日本側の執拗な邀撃のために爆撃の精度が低下した。早期警戒態勢が整っていれば、B29といえども十分な爆撃の成果を挙げ得ないことを示したのであった。

(初出:新人物往来社「別冊歴史読本」戦記シリーズNo.55「日本軍戦闘機」)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.28

本土防空戦(3) 北九州の攻防戦

 北九州では、成都から来襲するB29との死闘が続いていた。成都を基地としていたのはアメリカ軍の第二〇爆撃兵団で、八幡製鉄所や佐世保海軍工廠、満州の鞍山製鉄所など、おもに軍事戦略目標に対する爆撃を実施した。最初の司令官はウォルフ准将であったが、後に日本を焦土と化したことで名を馳せたカーチス・ルメイ少将に変わる。
 この方面を護るのは西部軍指揮下の陸軍第一九飛行団(古屋健三少将)で、隷下に「屠龍」を装備する第四戦隊と「飛燕」を装備する第五九戦隊があった。後に四式戦闘機「疾風」を装備する第五一、五二両戦隊が加えられ、さらに「鍾馗」装備の第二六四戦隊が中部軍から編入された。総機数は約一五〇機となった。
 B29最初の空襲となった六月十五日の八幡空襲は、三〇〇〇メートルの高度からの夜間爆撃であった。灯火管制のため目標を視認することができず、成都を飛び立った七十五機中、目標をレーダー照準で爆撃したのは四十七機であった。五機が「屠龍」に撃墜され、二機が往復途中の事故で失われた。八幡製鉄所が受けた被害はわずかであり、損害の割に爆撃の効果はなかった。
 続く七月七日の空襲は、B29十八機による小規模な夜間爆撃であった。前回の爆撃の反省から、中国大陸に展開していた支那派遣軍や第五航空軍から早期の通報があった。第十九飛行団は約五十三機を発進させ、B29の来襲を待ち受けた。B29の損害はなかったものの、日本機の邀撃を嫌い、目標であった八幡と佐世保に対する爆撃もそこそこに引き上げていった。
 この空襲後、第一九飛行団は第一二飛行師団に昇格した。さらに、海軍の呉航空隊と佐世保航空隊のうち戦闘機隊が第三三二航空隊及び第三五二航空隊と改称し、それぞれ陸軍西部軍司令官の指揮下に加えられることになった。これは完全とはいえないものの、陸海軍の指揮系統が初めて一元化されるという画期的な出来事であった。
 八月十一日もB29二十九機による小規模な爆撃であった。目標は長崎と八幡であったが悪天候のため、ほとんど爆撃の成果を挙げることができなかった。日本側も十分な邀撃を行い得なかった。この空襲の後、第二六四戦隊が中部軍指揮下に戻され、大阪へ引きあげていった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.27

本土防空戦(2) マリアナ失陥で迫る本土空襲の危機

 昭和十九年(一九四四)に入ると、日本の劣勢は明らかなものとなった。同盟国ドイツの各都市が連合軍爆撃機の空襲を受けているという報は日本にも伝わっていたが、従来の大型爆撃機では、海を越えての本格的な日本本土空襲は困難であった。しかし、それを可能にする「スーパーフォートレス」B29爆撃機が実戦投入されたことを確認するに及び、日本は来たるべきB29の本土空襲を考えないわけにいかなかった。
 南方のソロモン諸島を制したアメリカ軍は中部太平洋に進出、マリアナ諸島が攻防の焦点となった。ここはB29が北海道を除く日本本土のほぼ全域を爆撃圏内に収めることができる重要拠点であった。日本もそれを十分に認識して絶対国防圏下に指定し、防衛態勢の強化に努めたが、その準備はあまりにも遅すぎた。六月十五日、アメリカ軍がマリアナのサイパン島に上陸。同夜、中国の成都を飛び立ったB29が九州の八幡を空襲した。これはサイパン上陸に連動して実施されたものであった。この空襲を皮切りに、B29による本格的な本土空襲が開始された。
 連合艦隊は「あ」号作戦を発動し、戦局の逆転に最後の望みを託した。同十九日、日米両機動部隊の間でマリアナ沖海戦が繰り広げられたが、それは日本の一方的な敗北に終わり、マリアナの運命が決定的となった。七月にはサイパン・グアム・テニアンの守備隊が次々と玉砕し、マリアナ諸島がアメリカ軍の手中に陥ちた。この戦略拠点を確保したアメリカ軍は、急ピッチでB29基地の整備を進めた。サイパン島に展開したのは、一〇〇機以上のB29で編成されたヘイウッド・ハンセル准将の第二一爆撃兵団であった。同兵団はトラック島と硫黄島に対して航法訓練を兼ねた爆撃を繰り返し、十一月に入ってからB29の偵察型であるF13による日本本土の偵察飛行を開始した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.23

