震天制空隊
昭和十九年(一九四四)十一月一日、マリアナから飛来したB29爆撃機の偵察型F13が初めて帝都上空に姿を現した。たった一機のF13に対し、陸軍第一〇飛行師団はその全力をもって邀撃に出た。しかし、高度一万メートル以上の高高度を飛行するF13を捉えることはできなかった。その後も偵察飛行は繰り返されたが、邀撃機はどれも高度一万メートルに到達するのがやっとの状態で、そのさらに上空を悠々と飛行するF13を見送るしかなかった。帝都上空、衆人環視の中で繰り広げられた初の空中戦である。彼我の技術力の差は歴然であったが、そのようなことを知る由もない参謀本部や防衛総司令部、さらには市民の間からもこのふがいない状況に非難の声が上がり始めた。
第一〇航空師団長吉田喜八郎少将は、そのような声に決断せざるを得なかった。十一月七日、隷下の各戦隊に対し、空対空特別攻撃隊の編成を命じた。
「敵は高度一万米(メートル)で来襲、残念ながら我方には今これを邀撃するだけの優秀な飛行機はない。(中略)ここに於て、砲も弾丸も持たず、飛行機重量を軽減し、敵より上にあがり、体当たりを以て必墜以外にない」(『帝都防空戦記』原田良次)。
後に「震天制空隊」と命名されたこの空中特攻隊は、武装や防弾装備を取りはずした特別攻撃機で、高度一万メートルを飛行するB29に体当たり攻撃をかけ、自機もろとも撃墜しようというものであった。特攻機には大きな赤い梓弓の矢印が描かれた。「帰らじとかねて思えば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」という楠木正之の古歌からとったものであった。同様の特攻隊は西方の防空を担う第一二航空師団でも編成され、こちらは「回天 制空隊」と命名された。当初は各戦隊四機ずつの編成であったが、後には八機に拡大された。
この空中特攻隊が一般的な認識の特攻と異なるのは、搭乗員がパラシュートを装備していたことだ。B29に対する体当たり攻撃は延べ六十二回、うち生還の事例が十七ある。中には二四四戦隊の小林照彦少佐のように、二度特攻を敢行して二度とも生還、戦後を生き延びたという例もある。パイロットたちが「決死」の意気をもってB29に当たったこの特攻、「必死」の出撃ではなかった、ということがわずかな救いであろうか。
この空中特攻に対しては悲壮、愚劣、無謀といろいろな声がある。たしかに、太平洋戦争末期の圧倒的劣勢下における帝都防空戦は軍事的にほとんど無意味な戦いであった。特攻隊員も自ら望んで特攻を敢行した者ばかりではない。しかし、彼らが自らの命をかけて特攻を敢行させた最後のものは、一般市民を空襲から守るという純粋な激情であった。空の勇士たちの志は、敬意を以て永く後世に伝えられるべきであろう。
(初出:新人物往来社「別冊歴史読本」戦記シリーズNo.55「日本軍戦闘機」)
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