舞子砲台(2) 大坂湾防衛計画
舞子浜は明石海峡の最狭部に面し、大坂湾の防備上、重要な位置を占める戦略要地であった。
しかし、当時の徳川幕府は異国船に対する江戸湾の防備に追われ、大坂湾に関してはまったくといっていいほど防備対策をとっていなかった。それは幕府が江戸にあったというだけでなく、大坂湾は内海であるから異国船が容易に侵入することはない、という考えにとらわれていたからであった。
ところが安政元年(一八五四)九月、ロシアのプチャーチンが乗艦する軍艦ディアナが大坂湾へ侵入し、幕府からの要請により下田へ回航するまで天保山沖に居座った。この異国船の大坂湾侵入は、朝廷と幕府に大きな衝撃を与え、これまで無防備に近かった大坂湾防備がにわかに重大な問題となった。
かくして、幕府は畿内諸藩に大坂湾の厳重防備を命じた。大坂湾の防備は、朝廷の位置する京都防衛がその前提となっていた。このため、大坂湾入口~湾内海岸~淀川筋という三段構えでの防備態勢が布かれることになった。
その中でもっとも重視されたのが、大坂湾入口の防備であった。湾入口となる紀淡海峡および明石海峡はともに幅約四キロメートルで、江戸湾入口の観音崎~富津間約八キロメートルに比較して防御しやすいという利点があった。しかし湾口を通過すればいっきょに湾が広がり、次なる防備地点は湾内の各地沿岸となってしまう。したがって、大坂湾の防備はこの地勢的利点を最大限に生かした対策を採る必要があった。
幕府は大坂湾入口の要衝である紀淡海峡および明石海峡の各所に台場を築き、防備を厳重にすることを和歌山、徳島、そして明石の各藩に命じた。
本題である明石海峡の防備に限って説明すれば、海峡の南側となる淡路島北端は徳島藩が管轄し、四か所の台場を構築した。中でも最北端の松尾台場には、一三門の砲が装備されていた。
一方、海峡北岸は明石藩の管轄であり、既存の三か所に加え、文久二年に九か所の台場を築いていた。これらはいずれも荻野流砲術に基づき、土塁で築かれた小規模なものであった。
この当時装備されていた両藩の備砲を比較すると、松尾砲台には八〇ポンド砲四門、六〇ポンド砲三門、二四ポンド砲五門、二九ドイム砲一門といった洋式砲を装備していた。そのうち二四ポンド砲の有効射程は、射角一〇度で約二八〇〇メートルという記録が残っている。
ところが、対岸の舞子砲台の前身ともいえる舞子浜台場は、七百目玉と三百目玉の荻野流和式砲が各一門だけであった。その射程だが、文久二年(一八六二)に起きた長州船誤射事件時の射撃開始距離は九〇〇メートル弱だったという。これでは明石海峡全域を射程内に収めることができない。
文久三年(一八六三)、老中格小笠原長行、将軍家茂、姉小路公知らが大坂湾の防備状況を巡視、徳島藩の防備に比較して明石藩の防備が貧弱であることが明らかとなり、台場を改築せよとの幕命が下った。
かくして、最狭部の舞子浜にも近代的な砲台が築かれることになった。松尾砲台と同等の性能を持つ大砲が舞子浜にも装備されていれば、明石海峡を完全に射程内に収めることができるからである。
文久三年四月、明石藩は幕府から二万両の貸与を受け、勝麟太郎(海舟)の指導により舞子砲台の築造に着手した。主幹は明石藩家老織田安藝守等、石工は備前の谷淺吉と明石の都藤六兵衛が請負った。また、神戸海軍操練所の明石藩士が工事を手伝ったとも伝えられている。
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