本土防空戦(1) 無防備だった日本本土上空

 周囲を海に囲まれた日本は元寇という一度の例外を除き、古来より海という天然の障壁によって外敵の侵攻を阻んできた。しかし、航空機の急速な発達により、海は障壁としての意味をなさなくなった。
 日本本土防衛の任にあたっていたのは陸軍であった。明治の建軍以来、陸軍は海の障壁を頼りにして、もっぱら大陸への外征に努力を傾注してきた。航空機が登場し、第一次大戦で活躍した大正時代には防空の必要性が認識されたものの、本土に対する空からの侵攻という立体的な防衛の難しさというものを理解していなかった。
 最初に日本本土上空へ侵入したのは中国空軍である。昭和十三年(一九三八)二月、中国空軍機が台湾の松山飛行場を爆撃した。続いて五月、二機の中国軍機が九州上空へ侵入した。幸いにしてこのときは紙爆弾、いわゆる宣伝ビラをばらまいただけで飛び去ったのであるが、本土防空の任を預かっていた陸軍防衛司令部は、ついに敵機の内地上空への侵入を許してしまったのである。しかし、陸軍は中国空軍機の侵入を深刻な事態だと認識していなかった。いたとしても、それは一部の航空関係者だけであった。
 このような状態であったから、防空戦力を本格的に強化しようという気運は一向に高まらなかった。驚くべきことに、太平洋戦争が始まる直前まで日本の防空部隊は高射砲と聴音機という旧態依然たるシステムに基づいたものであった。航空部隊は必要に応じて付随させるという程度のものでしかなかったが、昭和十六年(一九四一)七月になって防衛総司令部が新設されると、それに併せてようやく防空専門の飛行戦隊五個が編成された。しかしながら装備は旧式の九七式戦闘機のみであり、本土防空の大任にはまったくもって不十分なものであった。一方、海軍は大正十二年(一九二三)に取り決められた本土防空任務分担協定により、要港防空がおもな任務となった。以来、防空に関しては要港を敵襲から護るという局地的な認識しか持っていなかった。
 陸海軍とも「叩かれる前に叩く」、先制攻撃による敵航空兵力の無力化を前提とした積極防衛思想であった。結果として、隼や零戦、九七重爆や九六陸攻といった長距離侵攻能力を重視した戦闘機や爆撃機が主戦力として整備されていく。後に「鍾馗」や「雷電」と命名されることになる防空任務に適した戦闘機の開発も行われていたが、その用兵思想は航空関係者になかなか理解されず、遅々として進まなかった。昭和十六年(一九四一)十二月八日、太平洋戦争が勃発した。日本は勝利の凱歌にわいていたが、その上空は無防備のままであった。
 緒戦に大きな打撃を受けたアメリカ軍だったが、ただやられっぱなしではなかった。昭和十七年(一九四二)四月十八日白昼、空母「ホーネット」から飛び立った米陸軍のB25爆撃機十六機が本土上空へ侵入、帝都を中心に各地を爆撃したのである。その冒険的な日本本土が空からの侵攻に対してまったく無防備である、ということが露呈してしまった。帝都を爆撃されるという由々しき事態に至り、ようやく陸軍も本格的に本土の防空態勢を考えないわけにはいかなかった。これまで防空任務に当たっていた旧式の九七戦に替えるため、二式複座戦闘機「屠龍」の配備を急ぎ、二式戦闘機「鍾馗」を装備してビルマ方面で作戦していた独立飛行第四七中隊を本土に戻した。
 連合艦隊は帝都が空襲されたことで陸軍や軍令部の反対を抑え、ミッドウェイ作戦を強行した。しかし、虎の子の空母四隻を失うという取り返しのつかない大敗を喫してしまった。八月にはソロモン諸島のガダルカナル島へアメリカ軍が上陸した。以後、南洋の戦局は悪化の一途をたどる。予備戦力のない日本は防空部隊を次々と抽出し、前線へ投入しなければならなかった。航空兵力の他にも高射砲部隊やレーダー網の整備が急務となっていたが、悪化する南方戦線の状況に本土防衛を顧みる余裕はなく、防空部隊の整備は遅々として進まなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.15

熊本城攻防戦(9) 伝統を捨てた薩軍の失敗

 その後、熊本城の攻囲戦は約五〇日にわたって続けられたが、ついに落城することはなかった。結局のところ、二十二日の一戦が熊本城攻防戦を事実上決したのであった。
 谷は戦略の基本に則り、熊本城の防御力を信じて籠城を続け、薩軍を長期戦に引きずり込めばそれでよかった。だが薩軍は損害を顧みず、なんとしても熊本城を落城させるしかなかった。そして歴史は、谷の思惑通りになった。
 二月二十二日の戦闘における熊本鎮台の死傷者数は一〇五名を数える最大のものであり、うち段山・藤崎台方面の死傷者数は八九名とその大半を占めた。さらに死傷者数を分析してみると、三〇名近くが戦死しており、いかに段山をめぐる戦いが激戦であったかがわかる。
 この鎮台の戦死者数だが、実は銃火をかいくぐって突撃していた薩軍の損害と大差なかった。狙撃による正確な射撃が鎮台側に大きな損害を与え、発射弾数の少ない旧式銃の不利を補っていたのである。旧態依然の白兵突撃や旧式銃の装備が敗因の一つとしてよく取り沙汰される薩軍であるが、銃撃戦でも健闘していたのである。
 もし二十二日に薩軍がさらなる強攻を続けていたならば、彼我の兵力差を考慮した場合、兵力に劣る鎮台の損害もまた少なくなかったはずである。その結果として、その日の熊本落城もあり得ないことではなかった。
 もちろんその場合、薩軍の損害もまた少なくはなかったであろう。が、西南戦争の緒戦で「死を恐れぬ薩摩兵」が熊本城を攻略していれば、その無敵のイメージを再び全国に轟かすことになり、唯一政府軍に凌駕していた士気の点でさらに大きな優位性を確保することができたはずである。
 以後、薩軍は攻城戦による損耗を恐れて長囲戦に転じ、結局のところ田原坂で薩軍の意に反する消耗戦に引きずり込まれた。桐野は後に篠原案の否決を悔い、篠原は吉次峠に散ったのであった。

(初出:学研『歴史群像』No.58 2003年4月号)
参考文献:陸上自衛隊北熊本修親会編『新編西南戦史』(原書房)/藤崎定久『日本の城 攻防の戦略』(ナツメ社)/『西南戦争 戦袍日記写真集』(青潮社)ほか

