家康の東部戦線(7) 武田勝頼の高天神城攻略
信玄死去の混乱に乗じて長篠城を奪われた勝頼は、その屈辱を晴らすべく、五月に二万五〇〇〇の兵を率いて甲府を発した。こちらは満を持しての出陣である。
その進撃先は三河ではなく、遠江であった。武田軍は駿河を経て大井川を渡り、遠江に侵入すると五月十二日に高天神城を囲んだ。これは元亀二年における信玄の行動を模倣したものであったが、勝頼は全兵力をもって攻撃を開始したのである。
城の北西には穴山梅雪が布陣し、駿河先手衆は、西郭の西方にある「犬戻し猿戻し」から兵を寄せた。南の大手には内藤昌豊と山県昌景、搦手には信濃先手衆が展開した。東は天険で、兵で取り巻いているだけであった。
武田軍は鉦・太鼓を打ち鳴らし、喊声を上げて一斉に高天神城に攻めかかった。しかし、城兵は弓矢と鉄砲でよく防戦に努めた。大手に攻め上っても池が障害となり、しかも東西の郭から挟み撃ちの格好で弓矢と鉄砲に射ち込まれたため、武田勢は攻めあぐね、多くの死傷者を出したが、城兵の損害はわずかだった。
勝頼は高天神城を強攻する一方、穴山梅雪を使者として、城主小笠原長忠に対し開城の交渉を進めた。和戦両面の構えである。
二〇〇〇の兵とともに籠城していた小笠原長忠は、和議交渉に応じるそぶりを見せて時間を稼ぎつつ、家臣の匂坂牛之助を浜松城の家康のもとへ送り出し、後詰を求めた。
二万五〇〇〇の武田勢に対し、徳川勢はせいぜい一万程度であり、単独で対抗するには無理があった。家康は再び、織田信長に援軍を要請した。
京都にいた信長は家康からの注進を受け、ただちに岐阜へ帰国、軍兵を召集すると、六月十四日に岐阜を出陣し、十七日には三河の吉田に到着した。
武田勝頼は小笠原長忠に対し、降伏開城すれば、駿河に新たな所領を与えることを条件とした。長忠は援軍を待っていたが、いつになっても到着する様子はなかった。高天神攻防戦も六月に入ると西郭が陥落し、井戸曲輪も占領され、長忠にとって不利な状況になってきていた。
一方、勝頼の方にも織田・徳川勢の後詰が迫っているという報は入っていた。そこで援軍が到着する前に決着をつけようと、勝頼は長忠に駿河富士郡に一万貫の所領を与えるという破格の条件で交渉したのである。
攻防一か月が過ぎても、援軍は姿を見せなかった。長忠は家康に見捨てられたと判断し、ついに六月十七日、勝頼から提示された条件を受け入れて開城したのであった。
織田勢は浜名湖に面した今切を渡ろうとしたところで、信長は高天神落城の報に接した。六月十九日のことである。このため、信長はやむなく軍勢を吉田城に戻した。高天神城の陥落はこの時点における徳川家の軍事力の限界を改めて示す事件であり、家康にとって大きな失点となった。
開城後、高天神城には長忠に代わって武田方の武将、横田尹松が城番を命じられ、軍兵一〇〇〇を率いて入城した。
高天神城を攻略したにもかかわらず、武田家には重苦しい空気が流れていた。
「三年間は攻勢に出ることなく国力の充実に努めよ」という信玄の遺言に従わず、高天神城を攻め落とした勝頼に対して、重臣の高坂昌信や内藤昌豊が苦言を呈し、軽慮を諫めた。すると、勝頼側近の長坂長閑と跡部大炊助が反論し、両者の間で激論となった。
前述した通り、高天神城は故父信玄が落城させることのできなかった城であった。戦略的には元亀三年に信玄が行動した通り、勝頼も見付方面に兵を出して掛川・高天神両城を孤立させるべきであった。だが、それでは信玄の作戦を模倣したに過ぎないとみなされ、勝頼の実力が家中に認められることはなかった。信玄にできなかった高天神を落城させることで、重臣らに勝頼の実力を見せつけ、家督代行から家督として認めさせる必要があった。勝頼が高天神城で戦っていたのは家康でなかった。勝頼の実力を認めようとしない重臣たちだったのである。
このような事情があったから、もとより勝頼の高天神城攻略に戦略的な意図があったはずもなかった。あるとすれば、諏訪原城・小山城等、遠江に築いた橋頭堡を西方に推進させた程度のものであろうか。
高天神城攻略により、浜手の横須賀街道を押さえることはできるだろうが、もっとも重要な主要街道である東海道の押さえとはなりえない。後述の通り、勝頼が高天神城を攻略した後も、度重なる家康の駿河侵攻には何の障害にもなっていない。東海道を制するという意味であったら、諏訪原城の方が戦略的重要性を持っていたのである。
では、遠江進出の橋頭堡になりうるかというと、そうでもない。これもまた後述する通り、掛川と横須賀を押さえてしまえば容易に武田勢の西進を抑えることができるのだ。もし、高天神を遠江支配の拠点とするならば、掛川も攻略しなければ機能しないのである。ある意味、勝頼は遠江の袋小路に入ってしまったともいえる。
そして、武田家臣団は深刻な対立を抱えたまま、天正三年(一五七五)五月二十一日の長篠合戦を迎えることになる。
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