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.13

熊本城攻防戦(8) 薩軍後退

 段山をめぐる戦いは日没まで続いた。城兵の予想以上の抗戦に薩軍はついに後退し、各所に防塁を築いて城兵に対峙した。薩軍に「糞鎮」と罵倒された鎮台兵は最後までこの激戦を乗り切った。この戦いによって得た自信は大きなもので、以後、彼らは薩摩兵を恐れることなく、互角の戦いを演じていくことになる。
 一方、絶対の自信を持って攻撃をかけたものの、鎮台側の強力な火勢をついに突破できなかった薩軍の意思は大きく揺らぐことになった。その夜、薩軍幹部は本庄村に集結し、軍議を開いた。熊本城の強行を続けるか、否か。誰もが重い口を開こうとしない中、日頃口数の少ない篠原が、いつになく強い口調で主張した。
「我が軍は熊本城を陥落させることによって緒戦の大利を占め、彼我の形勢を一挙に決することができる。いたずらに日を重ね、攻城を長引かせることは政府軍を強化させ、我が軍の敗北を招くことになるであろう。たとえ兵力の半ばを失うことがあっても、熊本城は奪取しなければならない」
 篠原は、この日の攻撃失敗で自軍の士気低下を察していた。古来より、薩軍は損害を顧みぬ幾多の白兵突撃で勝利を収めてきた。もしここで損害を恐れ、目前の障害を避けるようなことになれば、多くの血で築き上げてきた薩摩の伝統を捨てることになる。それは必ずや、後日の戦いに禍根を残すことになる。篠原はそう考えたに違いない。
 居合わせた将校の意見は一致、軍議は夜襲と決し、各隊にその準備が通達された。昼間の銃撃戦ではしてやられたが、夜襲斬り込みとなれば薩摩がもっとも得意とするところである。篠原の予想通り、突撃と知った薩摩兵の士気は大きく上がった。
 ところが、後続としてこの夜に到着した野村忍助らが、夜襲に強く異議を唱えた。
「徒に兵を失うのは上策ではない。一部で熊本城を包囲、主力は北上して長崎・小倉を攻略すべきである。城はいずれ立ち枯れる」
 軍議は再び紛糾した。野村は理論派らしい戦略論を展開し、篠原の実戦経験に基づいた強攻策を封殺しようとした。両者の意見が相容れることはない。どちらの意見ももっともであると、いずれにも決断できず困惑した桐野は、西郷に裁定を求めた。
 西郷は長考の末、主力による熊本城の強攻を中止するという断を下した。ここに薩軍の議論は決し、同時にその運命も決したのであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.12

熊本城攻防戦(7) 段山攻防戦

 篠原国幹、別府晋介、村田新八らの背面軍三〇〇〇は午前七時頃に花岡山へ進出、篠原の指揮により、藤崎台および段山に対して一斉に攻撃を開始した。別府隊の一部は法華坂へ向かい、篠原隊と村田隊の一部は島崎村を経て藤崎台の北側に回り込み、篠原隊と別府隊の主力は段山と漆畑へ攻め込んだ。
 段山方面は藤崎台や砲兵営、漆畑などのある緩やかな傾斜地で、井芹川を挟んで島崎村や花岡山に対していた。城内を見渡すことができる段山は井芹川を防御ラインとした場合の重要な出城的存在だったが、城郭部から孤立するように突出しており、西端の藤崎台にわずか三間(五・四メートル)の幅をもって接していた。藤崎神社や片山邸のある藤崎台は舌状に突出して挟撃されやすい形状で、熊本城の弱点はここにあった。
 だが、鎮台側も薩軍がここを主攻としてくることを十分に予測していたため、特に防備を強化していた。谷は、実に総兵力の半数近くを段山方面に集中配備したのである。
 熊本城の配備にあたり、谷は各部隊の士気を考慮した。神風連の乱で大きな損害を受けた第一三連隊第一及び第二大隊は主として防備の堅固な東面および南面に置き、乱を鎮圧した精兵第三大隊と士族で構成された警視隊の主力を段山方面に展開した。また、砲兵も約半数の一二門を集中配備した。
 だが、城郭外にある段山までは兵力を展開する余裕がなく、谷は初めからここを放棄していた。そのかわり、薩軍より優勢な火力をもって段山に射圧を加え、その占領を阻止しようとしていた。
 火力を集中配備した鎮台側の反撃は激しく、どの方面においてもなかなか薩軍の突破はならなかった。ところが午前十時頃、別府隊の一部が弾雨をかいくぐり、ついに段山を占領することに成功したのである。
 段山を制した薩軍は、ただちに正面の藤崎台や片山邸の鎮台兵を狙撃をした。さらに午前十一時頃には一番砲隊が到着し、島崎村や花岡山、四方地などに展開、城内に対する砲撃を開始した。段山にも山砲が上げられ、至近からの砲撃を開始した。
 段山で開始された薩軍の歩砲協同攻撃により、鎮台側では将兵の死傷者が続出した。片山邸で激戦を指揮していた第一三連隊長与倉中佐は腹部銃創を受け、後日死亡した。続いて藤崎台の防備を指揮していた樺山参謀長も敵弾に当たり、負傷した。
 大きな損害を受けた鎮台側であったが、谷は藤崎台を放棄することなく、下馬橋や嶽ノ丸などから援兵を抽出し、さらには段山を占拠する薩軍に対して兵を出し側撃を加えるなど、積極的な防戦を展開した。薩軍もこの鎮台兵に反撃を加え、段山をめぐる彼我の銃砲火は激烈を極めた。
 前述のように藤崎台は突出部であり、防備するにはより多くの兵を必要とした。しかも段山を取られればそこから撃ち下ろされる格好となる。ただでさえ少ない兵力に余裕を持たせるのであれば、二の丸に防御線を後退させた方が好ましいはずなのである。ところが谷はまったく逆のことをやった。その意図はどこにあったのか。
 鎮台の目的は熊本城を死守することにあったが、谷は防戦一方に偏らず、薩軍を熊本城に引きつけ、出血を強いらせようとしていたのである。繰り返すことになるが、段山方面は熊本城の弱点であり、一気に落城させようとはやる薩軍がそこへ自軍の精鋭を投入してくることは、まず間違いなかった。
 谷は逆に段山方面の弱点を利用して敵兵力を誘引し、優勢な自軍の火力を集中して、薩軍の主力を一挙に撃破してしまおうとしたのである。段山を奪取されればたしかに城内を撃ち下ろされることになるが、敵もまた丘陵に身を晒さねばならない。段山に対する積極的な反撃はまさにそれを狙ったものであった。
 地を利していながら敵には不利なように見せ、敵の精鋭を火力によって制圧する、それはかの長篠合戦を彷彿とさせるような戦法であったともいえる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.10

熊本城攻防戦(6) 二月二十二日の攻防戦

 熊本攻城を決した薩軍は二十二日午前三時、地理に詳しい熊本士族を先導として川尻を進発した。具体的な作戦はなかった。途中、正面軍と背面軍とに分かれて熊本城の両面に展開、払暁を期して一斉に攻撃を開始する手筈となっていただけである。
 薩軍各隊の部署は、正面軍が桐野利秋の四番大隊と池上四郎の五番大隊が合わせて二五〇〇人、背面軍は篠原国幹の一番大隊、村田新八の二番大隊、別府晋介の連合大隊の合わせて三〇〇〇人であった。この他、永山弥一郎の三番大隊他の三四〇〇人は到着が遅れたために予備隊として置かれ、二番大隊の大部は政府軍の上陸を警戒して海岸防備に回された。残る兵力と、攻城戦にもっとも必要とした砲隊は、まだ行軍途中であった。全軍強襲と決した割には中途半端な兵力の投入であるという印象を否めないが、薩軍は現有戦力で十分に攻略可能と踏んでいた。
 その根拠は、圧倒的ともいえる将兵の資質の差であった。薩軍が戊辰戦争の実戦経験豊富な将兵ばかりであったのに対し、神風連の乱で弱体ぶりを晒した鎮台兵である。あのとき鎮台兵は、わずか一七〇余名の熊本士族に蹴散らされた。今度の出陣は、最強と謳われた薩摩士族が五五〇〇である。近代装備は貧弱だが、それを補うに十分な経験と士気がある。これが熊本城に迫れば、三〇〇〇程度の鎮台兵なんぞ鎧袖一触、という自信が薩軍全体にみなぎっていた。
 熊本城をめぐる戦いは、午前六時に開始された。
 池上の五番大隊一七〇〇名は長六橋および安巳橋方面から白川を渡り、城東に向けて進撃、城内への突入を試みた。これに対し下馬橋の山砲一門、飯田丸に据えられた野砲二門と臼砲一門、そして千葉城の野砲一門、山砲一門が一斉に火を吐き、嶽ノ丸に配備された歩兵第一三連隊第二大隊第三中隊も猛射を加え、池上隊を撃退した。
 鎮台が拠とした熊本城は、天守閣をはじめとした壮麗な建造物と扇の勾配と呼ばれる優美な石垣のある本丸が難攻不落の象徴として語られることが多い。だが、その実質は茶臼山を中心として千葉城と古城の二つの旧城を取り込み、一二〇〇メートル×一五〇〇メートルという広大な城域に火力防衛を重視した巧妙な縄張を施しているところにあった。
 本丸が築かれた茶臼山は、京町台地と呼ばれる熊本平野に突き出た台地の南端に位置している。台地の東側は坪井川に面した急崖で、先に築かれた千葉城や古城と同じく、ここを背後の要害とした。この天然の要害の上に曲輪を二段に構え、さらに多数の櫓や多聞を並べて、対岸の敵に対して立体的な火線を構成していた。まさに池上隊はここへ突撃したのである。
 固く防備された城東からの突入は不可能と見た池上は坪井川に沿って北上し、千葉城に目標を変更して攻撃を加えた。また、河野主一郎の第一小隊は錦山神社に上り、京町口の埋門を攻めた。対する鎮台側は、第一三連隊第一大隊第四中隊と野砲一門、山砲一門を千葉城に配備し、埋門には山砲二門と臼砲一門を据えていた。
 池上隊はここでも激しい射撃を受け、突入はならなかった。千葉城は坪井川を隔てた要害であり、京町に続く城の北面は台地の狭隘部である錦山神社のところで三六メートルの空掘によって切断されていたからである。
 城東からの唯一の攻撃ポイントは下馬橋だった。午前七時、ここを狙って進んだ桐野の四番大隊八〇〇名は、下馬橋を守る第一三連隊第一大隊第一中隊と巡査五番組五〇名、それを支援する山砲一門と激しい射撃戦を交えた。桐野隊はまた、城下に焼け残った土塀を遮蔽物として利用し、古城にあった県庁や藤崎台を攻撃しようとしたが、鎮台側の飯田丸砲台が榴散弾を連発し、下馬橋の守兵も猛射を加えたため桐野隊は進むことができず、後退した。なおこのとき、桐野は西郷と共に本陣にあり、攻城戦には参加していなかった。
 一度は撃退された桐野隊であったが、午前九時二〇分、果敢にも古城及び法華坂に再び迫った。ところが、ここは鎮台側の火力防備が強化された部分であり、十字砲火を浴びてたちまち撃退された。
 城南を守る古城は坪井川から引いた水堀のある縄張で、その曲輪の一角に県庁があった。古城を守っていたのは第一三連隊第一大隊第三中隊で、もっとも南端となる県庁には第一三連隊第二大隊第四中隊及び巡査四番組一〇〇名、さらに山砲二門と臼砲二門が配備されていた。
 また、法華坂は新町方面で唯一大きな開口部となっており、もっとも攻め込まれやすい弱点の一つだった。ここは藤崎台の付け根にあたり、もし抜かれるようなことがあれば一気に二の丸へ突入され、段山方面と本丸の連絡が切断されてしまう危険があった。
 そのため、法華坂には第一三連隊第一大隊第二中隊とそれを支援する山砲二門が置かれ、その東側の一日亭には第一三連隊第二大隊第二中隊が布陣、厳重に防備を固めていた。さらに、古城及び県庁の部隊が必要に応じて敵を側撃することになっていた。桐野隊は、この只中へ飛び込んだのであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.09

熊本城攻防戦(5) 風雲急を告げる熊本城炎上

 熊本鎮台が臨戦態勢に入った翌日の二月十九日、熊本城内では思いもかけぬ非常事態が発生した。本丸の失火である。火災発生時刻は午前十一時四十分であったと記録されている。烈しい風のために火はたちまち燃え広がり、正午頃には天守台まで延焼、大天守と小天守がともに炎に包まれた。火は折りからの強風にあおられて城下に飛び、市中にも火災を発生させた。
 城内の火災は午後三時頃に鎮火したが、二つの天守は完全に焼け落ちてしまった。失火の原因は現在も不明であるが、薩軍は籠城の決意を示す自焼と信じて疑わなかったという。本来、城郭は縄張だけで十分にその防御機能を発揮する。特に近代戦では天守閣のような建築物は砲撃目標となりやすかったから、薩軍がそう考えたとしても無理はない。
 熊本城の炎上がまるで開戦の烽火であったかのように、熊本をめぐる両軍の動きがにわかにあわただしくなってきた。薩摩からは西郷隆盛の上京と熊本通過の趣旨を記した鹿児島県令大山綱良の書が到着した。京都からは、鹿児島賊徒の征討を決し、有栖川宮を征討総督に仰せつかった旨の電報が届いた。また、大坂の野津道貫少将からも、野津・三好重臣両少将が第一・第二旅団司令長官に任ぜられ、博多へ向けて出発するという内容の電報があった。
 さらにこの日、小倉からようやく待望の援軍が熊本に到着した。谷が呼び寄せた第一四連隊のうち、山脇大尉の率いる第一大隊左半大隊であった。翌二十日には綿貫吉直少警視が率いる東京警視隊四〇〇名が入城し、これが熊本城に対する最後の援軍となった。
 二月二十日、薩軍の先鋒を務める別府晋介の連合大隊が、熊本城南方の川尻に到着した。この報を得た鎮台司令部は、斥候を派出して敵情を確認、翌二十一日未明、威力偵察の目的をもって二個中隊を出撃させた。川尻の薩軍本営を焼き払おうとしていたという。しかし、薩軍の哨兵がこれを察知して反撃に及んだため、目的を達することなく帰還した。これが、西南戦争における両軍最初の交戦となった。
 このとき、薩軍は鎮台側の伍長一名を捕虜とし、城内の状況を知った。別府は単身小川に戻り、同地に着到したばかりの桐野に諮って熊本先行を独断。午前七時、薩軍先鋒が坪井通町を通過しようとするところで、鎮台が薩軍の侵入を確認し、嶽ノ丸と千葉城の守兵が射撃を加えた。薩兵は散開し、城内の防備状況を探った。
 二十一日夜、西郷ら薩軍幹部が川尻に到着し、軍議が開かれた。議論は全軍による熊本城強襲と、攻城部隊および進撃部隊に二分して作戦する、という両論に分かれたが、西郷の断により全軍強襲と決した。事前の予想通り鎮台兵は惰弱であった、と川尻の戦いで判断し、またかつて西郷が抜擢した樺山をはじめとする、城内にいた薩摩人の内応を期待していたともいわれる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.08

熊本城攻防戦(4) 熊本鎮台の籠城戦略

 神風連の乱後、熊本鎮台司令長官には土佐出身の陸軍少将谷干城が任命された。決断に長け、意志が強く、そして執念深い歴戦の武将であった。
 中岡慎太郎亡き後の陸援隊を指揮した谷は、戊辰戦争で大監察及び軍監に任命され、土佐藩兵を率いて関東・東北を転戦、新政府軍の勝利に大きく貢献した。明治六年、桐野の後を継いで熊本鎮台司令長官となったが、翌年、参軍として台湾に出征。帰国後、再び熊本鎮台司令長官となったのである。
 一月二十八日、陸軍卿山県有朋より鹿児島の不穏な状況に対応すべく準備せよとの命を受けた谷は、小倉の第一四連隊に熊本入城を命じるとともに、籠城の準備にかかった。
 谷は薩軍の出撃に対し、はじめから籠城を決意していた。最強と謳われた薩摩兵の性格や戦術は、戊辰戦争で共に戦った谷自身がもっともよく知っている。そして、自らが率いる鎮台兵の脆弱性もよくわかっていた。
 侵攻が予想される薩軍兵力は一万から二万。一方、我が鎮台は小倉の第一四連隊をすべて合わせても五〇〇〇程度でしかなかった。彼我の兵力差は大きく、城外でその進撃を止めることは難しい。そしてなにより、敵を城外に誘引撃破する「釣り野伏せ」は戦国以来、薩摩がもっとも得意とする戦術である。鎮台兵が野戦で敗れたならば、もはや熊本城を守る術はない。
 しかし火力に頼るならば、鎮台兵とてこれまでの士族暴動を鎮圧した実績がある。特に熊本鎮台には、最新の英国製スナイドル銃が優先的に配備されていた。その数は約一五〇〇挺で、第一三連隊の半数ほどの兵力に装備させることができた。スナイドル銃は後装式の連発銃で、前装式だったエンピール銃に比べ数倍の火力を発揮することができた。薩軍に優る銃火の威力に頼り、熊本城に籠城するならば、脆弱な鎮台兵といえども防戦が可能なはずである。
 また、政府軍の対薩摩戦略からすれば、前述した薩摩側から見た位置付けとは逆に、熊本は九州における薩軍の作戦行動を制しうる唯一の要点であった。よって、政府軍にとって熊本城の死守は必然だった。しかも、熊本城の籠城を長期化させればさせるほど後詰となる政府征討軍の動員が進み、戦力が強化されることにもなる。略術の両面から見て、熊本鎮台が熊本城に拠ることが薩軍と戦う上で最良の選択だった。
 さて、薩摩をめぐる情勢は、二月に入ってから日に日に悪化していった。熊本鎮台の作戦を記録した『熊本鎮台日記』には、二月十四日以降、地雷を製造して埋設し、火薬庫をつくり、木柵や堡塁を構築した、といった内容の記述が連日のように出てくる。中でもよく目につくのが「地雷」である。
 地雷は南北戦争で登場し、日本でも戊辰戦争の頃にはもう使用されていた。当時のものは雷管式ではなく導火線に着火する方式で、その長さで時間を調定、爆破させるというものだった。城内の突入経路となる場所に埋設された模様で、具体的な戦果は不明だが、それなりの防御効果はあったようだ。
 閑話休題。二月十七日、熊本県令富岡敬明から鎮台に急報があった。暴徒二万五〇〇〇人が米ノ津に到着、以後の陸海の進路は不明、鹿児島方面の郵便が途絶した、という内容である。熊本鎮台は警戒態勢に入り、それまで一般人でも通行可能だった城内の新堀門から法華坂を通行止めとした。翌十八日午後二時には城門を閉鎖、鎮台兵とその家族以外の入城を遮断する処置を取った。
 これらは、市中の熊本士族に対する防備措置であった。城内が一般に開放されていたため、前年に起きた神風連の乱で士族一七〇余名の奇襲を受け、鎮台の死傷者二三〇余名という大きな損害を出した反省であった。
 熊本城が臨戦態勢に入ったことで、県庁は城下の住民に避難を命じた。同日、政府は征討令を発し、九州へ征討旅団の出動命令を下した。
 この頃、熊本城下では、熊本士族学校党の青年組織である「連」を中心とした鎮撫隊が県令の許可を得て結成されていた。市中の治安を守る名目であったが、その実態はまさに谷が危惧したとおり、薩軍に加勢しようと目論む士族集団であった。
 これが後に熊本隊として薩軍に加わることとなる。当初は七〇〇人ほどであったが、後には一五〇〇人まで膨れ上がった。さらに龍口隊や協同隊なども加えると、二〇〇〇を超える熊本士族が薩軍に加担したのであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.07

熊本城攻防戦(3) 薩軍挙兵とその戦略

 明治十年(一八七七)一月末の鹿児島私学校党による火薬庫襲撃、政府による西郷暗殺疑惑の発覚により、薩摩士族の挙兵は決定的なものとなった。
 彼らの目的は、西郷を中心とした政府刷新という維新の再断行であった。だがその実態は、他の士族叛乱と変わるところのない、武士階級復権のための決起であった。結果的に明治維新は武士の首を絞めることになった。そこで旧体制復活のために決起するという皮肉な結果が、西南戦争だったのである。
 二月六日、私学校本部に薩軍本営の門票が掲げられ、最初の軍議が開かれた。その中で、西郷隆盛の弟小兵衛は海路長崎奇襲、野村忍介は長崎・熊本・豊前への三道並進策を主張した。だが、首謀格の桐野利秋が彼らを制し、意見した。
「此度の一挙は政府の不正を質さんとするものであり、我等は西郷先生を警護する義兵である。奇襲などという姑息な手段を用いては義兵の名を自ら辱めるものとなる。堂々と威厳を持って中原に進撃すべし」
 小兵衛と野村の意見はいずれも戦略的海上機動によって政府軍の意表を衝き、本州に上陸しようという意図であった。最大の問題は海上機動できる船舶が薩摩にないことで、まず長崎を襲撃して軍艦を奪取する必要があった。が、薩軍側には長崎における軍艦の有無を確認する術がなかった。それに、政府海軍は薩軍を警戒してすでに作戦中であり、この時点で軍艦奪取の成算はなかった。
 これに対し、桐野の作戦は全軍で陸路を進撃、熊本を制した後、東上しようというものである。桐野の発言にあった中原は東京を意味しているが、九州南端にあった薩摩にとって、熊本は九州の中原であった。太宰府に至る豊前街道、大分に至る豊後街道、延岡に至る日向街道、そして鹿児島に至る薩摩街道といった四本の交通路が集中し、古来より薩摩の北進を制する要衝であった。
 また、熊本は鎮台が置かれた九州の軍事的主都であった。一国の首都にも匹敵する熊本攻略こそが戦略的優位性を確保することになり、さらには士族の一大決起を促す起爆剤ともなり得た。特に友軍たりうる九州士族に及ぼす心理的影響を考えれば、熊本攻略は避けて通ることができなかったのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.05

熊本城攻防戦(2) 徴兵制度と士族の暴動

 薩摩・長州・土佐などの雄藩による明治維新は徳川幕藩体制を終焉に導き、王政復古を果たした。だが、全国二七〇余りの諸藩は依然として封建制度を維持したまま健在であった。これは明治政府にとって、再び建武中興の起きる可能性を包含した危険要素であった。そこで、政府は明治二年に版籍奉還を実施、次いで明治四年に廃藩置県を断行して、武家社会を完全な崩壊に導いた。
 戦さを生業としていた武士にとって決定的なダメージとなったのは、平民の徴兵によって政府軍を組織する国民皆兵制度であった。これにより、全国四〇万の武士は一夜にして士族という失業者に成り変わったのである。
 以後、明治十年に西南戦争が勃発するまで、各地で毎年のように士族の暴動が起こった。その主なものだけで三〇回以上に及ぶ。いずれも、武士のプライドと仕事を奪われた士族の復権を賭けた戦いであった。
 明治六年(一八七三)、西郷隆盛がいわゆる征韓論の論争に敗れて鹿児島へ下野、桐野利秋をはじめとする薩摩士族が行動を共にしたことで、九州の情勢は一挙に緊迫した。薩摩の動きに歩調を合わせるかのように佐賀の乱が発生し、熊本でも神風連の乱が起きるなど、士族の叛乱が続発した。
 中でも神風連の乱は、西南戦争の勃発に大きな影響を与えた。明治九年(一八七六)十月二十四日午後十一時半、敬神党を中心とした熊本士族一七〇余名が熊本城西に鎮座する藤崎八幡宮に集結し、熊本城内の兵営や県庁などを襲撃したのである。
 これは全くの奇襲となった。自宅にいた県令安岡良亮や熊本鎮台司令長官種田政明少将、参謀長高嶋茂徳中佐らが斬殺され、第一三連隊長与倉知実中佐も負傷。営内にあった兵士六五名が戦死、一六七名が戦傷するという大きな被害を受け、連隊旗を奪われた。
 負傷をおして出撃した与倉連隊長は城外に駐屯していた第一三連隊第三大隊を中心に部隊を立て直し、連隊旗を奪回して面目を施した上で賊徒を壊滅、叛乱を終結させた。だが、徴兵による鎮台兵が脆弱であることを暴露し、これが熊本城攻防戦の大きな伏線となっていくのであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

熊本城攻防戦(1) 精強薩摩軍を食い止めた谷干城の決断

 明治十年(一八七七)に起きた西南戦争は、維新の基幹戦力だった薩摩武士がその復権を賭け、徴兵制度によって成立した政府軍に挑んだ、旧軍事体制と新軍事体制の戦いであった。その一方で、加藤清正が築城した戦国築城術の集大成ともいえる熊本城を、維新完遂の原動力になった近代的装備と戦術を保有した薩軍が攻める、という逆転現象を起こした戦いでもあった。
 結論から言えば、薩軍はついに熊本城を攻略することができず、西南戦争における大きな敗因となった。なぜ、熊本城に拠った戦闘未経験の政府軍が、最強と謳われた薩軍の攻勢を撃退することができたのか。それは、熊本城の巧妙な縄張を利用した熊本鎮台司令長官谷干城少将の決断にあった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.03

舞子砲台(3) 砲台をめぐる明石藩の論争

 舞子砲台は舞子浜の海岸線に沿って築かれた総石垣の砲台で、残された記録から全長は約七〇メートル、奥行は一四~二〇メートルの規模であったと考えられている。勝麟太郎は諸外国で見聞した砲台を参考に舞子砲台を設計したというが、詳細は明らかでない。当初は和田岬砲台等と同じく石堡塔を中央に据え、その海面側に堡塁を築く計画であったというが、最終的には堡塁上に砲台を構築した。
『明石名勝古事談』等によれば、石垣の上層には屋根のある密閉式の砲室が設置されていたという。築造当初は石垣の上に石欄が載っただけの簡単な構造であったが、発砲時の煙による視界不良を改善する為に石欄上に胸壁を設け、大砲を室内に取り込む二層構造の密閉式石堡塔として完成した。高さは上層が約八メートル、下層が九メートルだったという。砲室の天井は一尺五寸の松材を数百本組み合わせ、その隙間にチャン(=ピッチ。原油やタールを蒸留して得る黒色固形物)を詰め込んで天覆としていた。
 砲室には背面に五か所(七か所とも)設置された円形門(アーチ)から出入りするようになっており、上層へ昇降するため、それぞれ右から二番目、左から二番目の門の側に一九段の石段が設置されていた。なお、屋上の隅に大きな反板があり、発砲時にはこれを開放して煙を抜くようになっていた。
 砲台前面は六曲屏風の如く折れ曲った特徴的な稜堡構造であり、一曲毎にその中央と左右に砲門が開き、大砲の砲口を向られる様になっていた。設置された砲門の数は一五か所で、左の窓は右向き、右の窓は左向き、中央の窓は直射する仕掛けとなっていた。
 このように完成した舞子砲台だったが、明石藩の砲術師範荻野六兵衛が荻野流砲術に適せずと、砲を据えることを拒否した。総石垣は堅牢なようで実は脆く、敵の砲撃に対して防ぐ備えがない。また、室内で砲撃すれば砲煙で砲撃不能となるというのである。
 たしかに砲煙の件は荻野に一理あったが、石垣に対する苦言は時代錯誤であり、設計者だった勝を無能呼ばわりするなど、まるで言いがかりともいえるものだった。藩の砲術師範でありながら、築造当初から係わることのできなかった不満が感じられる。
 荻野の指摘により勝は砲台の石垣前面を土俵で覆うこととしたが、今度は石工の谷淺吉等より異議が出て収拾がつかず、ついに維新となって廃止された。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.02

舞子砲台(2) 大坂湾防衛計画

 舞子浜は明石海峡の最狭部に面し、大坂湾の防備上、重要な位置を占める戦略要地であった。
 しかし、当時の徳川幕府は異国船に対する江戸湾の防備に追われ、大坂湾に関してはまったくといっていいほど防備対策をとっていなかった。それは幕府が江戸にあったというだけでなく、大坂湾は内海であるから異国船が容易に侵入することはない、という考えにとらわれていたからであった。
 ところが安政元年(一八五四)九月、ロシアのプチャーチンが乗艦する軍艦ディアナが大坂湾へ侵入し、幕府からの要請により下田へ回航するまで天保山沖に居座った。この異国船の大坂湾侵入は、朝廷と幕府に大きな衝撃を与え、これまで無防備に近かった大坂湾防備がにわかに重大な問題となった。
 かくして、幕府は畿内諸藩に大坂湾の厳重防備を命じた。大坂湾の防備は、朝廷の位置する京都防衛がその前提となっていた。このため、大坂湾入口~湾内海岸~淀川筋という三段構えでの防備態勢が布かれることになった。
 その中でもっとも重視されたのが、大坂湾入口の防備であった。湾入口となる紀淡海峡および明石海峡はともに幅約四キロメートルで、江戸湾入口の観音崎~富津間約八キロメートルに比較して防御しやすいという利点があった。しかし湾口を通過すればいっきょに湾が広がり、次なる防備地点は湾内の各地沿岸となってしまう。したがって、大坂湾の防備はこの地勢的利点を最大限に生かした対策を採る必要があった。
 幕府は大坂湾入口の要衝である紀淡海峡および明石海峡の各所に台場を築き、防備を厳重にすることを和歌山、徳島、そして明石の各藩に命じた。
 本題である明石海峡の防備に限って説明すれば、海峡の南側となる淡路島北端は徳島藩が管轄し、四か所の台場を構築した。中でも最北端の松尾台場には、一三門の砲が装備されていた。
 一方、海峡北岸は明石藩の管轄であり、既存の三か所に加え、文久二年に九か所の台場を築いていた。これらはいずれも荻野流砲術に基づき、土塁で築かれた小規模なものであった。
 この当時装備されていた両藩の備砲を比較すると、松尾砲台には八〇ポンド砲四門、六〇ポンド砲三門、二四ポンド砲五門、二九ドイム砲一門といった洋式砲を装備していた。そのうち二四ポンド砲の有効射程は、射角一〇度で約二八〇〇メートルという記録が残っている。
 ところが、対岸の舞子砲台の前身ともいえる舞子浜台場は、七百目玉と三百目玉の荻野流和式砲が各一門だけであった。その射程だが、文久二年(一八六二)に起きた長州船誤射事件時の射撃開始距離は九〇〇メートル弱だったという。これでは明石海峡全域を射程内に収めることができない。
 文久三年(一八六三)、老中格小笠原長行、将軍家茂、姉小路公知らが大坂湾の防備状況を巡視、徳島藩の防備に比較して明石藩の防備が貧弱であることが明らかとなり、台場を改築せよとの幕命が下った。
 かくして、最狭部の舞子浜にも近代的な砲台が築かれることになった。松尾砲台と同等の性能を持つ大砲が舞子浜にも装備されていれば、明石海峡を完全に射程内に収めることができるからである。
 文久三年四月、明石藩は幕府から二万両の貸与を受け、勝麟太郎(海舟)の指導により舞子砲台の築造に着手した。主幹は明石藩家老織田安藝守等、石工は備前の谷淺吉と明石の都藤六兵衛が請負った。また、神戸海軍操練所の明石藩士が工事を手伝ったとも伝えられている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.01

舞子砲台(1) 明石海峡を睨む勝海舟の要塞

 神戸市垂水区東舞子町の明石海峡大橋のたもとに、屏風状の石垣と石碑が残っている。勝麟太郎(海舟)の設計・指導で築かれたという舞子砲台跡である。
 この石垣は当初、昭和初期の国道二号線拡張に伴う護岸工事で築き直されたもので、歴史的価値はないと考えられていた。このため、昭和六十三年の同大橋建設関連の事業により東半分が埋め立てられてしまったが、平成十五年十一月から続けられてきた最近の試掘・確認調査で、これが江戸末期の築造当時のまま改築されることなく、良好な状態で残存している砲台であることが明らかとなった。
 砲台跡の調査にあたっている神戸市教育委員会の報告によると、これまでに本砲台跡の東角部を確認、東西最大幅七〇メートル、W型の稜堡式砲台であることが確定した。
 試掘により確認できた石垣は砲台の石垣総延長のほぼ五割に達し、上段に据える大きな介石の存在、丁寧な裏込めの状況など、幕末期の特徴を持つ基壇部築造の様相が明らかとなり、しかも後世に石材の積み替えなどを行った状況が見受けられなかったことから、幕末に築造された石積みがそのまま遺存していることが確認された。このことから俄然、舞子砲台跡は大きく歴史的価値を高めることになったのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »