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2009年1月

2009.01.31

家康の東部戦線(7) 武田勝頼の高天神城攻略

 信玄死去の混乱に乗じて長篠城を奪われた勝頼は、その屈辱を晴らすべく、五月に二万五〇〇〇の兵を率いて甲府を発した。こちらは満を持しての出陣である。
 その進撃先は三河ではなく、遠江であった。武田軍は駿河を経て大井川を渡り、遠江に侵入すると五月十二日に高天神城を囲んだ。これは元亀二年における信玄の行動を模倣したものであったが、勝頼は全兵力をもって攻撃を開始したのである。
 城の北西には穴山梅雪が布陣し、駿河先手衆は、西郭の西方にある「犬戻し猿戻し」から兵を寄せた。南の大手には内藤昌豊と山県昌景、搦手には信濃先手衆が展開した。東は天険で、兵で取り巻いているだけであった。
 武田軍は鉦・太鼓を打ち鳴らし、喊声を上げて一斉に高天神城に攻めかかった。しかし、城兵は弓矢と鉄砲でよく防戦に努めた。大手に攻め上っても池が障害となり、しかも東西の郭から挟み撃ちの格好で弓矢と鉄砲に射ち込まれたため、武田勢は攻めあぐね、多くの死傷者を出したが、城兵の損害はわずかだった。
 勝頼は高天神城を強攻する一方、穴山梅雪を使者として、城主小笠原長忠に対し開城の交渉を進めた。和戦両面の構えである。
 二〇〇〇の兵とともに籠城していた小笠原長忠は、和議交渉に応じるそぶりを見せて時間を稼ぎつつ、家臣の匂坂牛之助を浜松城の家康のもとへ送り出し、後詰を求めた。
 二万五〇〇〇の武田勢に対し、徳川勢はせいぜい一万程度であり、単独で対抗するには無理があった。家康は再び、織田信長に援軍を要請した。
 京都にいた信長は家康からの注進を受け、ただちに岐阜へ帰国、軍兵を召集すると、六月十四日に岐阜を出陣し、十七日には三河の吉田に到着した。
 武田勝頼は小笠原長忠に対し、降伏開城すれば、駿河に新たな所領を与えることを条件とした。長忠は援軍を待っていたが、いつになっても到着する様子はなかった。高天神攻防戦も六月に入ると西郭が陥落し、井戸曲輪も占領され、長忠にとって不利な状況になってきていた。
 一方、勝頼の方にも織田・徳川勢の後詰が迫っているという報は入っていた。そこで援軍が到着する前に決着をつけようと、勝頼は長忠に駿河富士郡に一万貫の所領を与えるという破格の条件で交渉したのである。
 攻防一か月が過ぎても、援軍は姿を見せなかった。長忠は家康に見捨てられたと判断し、ついに六月十七日、勝頼から提示された条件を受け入れて開城したのであった。
 織田勢は浜名湖に面した今切を渡ろうとしたところで、信長は高天神落城の報に接した。六月十九日のことである。このため、信長はやむなく軍勢を吉田城に戻した。高天神城の陥落はこの時点における徳川家の軍事力の限界を改めて示す事件であり、家康にとって大きな失点となった。
 開城後、高天神城には長忠に代わって武田方の武将、横田尹松が城番を命じられ、軍兵一〇〇〇を率いて入城した。
 高天神城を攻略したにもかかわらず、武田家には重苦しい空気が流れていた。
「三年間は攻勢に出ることなく国力の充実に努めよ」という信玄の遺言に従わず、高天神城を攻め落とした勝頼に対して、重臣の高坂昌信や内藤昌豊が苦言を呈し、軽慮を諫めた。すると、勝頼側近の長坂長閑と跡部大炊助が反論し、両者の間で激論となった。
 前述した通り、高天神城は故父信玄が落城させることのできなかった城であった。戦略的には元亀三年に信玄が行動した通り、勝頼も見付方面に兵を出して掛川・高天神両城を孤立させるべきであった。だが、それでは信玄の作戦を模倣したに過ぎないとみなされ、勝頼の実力が家中に認められることはなかった。信玄にできなかった高天神を落城させることで、重臣らに勝頼の実力を見せつけ、家督代行から家督として認めさせる必要があった。勝頼が高天神城で戦っていたのは家康でなかった。勝頼の実力を認めようとしない重臣たちだったのである。
 このような事情があったから、もとより勝頼の高天神城攻略に戦略的な意図があったはずもなかった。あるとすれば、諏訪原城・小山城等、遠江に築いた橋頭堡を西方に推進させた程度のものであろうか。
 高天神城攻略により、浜手の横須賀街道を押さえることはできるだろうが、もっとも重要な主要街道である東海道の押さえとはなりえない。後述の通り、勝頼が高天神城を攻略した後も、度重なる家康の駿河侵攻には何の障害にもなっていない。東海道を制するという意味であったら、諏訪原城の方が戦略的重要性を持っていたのである。
 では、遠江進出の橋頭堡になりうるかというと、そうでもない。これもまた後述する通り、掛川と横須賀を押さえてしまえば容易に武田勢の西進を抑えることができるのだ。もし、高天神を遠江支配の拠点とするならば、掛川も攻略しなければ機能しないのである。ある意味、勝頼は遠江の袋小路に入ってしまったともいえる。
 そして、武田家臣団は深刻な対立を抱えたまま、天正三年(一五七五)五月二十一日の長篠合戦を迎えることになる。

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2009.01.30

家康の東部戦線(6) 信玄の死と勝頼の立場

 天正元年(一五七三)となり、三河に入った武田信玄は、二月十一日に野田城を攻略した。ところが突然、武田軍は信州へ帰国する道をとった。
 上洛を表明していた信玄の不可解な行動に不審を得た家康は、いったん浜松に帰還して情報の収集に努めた。すると四月十二日、信濃の駒場で信玄が没したという。その事実を確認するため、家康は積極的な行動に打って出た。五月九日、大井川を渡って駿河に侵入すると、岡部・久能・根古屋、さらに駿府にまで進出し、城外に放火して回った。武田氏に対する徴発、出兵させることを目的としたものであったが、武田軍が出てくることはなかった。
 駿河から掛川城に帰還した家康は、反転して三河方面も偵察した後、岡崎城に戻った。六月には武田軍に奪取された二俣城に備えるため、社山城を修築して兵を入れている。三方ヶ原の合戦で敗れ、所領を侵された家康は、その強敵の死によって絶体絶命の窮地を救われた。
 上杉謙信からの情報により、信玄の死が確実なものであることを確認した家康は七月二十日、信玄に調略で奪われた長篠城の奪回に出た。奪取したばかりで籠城の準備ができていなかった守将室賀信俊らは九月八日に城を明け渡し、退散してしまった。長篠城は徳川方の城となり、武田氏は東三河の拠点を失った。
 武田信玄の死去により、武田家の実質的な支配権は信玄の四男、勝頼が握ることになった。しかし、その立場はあくまで家督の代行であった。信玄以来仕えてきた重臣の多くは、諏訪家の後継者となるべく育てられてきた勝頼に対して懐疑的であり、事あるごとに勝頼に異議を唱えた。
 ここに家臣団体制の問題が露呈してきた。彼等がこれまで信玄に心服してきたのは信玄の人間的な魅力とカリスマ性であって、武田家そのものに臣従していた訳ではなかったのだ。信玄の死により、武田家臣団は国人衆の集合体に戻ってしまった。未だに亡き信玄に心服している彼等を服属させるためには、勝頼自身が戦場で信玄を上回る結果を出すしかない。勝頼はそう考えたのである。
 十一月に入ると、勝頼はこれまでの家康の行動に報復すべく、一万五〇〇〇の兵を率いて甲斐より出陣した。駿河を経て大井川を渡り、遠江に入って諏訪原城を築いた。この地は駿河方面から遠江に対する橋頭堡となる位置であり、掛川、高天神いずれにもアプローチできる位置にある。戦略的に見事な着眼であった。
 武田軍は掛川城下に進み、放火して回った。このとき勝頼は、要害堅固な掛川城を見て、容易に落ちる城ではなく、無理に攻め落とす必要はないと判断した。しかし、掛川城の重要性はこれまでに述べた通りである。この時点で、勝頼は重大な判断ミスをしたことになる。掛川城は確かに容易に落とすことのできない城であったが、この優勢な時期に是非とも攻略しておかなければならない城でもあった。勝頼が攻略すべき城は、高天神でも長篠でもなく、この掛川だったのである。
 さて、掛川城を攻めることなく西へと向かった勝頼は、久野城下にも放火して見付に陣を張り、天龍川を渡って浜松城を攻めようとする気配を見せた。しかし、徳川勢の防備が固いため攻撃に出ることなく、二俣・犬居・天方・只来などの諸城の守りを固め、徳川勢に備えた後、甲斐に引き揚げていった。 
 すると家康は、勝頼が撤収するのを見計らうように兵を出した。天正二年(一五七四)三月、再び駿河に侵入すると、田中城外を検分して回ったのである。家康の行動は、いかにも勝頼を挑発するかのようであるが、信玄亡き後とはいえ、この時期は明らかに武田軍の方が優勢であり、家康としては敵の虚を衝いてのゲリラ的な作戦しか取れなかった。また、勝頼が全軍を率いて美濃へ出陣、織田方の明智城を攻略しており、その牽制の意味もあった。
 浜松に戻った家康は北遠州に軍勢を発し、天方城を奪回、四月には犬居城を攻撃した。この城を攻略して、信州からの入口を一気に閉じてしまうことで信濃方面からの武田軍の進出を封じようという作戦だったが、十分に兵糧を準備しなかった上、降雨による出水で身動きが取れなくなってしまった。
 水がおさまったところで家康本隊は御蔵の砦まで後退したが、このとき犬居城主の天野景貫が追撃してきたのである。しかも、景貫に同調した地侍が伏兵となり、あちこちの山裾や木陰から弓矢・鉄砲を撃ちかけてきたため、徳川勢に少なからぬ損害を出し、ついに敗走したのであった。この時期の家康は意外と軽率な行動が多く、武田方としても付け入る隙はいくらでもあったといえよう。

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2009.01.28

家康の東部戦線(5) 三方ヶ原の合戦

 伊那に引き揚げた武田勢は四月に入ると、信州から南下して三河へ侵入した。以後、対武田戦線は遠江から三河まで広がり、家康は文字通り東奔西走しての苦戦を強いられることになった。
 この武田軍の動向に対し、織田信長は「浜松を放棄して吉田に退き、三河の守りに専念すべきである」と家康に助言した。武田信玄と同盟を結んでいた信長は、家康の遠江進出で信玄を刺激することを恐れていたのだ。
 だが、家康は「浜松を捨てるくらいなら武士を捨てる」と信長の助言を拒否した。この頃の家康はまだ信長と同格の戦国大名として、そのような強い態度に出ることもできた。
 武田軍との戦いの中で、家康にとって最大の危機となったのは、元亀三年(一五七二)十二月の三方ヶ原の合戦だった。信長と対立していた一五代将軍足利義昭の画策する反織田包囲網に加わり、上洛を標榜した信玄は、すでに信長と戦っている石山本願寺や浅井・朝倉両家と連絡を取り合い、事実上の戦略指導者として諸勢力に指示を与えると、十月三日に甲府を出馬した。
 二万五〇〇〇の武田軍は、信州伊那口より天龍川沿いに南下して青崩峠を越え、遠江に乱入、犬居城の天野景貫を降誘し、信州方面からの遠江侵攻路を確保した。さらに只来城・天方城・飯田城を次々に落とし、犬居城から平野部に至るルートを確保すると、東海道筋に出て各和城を攻略し、浜松城と掛川城との間の交通を遮断した。久野城にも攻撃を加えたが、城主久野宗能がよく防戦したため、武田勢は攻撃を中止、木原・西島のあたりに陣を張った。武田軍の物見に出た徳川勢の一隊は、三箇野で武田勢と接触し、一言坂まで追撃を受けたものの、徳川方の将、本多忠勝が活躍し、無事帰還した。
 ここまでの信玄の一連の行動は上洛作戦のためではなく、東遠江制圧を目的としていたことは明らかである。犬居城は見付方面を直撃する最短ルートであるし、高天神方面から横須賀・馬伏塚を経由する、いわゆる遠州横須賀街道は袋井に集約していた。木原・西島に布陣すれは東海道だけでなく、この街道も封じることができた。東海道筋の城を奪い、見付前面の木原・西島を押さえ、浜松から東遠江に通じる道を断つことで、信玄は掛川城及び高天神城の孤立化を図っていたのだ。
 実はここに、東遠江攻略の答えが潜んでいたのであった。もしここで信玄が東に進路を変え、半年の作戦期間中、東遠江攻略に専念していたと想定するならば、掛川城は孤立したままなすすべもなく陥落していたであろうし、後年の状況から推測して、高天神城に孤立した小笠原長忠も救援なく、降伏していたであろう。
 そうなれば、以後の遠江情勢も大きく変わることになる。掛川を支配すれば、駿河方面と信濃方面の連絡路が一本化し、西方への侵攻ルートが短縮される。また、相良から掛川、秋葉を経由して信州の塩尻に至る「塩の道」が機能するようになる。塩は重要な戦略物資である。掛川は遠州支配の戦略拠点だけでなく、信州支配にも必要な拠点のひとつだったのである。
 だが、このときの信玄の目的は織田信長の打倒であり、そのための西上であった。一言坂で徳川勢を追い払った武田軍は、天龍川沿いに北上した。途中の匂坂城を落として穴山梅雪を置き、合代島に布陣すると、中根正照の守る二俣城を攻めた。十月下旬のことであった。天然の要害である二俣城の攻略には約二か月を要したが、水の手を切ったことにより城兵が降伏開城したため、十二月十九日に武田方の城となった。信玄は重臣依田信守・信蕃父子を城番として置いた。
 この間、家康はまったくなすすべのない状態であった。織田信長から宿将佐久間信盛以下三〇〇〇の援軍が到着していたが、徳川勢八〇〇〇と合わせても武田勢に対して劣勢であった。にもかかわらず、家康は信玄の挑発に乗って浜松から打って出た。十二月二十二日夕刻、三方ヶ原で合戦となり、大敗した家康は、命からがら浜松城に退却した。信玄はこれを追撃することなく西進を続け、引佐郡刑部に陣を張り、越年したのである。

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2009.01.26

家康の東部戦線(4) 武田軍に侵掠される遠江

 元亀元年(一五七〇)九月、家康は三河の岡崎城を嫡子信康に譲り、遠江に本拠地を移した。遠江の支配強化だけでなく、氏真と約した駿河侵攻をも見据えた移転である。もっとも、家康には本心から氏真のために駿河を奪取しようという気はない。
 はじめは遠江の中心に近い見付に築城を開始したが、水利が悪いことを懸念し、引馬城の改築を決定、竣工後に浜松と名を改めた。
 この年、家康は初めて上洛し、金が崎の戦いや姉川の戦いなど、畿内で信長と行動を共にすることが多かったが、駿河を確保して、さらに勢力を遠江へ伸張しようとする信玄の脅威に直面していた。
 そこで家康は帰国後、越後の上杉謙信と盟約を結んだ。十月八日のことである。信玄の脅威に対抗するためであったが、信玄と同盟していた信長との関係にも影響を与えかねない事態でもあった。その頃はまだ、家康が信長に気兼ねすることなく、独自の判断で外交することができたということでもある。
 信玄は徳川・上杉同盟を知ると、ただちに家康と断交し、元亀二年(一五七一)、二万の軍勢をもって遠江へ侵攻した。二月二十四日に大井川を渡り、小山城を奪取、滝堺城を築き、遠江侵攻の橋頭堡を確保すると、その橋頭堡を一気に西方へ拡大すべく、高天神城へ軍勢を進めた。東海道筋はすでに諏訪原城で抑えていたことから、今度は海岸沿いのルートを制圧し、製塩拠点だった相良を確保しようというものであった。
 また、これは掛川孤立化の一環だったともいえよう。先に家康が攻略に苦労していたことからも明らかなように、掛川城は強攻で容易に落ちる城ではなかった。高天神城を攻略すれば、掛川城の東面と南面は武田勢に直面し、徳川方は掛川城に対し西方の見付方面からしか連絡できないことになる。
 武田軍を迎え撃ったのは、小笠原長忠だった。信州小笠原家の血を引く名族で今川家に仕えていたが、今川滅亡後は家康の麾下にあり、二〇〇〇(一〇〇〇とも)の兵で高天神城を守っていた。
 三月五日、遠江に出陣した信玄は塩買坂に陣を張り、重臣の内藤昌豊に命じて高天神城を攻めたが、長忠はよく防戦に努め、急崖に囲まれたこの要害を落とすことはできなかった。
 高天神城の防備のほどを確認した信玄は、攻略に執着することなく兵を引いた。いわゆる威力偵察である。
 先年の関東出陣のときなど、信玄の攻城法として多用していた事例だ。そして、守りの強固な城に対しては、戦略的な孤立化を計り、自落を待つ。信玄の常套手段であった。翌年、信玄は高天神城に対し、そのような孤立化を狙った行動に出たが、信玄が落とすことのできなかった城ということで、この後、高天神城が遠江の要害としてクローズアップされることになったのである。
 さて、高天神城から離れた信玄は、南信濃の伊那方面に引き揚げたということであるから、駿河経由ではなく、信州街道を使って掛川城下を通過したものと思われる。
 この時代、敵城下を通過するというのは、城兵が積極的な阻止行動に出ない限り、比較的容易であった。だが、通過できるからといって、その地域を支配しているわけではない。地域を支配するためには、拠点となる城を確保しなければならないのである。
 おそらくこのとき、信玄は掛川の堅城ぶりをその目で確認したことであろう。城将石川家成は、掛川城兵だけで二万の武田勢をくい止めることはできず、城門を閉じて守りを固めるしかなかった。

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2009.01.25

家康の東部戦線(3) 掛川攻城戦

 家康はこれまで通り小笠原父子に高天神城を任せると、今川氏真が籠る掛川城の強襲に出た。
 初戦は十二月二十七日、徳川軍が掛川城を包囲して攻め寄せ、城下に火を放ったが、朝比奈泰朝は自ら出馬してこれを迎え撃ち、徳川方の武将石川数正と槍を交えた。城兵の士気は旺盛であった。翌日、家康は見付まで兵を引き、両軍は対峙したまま越年した。
 見付で永禄十二年(一五六九)を迎えた家康は一月十二日に再び掛川へ進出、天王山の古掛川城を占拠した。すると一月二十三日、天王山を奪回せんものと掛川城兵が打って出て、両軍の間で激戦となった。
 掛川城が容易に陥落しないと判断した家康は、天王山に本陣を置き、二月に入ると青田山・二藤山・金丸山等に砦を築いて、掛川城と外部との連絡を絶った。これから後、家康が攻城戦で多用する付城戦略の嚆矢である。
 三月四日、家康は麾下に命じ、三たび掛川城を強襲した。本多忠勝・松平家忠ら旗本勢が先陣となって攻撃したが、依然として城兵の守りは堅く、徳川軍に多くの死傷者を出したため、家康は兵を引き、包囲戦を継続した。
 ところが、攻城開始から五か月余り経ちながら、掛川城は落城する様子もなく、さすがに家康も焦りを覚えた。このまま攻城戦が長引けば、せっかく降誘した遠江国衆が家康の器量を見限り、離反しないとも限らないのである。
 この間、さらに家康を焦慮させる事態が発生した。武田家の武将である秋山信友が見付に陣を張り、遠江へ侵攻する気配を示したのである。しかもこのとき、信友は遠江の国衆に対して降誘工作を開始していたという。
 また、同じく武田家の武将である馬場信春が遠江進出の策源とすべく田中城を改築し、東海道筋から大井川を越えて遠江へ侵入したともいう。
 いずれの事件も大井川を境にして駿河を武田家、遠江を徳川家で分割するという盟約に反する行為であり、家康としては信玄の意図に不審を抱かざるを得なかった。家康は信玄に抗議したというが、現実問題として掛川城を確保できなければ、武田勢の遠江進撃を阻止することができないことは明らかだった。
 そしてこれらの事実はまさに、高天神城が東遠江の要所たりえなかった証拠でもあった。先に高天神城を支配した家康だったが、武田勢の遠江進出を食い止めることはできなかったのである。
 家臣らの進言もあり、ついに家康は氏真と和議の交渉を開始した。その条件は、「掛川城を明け渡せば、駿河から武田を駆逐した後、駿河を氏真に返還する」というものであった。これはこれで、明らかに武田家との盟約に反する内容であったが、現に武田勢の侵犯を受けていた家康としては、そのような事にかまっていられないほど事態が切迫していた。
 一方、掛川城内も五か月の籠城で限界に達しつつあったため、家康の提示した条件が実現するかどうかわからないような内容だったにもかかわらず、氏真はこれに応じ、五月十七日に開城した。氏真は妻の故郷である小田原北条家を頼り、掛塚湊から海路駿河の蒲原を経由して、伊豆戸倉城に落ちていった。戦国大名としての今川家は、この時点をもって滅亡した。
 ようやく東遠江の要衝、掛川城を確保した家康は、譜代家老の石川家成を城代として入れた。家成は家康の従兄弟で、家康がもっとも信頼を寄せていた家臣の一人だった。家康の本拠地である西三河衆の旗頭を務めていた家成をわざわざ外してまで掛川城代にしたということは、遠江支配に際して掛川を非常に重視していたということになる。
 以後、家成は守将として武田軍の攻撃に晒されることになるが、この遠江の要衝を守りきり、地味ながら非常に大きな貢献をしている。
 さて、永禄十二年五月十七日に掛川城を攻略した家康は、服属した遠江国衆や今川旧臣に所領の安堵や新たな知行を宛がい、この年のうちに遠江全域を制圧することには成功した。
 一方、駿河に侵攻した武田信玄は今川勢だけでなく、今川方に立った相模の北条氏康とも戦いを交えていた。このため、永禄十二年の間は関東方面へ出陣し、北条氏の本拠地である小田原城まで攻め寄せた後、帰国途中の武田勢を追撃しようとした北条勢を三増峠で返り討ちにしている。

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2009.01.23

家康の東部戦線(2) 家康の遠江侵攻

 三河の徳川家康が甲斐の武田信玄と盟約を結び、今川領へ侵攻したのは、永禄十一年(一五六八)十二月十二日のことだった。家康の東部戦線が動き出した瞬間である。
 今川家は義元の時代まで、駿河・遠江・三河の東海三国を領する、当時最大級の戦国大名であった。しかし、永禄三年(一五六〇)に突発した桶狭間の戦いで義元が敗死し、その嫡子氏真が家督を継いでから、今川家の勢威は大きく低下していた。
 家康にとって今川家は元の主筋であったが、桶狭間戦後に三河へ帰還、独立を果たし、永禄五年(一五六二)に尾張の織田信長と同盟したため、三河統一後の進路は、必然的に遠江へと向けられた。
 一方、信玄にとっての今川家は甲相駿三国同盟の一角であり、嫡子義信の妻の実家であった。信濃をほぼ制圧したものの、その先の進路に行き詰った信玄は南進、すなわち弱体化した駿河への侵攻を画策した。ところが義信は強く反対し、信玄に対する謀反さえ企んだ。義信の密謀が発覚し、内紛を恐れた信玄は、義信とその麾下の家臣を粛清しなければならなかった。そのような代償を払ってまで、信玄は駿河侵攻の道を選択したのであった。
 それぞれの事情を抱えながらも、今川領侵攻で利害の一致した家康と信玄は、それぞれ遠江と駿河へ同時に兵を進めた。
 なすすべもなく駿府を落ちた氏真は遠江に入り、重臣朝比奈泰朝の守る掛川城に籠城した。十二月十五日頃のことである。
 これは、十二月十八日に引馬城(後の浜松城)に入った家康にとって大きな誤算だった。
 遠江は今川家に支配された属領であったが、その影響力の低下により、遠江の国衆は次々に徳川家に降り、「遠州錯乱」と呼ばれるような状況に陥っていた。家康にしてみれば容易に制圧できる状況だったが、よりによって遠江でもっとも堅固な要害に今川家の当主が入城してしまったのである。
 掛川城は応仁元年(一四六七)、駿河守護の今川義忠が重臣朝比奈泰煕に命じ、遠江への進出拠点として天王山に築城させたのがはじめという。これが古掛川城であった。その後、遠江の斯波氏と同盟した信濃小笠原氏の侵攻にも備えるため、今川氏は天王山の南西五〇〇メートルほど離れた龍頭山に新城を築いた。「塩の道」と呼ばれた信州街道と東海道が合流する拠点を押さえるためでもあった。そしてこの新城が、氏真の籠城した掛川城であった。
 南アルプス山系と小笠山系の隘路にあり、東海道をダイレクトに押さえている掛川城を攻略しない限り、家康はこれ以上東進できない。掛川城は、東遠江を支配するためには避けることのできない要衝であった。
 東遠江へ進出するもう一つのルートは高天神城方面であったが、西方からの攻撃は小笠山系が障害となっていた。高天神城に攻め寄せるとすれば、浜手から、あるいは掛川方面からいったん城の東側に回り込み、それから囲むしかないのである。
 幸い、家康は遠江侵攻初期の段階で高天神城を攻撃せずにすんだ。今川家を見限り、家康に降った遠江国衆の中に高天神城主の小笠原氏興・長忠父子がいたからである。
 家康は労せずして高天神城を確保したが、東遠江を支配する上での決定的要因とはならなかった。高天神城を手中に収めたことで浜手の街道筋を制することはできたが、これだけでは、より重要性の高い東海道筋を確保することができなかったからである。
 これが、高天神城の地勢的な弱点だった。掛川城は東遠江の北方を押さえ、高天神城は南方を押さえていた。掛川城と高天神城は東遠江を支配する上で一対の関係にあったのだが、東海道を押さえる掛川城の方が戦略的重要性が高かったのである。

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2009.01.21

家康の東部戦線(1) 高天神城は本当に戦略拠点だったのか?

 遠江の東南部に位置する高天神城は、標高一三二メートルの高天神山(鶴翁山)に築かれた城で、本丸を中心とした東峰と、西側の神社を中心とした西峰の、東西二つの峰を主郭とする一城別郭式の城郭である。明応~文亀年間(一四九二~一五〇四)頃、遠江進出を狙った駿河の今川氏が遠江の斯波氏に対抗するため、築城したという。
 遠江における徳川家康と武田勝頼の戦いは、天正二年(一五七四)の勝頼による高天神城攻略を契機として激化していった。徳川方の拠点であったこの城を勝頼が奪取したことにより、家康は総力を挙げてその奪回戦に出ることになる。
「高天神を制する者は遠州を制する」とは、城郭案内等に必ずと言っていいほど出てくるフレーズである。が、本当にそうなのであろうか。このフレーズを目にする度に、いつももたげてくる疑問がこれだった。
 その根本的な原因は、高天神城の持つ戦略的な位置づけが明確になっていないことにある。どの資料にも、高天神城は「遠江支配の要である」と記してある。中には「駿河・遠江・三河を結ぶ拠点」とまで記しているものまであるが、具体的にどのような要衝なのかがどれも明確でない。そこで自分なりにそれを明らかにしようと思ったのだが、史実を検証し、地図で確認しても、戦略的に重要な位置にあるとは思えないのである。
 後に詳述するように、たしかに家康は最終的にこの城を制することで遠江を支配下においたが、それは明らかに勝頼の敗色が濃厚になってからのことだった。つまり、落ちるべくして落ちてしまっているのである。
 ところが、先に高天神城を攻略した勝頼は遠州を制するどころか、これを契機とするように滅亡の坂を転げ落ちていった。当時、勝頼の方が明らかに勢力が優勢だったにもかかわらず、である。勝頼にとってみれば、高天神は遠州を支配する要ではなかったということになる。
 となると、果たして本当に高天神城を制することが遠州制圧に必要な条件だったのだろうか、という疑問に行き着くことになる。勝頼が遠江を支配するために必要な真の戦略とは、いったい何だったのだろうか。そして劣勢であったはずの家康はどのようにして遠江を制圧していったのか。それを明らかにするためには、家康の遠江侵攻の頃まで振り返らなければならない。

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2009.01.20

「対馬丸」事件(4) その後の疎開

 軍は「対馬丸」生存関係者に対して厳重な緘口令を敷いたが、数日を経ずして風聞は全島に広まり、一般疎開辞退者が続出したため、疎開業務はいったん頓挫した。
 しかし十月十日、米第58任務部隊によって沖縄は激しい空襲に見舞われた。米軍の沖縄上陸は必至の情勢となり、再び島民の疎開機運が高まった。以降、沖縄各地から那覇へ疎開者が集結し、連日のように疎開船が本土へ向かった。疎開輸送に従事した船舶は大小延べ一八七隻に及び、うち航行中に撃沈された船舶は三二隻であった。
 疎開は、船舶の航行がほぼ不可能となった昭和二十年(一九四五)三月初旬に打ち切られた。米軍は沖縄を攻略目標に選定すると、潜水艦と航空機により徹底して海上交通を遮断し、沖縄を孤立化したのである。疎開終了までに本土へ搬送された疎開者は約七万名であった。また、宮古島及び八重山島からは主に台湾への疎開が実施された。一般、学童合わせて約一万四〇〇〇名が東シナ海を渡り、基隆へ向かったという。
 約七か月間に疎開できた島民は約八万四〇〇〇人だったが、島外に脱出できなかった島民約一二万人が戦闘に巻き込まれ、死亡した。
 学童集団疎開は「対馬丸」遭難後も強行され、引率教員等の関係者を含め六五六五名が無事疎開地に到着した。この間、学童疎開船で撃沈されたのは「対馬丸」一隻のみにとどまった。潜水艦だけでなく空襲による被害が増大していた中での僥倖であったともいえるが、それだけに「対馬丸」の悲劇性が高まることとなった。
 最後に余談だが、米潜水艦「ボーフィン」は真珠湾攻撃一周年となる一九四二年十二月七日に就役し、「真珠湾の復讐者」と呼ばれた。終戦まで活躍した同艦は今も記念艦として保存され、真珠湾で一般に公開されている。一方、「対馬丸」は今も悪石島沖の海底で静かに眠っているが、その悲劇を後世に伝えようと、遭難六十周年となる平成十六年(二〇〇四)八月二十二日、那覇に対馬丸記念館が開館した。

(初出:学研「歴史群像」太平洋戦争シリーズNo.37『帝国陸海軍 補助艦艇』)

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2009.01.18

「対馬丸」事件(3) 「ナモ一〇三」船団の悲劇

 昭和十八年五月以来起きた船舶沈没の件は、いずれも機密事項であったが、すでに島民には風聞として伝わっていた。那覇~鹿児島間の海上交通が米潜水艦の危険にさらされていることから、保護者の中には島外への疎開に対する不安の声も少なくなかった。
 しかし事態は切迫しており、そのような不安の中で学童疎開が実施に移されたのであった。八月十六日、潜水母艦「迅鯨」が那覇に到着、疎開学童第一陣の一三一名を乗せて出航し、無事本土に到着した。
 八月十九日には「和浦丸」「対馬丸」「暁空丸」の三隻で編成された六〇九船団が上海より那覇に到着し、大陸から輸送してきた歩兵第62師団の兵員約九〇〇〇名と馬匹約一三〇頭を揚陸した。
 ここで三隻は船団名をナモ一〇三と変更し、疎開者の乗船を開始した。疎開者の内訳は次の通りであった。

「和浦丸」…疎開学童  一五一四名
「対馬丸」…疎開学童   八二六名
      一般疎開者  八三五名
「暁空丸」…一般疎開者 一四〇〇名

 ナモ一〇三船団は八月二十一日一八三五時、那覇を出航した。護衛には駆逐艦「蓮」と砲艦「宇治」がついた。
 出航後、輸送船三隻は丁字型となる陣形をとった。左側に「対馬丸」、右側に「和浦丸」、後方に「暁空丸」が位置した。そして「暁空丸」の左後方に「蓮」、右後方に「宇治」が占位した。
 沖縄近海を遊弋していた水艦SS287「ボーフィン」は、八月二十二日〇四一〇時、日本に向けて航行する三隻の船団を発見した。それは三日前の八月十九日に捕捉しながらも攻撃位置占位に失敗し、獲り逃がした六〇九船団=ナモ一〇三船団だったのである。
「ボーフィン」は悪石島西方海域でナモ一〇三船団を再び捕捉し、二二一二時、「対馬丸」に対して魚雷を発射、三発の魚雷が命中した。「対馬丸」は二二一五時、佐世保鎮守府に宛て魚撃による損傷を受けたという電報を発した後、沈没した。「蓮」はただちに米潜に対し爆雷攻撃を加えたが、効果はなかった。
 船団は洋上に漂う生存者を救出することなく、一路鹿児島に向かった。「湖南丸」生存者を救出した「柏丸」の二次遭難という前例があったように、夜間の生存者救出は困難な上、救助中の艦船が敵潜によって攻撃される危険はきわめて高かったからである。遭難による死者は疎開学童七六七名、一般疎開者七一七名であった。生存者は付近の漁船や海軍の哨戒艇に救助されたり、付近の島嶼や奄美大島にまで漂流した後、救助された。

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2009.01.16

「対馬丸」事件(2) 沖縄シーレーンの戦い

 昭和十八年(一九四三)、沖縄の戦いはすでに洋上で開始されていた。潜水艦による通商破壊戦である。
 米海軍は開戦直後より無制限潜水艦戦を宣言していたが、当初は魚雷の不良などのトラブルや単独攻撃が主だったこともあり、さほどの脅威でもなかった。しかし、昭和十八年にもなると技術的問題が解消され、三隻一単位で船団を攻撃するウルフパック戦術を取ることで、効果的な戦果を挙げるようになっていたのである。
 米潜水艦部隊にとって最大の目標は日本本土と南方資源地帯を結ぶ東シナ海及び南シナ海で、まだ攻略目標となっていない沖縄への航路は副次的な目標であった。このため、沖縄航路を狙う潜水艦は警戒目的の単独艦が多かった。
 沖縄航路における最初の犠牲が出たのは昭和十八年五月二十六日、大阪商船所属の「嘉義丸」であった。鹿児島から沖縄に向かう鹿11船団に加わっていた「嘉義丸」は命により僚船「開城丸」とともに護衛なしで先行したが、SS189「ソーリー」の雷撃を受けて船体後部が爆沈、約五時間後に船首を屹立して沈没した。乗客約五五一名のうち三二一名が死亡した。
 次の損害は同年十二月二十一日、商船四隻、護衛二隻の船団を組んで沖縄から本土へ向かっていた「湖南丸」であった。同船はSS208「グレイバック」の発射した魚雷二発を受け、沈没した。「湖南丸」には軍需工場への動員者、満蒙開拓団応募者、海軍少年飛行兵合格者など五八三名が乗船していたが、そのうち約四〇〇名が救助され、護衛にあたっていた特設捕獲網艇「柏丸」(※)に移乗した。
 ところが三時間後、今度はその「柏丸」が反転してきた「グレイバック」の雷撃を受け、轟沈した。救助された「湖南丸」の乗客もすべて「柏丸」と運命を共にしたのである。
 昭和十九年に入ると、奄美諸島から沖縄近海を遊弋する米潜水艦も増加し、それとともに損害も増大した。四月十二日、鹿児島から那覇に向かっていた鹿004船団の「台中丸」が、奄美大島西方でSS232「ハリバット」の雷撃を受けて沈没、二八名が死亡した。
 八月五日には、奄美大島から沖縄に向かっていた「宮古丸」がSS316「バーベル」の雷撃により沈没、船客三四三名のうち約三〇〇名余が死亡した。駆潜艇三隻の護衛があったにもかかわらず、「宮古丸」が先頭に立ち、駆潜艇三隻が後方につくという不可解な陣形で、まったく護衛の意味をなしていなかった。
 沖縄には疎開船だけでなく、第三二軍の増援部隊を本土や大陸から輸送する徴傭船が往来していたが、これらも例外なく潜水艦の攻撃にさらされた。
 その中の一隻、「富山丸」は六月二十五日、独立混成第44旅団及び独立混成第45旅団の兵員を乗せて鹿児島を出港し、沖縄に向かった。しかし同二十九日〇七三〇時、徳之島東方を航行中、付近を警戒中だったSS187「スタージョン」の雷撃を受けた。魚雷は「富山丸」の左舷に三発命中、約一分後に沈没したが、積載していたガソリンの炎上により、乗船将兵約四六〇〇名のうち約三七〇〇名が死亡または行方不明となる大惨事となったのである。
 この遭難で両旅団は戦わずして壊滅したため急きょ再建され、同年九月、再び沖縄に送り込まれた。またこの影響により、第15独立混成連隊が七月六日から十二日にかけて本土から沖縄へ空輸されるという異例の措置がとられ、後に再建された独立混成第44旅団へ編入された。

※特設捕獲網艇「柏丸」:海軍徴傭船。宇和島運輸より徴傭。515トン。特設捕獲網艇の標準装備は8サンチ砲×1、7.7ミリ機銃×1、掃海具×4、爆雷20~24であった。

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2009.01.15

「対馬丸」事件(1) 疎開の決定

 昭和十九年(一九四四)七月七日、絶対国防圏の一角であったマリアナ諸島のサイパン島が玉砕陥落した。東条英機内閣は緊急閣議を開き、一般疎開の促進および学童疎開の強度なる促進を閣議決定した。
 同日深夜、文部省から沖縄県知事に対し緊急電報で通達があった。その内容は、奄美諸島および沖縄の老幼婦女子をただちに島外へ疎開させること、沖縄・八重山・宮古の三島から本土へ八万人、台湾へ二万人、計一〇万人を七月中に疎開させよ、というものであった。
 県内政部はこの決定に基づいて急きょ学童集団疎開計画を策定し、七月十九日、各学校に対し「学童集団疎開準備ニ関スル件」及び「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令した。
 疎開の目的は、国土防衛態勢の確立、県下児童の安全地区での教育運営の維持、食糧事情の調整などであった。 
 当時、沖縄には守備兵力として第三二軍が配備されていたが、六月の米軍サイパン上陸という事態を迎え、大幅な増強が決定された。だが、それによる兵員増加に伴い、狭い島嶼内における営舎の不足と食糧事情の悪化が予想された。そこで非戦闘員である島民を疎開させ、学校を営舎とするなど、諸事情の好転を図ろうというのである。沖縄での疎開は非戦闘員を戦闘に巻き込まないという配慮もさることながら、戦略的に必要な要請でもあったのだ。
 学童疎開の対象は当初、国民学校初等科第三学年から第六学年までの男子希望者を原則とし、初等科第一、第二学年の者であっても心身の発育十分で付添が不要と認められた者は許可するとなっていた。また、児童四〇名に対し一名の割合で教員を付すること、児童二〇名に対し一名の割合で世話人を付することとされた。あわせて博多に業務事務局、鹿児島と佐世保に南西諸島引揚援護局を設置、疎開者受入先の宮崎・熊本・大分三県にそれぞれ担当者を派遣した。
 だが、疎開は遅々として進まなかった。周知の通り、沖縄県は本土から遠く洋上を隔てた島々からなり、一般には鹿児島まで船で往復するしか方法がなかった。当時、すでに航路が米潜水艦の危険にさらされている事は周知の事実であり、島外への脱出は一種の賭けであった。また、本土と沖縄の人々の気質の違いや、異郷への疎開による家族離散の不安なども、疎開を躊躇させる大きな理由となっていた。
 そこで県は昭和十九年七月中旬、県庁の役人や警察署職員の家族を疎開第一陣として出発させた。これは役職関係者の優先的避難ではなく、疎開を敬遠する県民に対して垂範啓蒙の意味があったという。

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2009.01.10

手取川の合戦(9) 毛利との東西挟撃戦を企図していた謙信

 織田勢を撃退した謙信は軍勢を七尾城に返したともあり、そのまま手取川を渡って大聖寺のあたりまで進んだともいう。しかし、水手の地形を苦手とする謙信が増水している手取川を渡って大追撃戦を実施したとは、どうにも考えがたい。合戦から三日後の二十六日には七尾城に戻り、鍬立て(城を攻略したときに旧城を破壊し、新規に築城を始める普請はじめの儀式のこと)のために初めて登城している。となれば、織田勢を手取川に追い落とした後、ただちに七尾城へ返したと考えるのが妥当だ。
 七尾落城から手取川の戦い、そして初登城までの模様は、当時厩橋にいた北条高広・景広父子にあてたといわれる書状に記されている。謙信らしい長文で緻密な描写の書状である。実のところ、手取川の戦いの様子が記された良質の資料はこの書状しかないといってよい。戦いの様子もここから推定していくしかない。『信長公記』には「北陸の加賀に出陣した兵は国内の作物を薙ぎ捨て、御幸塚城(小松)の普請を強化して、佐久間盛政を入れた。大聖寺城も普請して柴田勝家の兵を入れた」というようにあっさり記されているだけである。これもまた太田牛一の記述には珍しい。このようにあっさりと記された戦いはもう一つ、三方が原の戦いである。牛一は謙信と信玄に敗れた二つの戦いを記録に残したくなかったのではあるまいか。
 しかし、手取川の戦いの実相はこれまで記してきたとおり、『信長公記』にあるように単純なものではない。反織田同盟の一角としての謙信が織田勢に圧勝したことで、反織田同盟の戦意を大きく高めたのである。絶妙のタイミングで謀叛を起こした松永久秀は、織田勢に攻め滅ぼされるまで抵抗を続けた。翌天正六年の春には、播磨三木城の別所長治が織田家から離反した。これに応じて毛利輝元が播磨遠征を実施に移した。いずれも、謙信が織田勢を撃破し、いよいよ上洛するという期待からであった。
 残念ながら天正五年のうちに謙信が上洛することはなかった。手取川の戦いを終えて七尾城に戻った謙信は諸国の仕置を済ませた後、越後春日山城へ帰国した。十二月十八日のことである。上杉勢の大半は前年の七尾城包囲から、事実上一年にわたって国を離れていた。その消耗は相当のものだったろう。いったん越後へ戻って英気を養い、来春以降に出陣、と謙信が考えたのも無理はない。その目標は関東であったとの説が有力である。
 しかし、謙信は実のところ上洛戦を実施するつもりだったのではないかという可能性を否定しきれない。十二月二十三日、謙信は麾下の将八〇余名の名をしたためている。次の出陣における動員の台帳であるといわれている。そこには旧来からの越後諸将に加え、越中の神保、能登の遊佐・温井ら、一向宗の瑞泉寺・勝興寺といった新参の名が多く見られる。書き出しは厩橋の北条父子だが、北陸の将の方が比較的多い。ここから、さらなる北陸進撃を意図していたとも考えられる。これに加え、謙信は出陣を天正六年三月十五日と定め、諸将に参集を命じた。この出陣の日が、播磨の別所長治が三木城で反旗を翻したときとほぼ同じであった。天正五年春、雑賀征伐に出た信長の虚をついて東西から挟撃しようという、毛利輝元が謙信にあてた書状も残されている。これを翌春の実施に決めたのではないか。
 以上の状況から、謙信は輝元と東西相応じて信長を攻めるつもりだったのではないかという推測も成り立ってくる。晩年の謙信は戦術だけでなく、領国統治や家臣団支配などの政略面でも大きく成長していた。特に武田信玄が死去してから後、関東管領の呪縛が解き放たれてからが顕著である。北条父子にあてたとされる関東出陣を表明する書状も、実はその可能性を示しているだけであって、断言はしていない。出陣の段になって進撃目標を北陸に切り替える程度の謀略を働かせたであろうことは十分に考えられる。繰り返すことになるが、手取川の戦いは戦国史上の転機となりうる戦いのひとつであった。略術両面で大成した謙信を主軸に据えた反織田同盟の共同作戦が実現に至っていれば、信長の運命もどうなったかわからない。
 だが、越後の深い雪が解け、諸国の軍勢がほぼ集結した天正六年三月九日、謙信は厠で人事不省に陥り、そのまま還らぬ人となった。三月十三日のことであった。死因は脳溢血といわれている。奇しくもいよいよ信玄が信長を討とうとしたその直前に死去したのと同じく、謙信もこの世を去った。まるで神が信玄や謙信ではなく、信長を歴史の推進役に選んだかのようであった。

(初出:学研『歴史群像』No.49 2001年10月号)

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2009.01.09

手取川の合戦(8) 機動力と諜報能力が決した手取川会戦

 緩慢な織田勢に対し、上杉勢の進撃は疾かった。九月十五日に七尾城を攻略した謙信は同城に鰺坂長実を入れると、ただちに兵を進め、十七日には畠山方であった末森城を攻略した。ここには側近の斉藤朝信と親類衆の山浦国清を入れた。能登を平定した上杉勢はさらに南下して加賀へ入国、一向一揆勢と合流した。謙信は十八日に本陣のあった石動山城を発ち、二十日に先鋒と一揆勢が集結していた津幡城に到着した。上杉勢はさらに進撃を続け、最前線の松任城に入ったのが二十二日頃のことと推定される。ほぼ国道八号線に沿っての進撃で、その進撃速度は一日約三〇キロにも及ぶ。四日間連続の行軍速度としては驚異的な快進撃といえよう。
 松任城に集結した上杉勢は三万といわれる。その内訳は、慶長期の検地による石高から推定すると越後兵八〇〇〇、越中兵九〇〇〇、能登兵五〇〇〇、加賀兵八〇〇〇といった程度になろうか。
 織田方には、以上の上杉勢の動きがまったく伝わっていない。九月十日付の連書状には、能登の七尾城から末森城までの道が一揆勢に封じられており、七尾城の状況がまったくわからない旨の記述がある。頼りはときおり末森城からやって来た使者であったが、末森落城後はまったく途絶えた。謙信は敵方の物見をことごとく討ち取り、織田勢にまったく情報を与えなかったようである。これは、永禄三年の第四次川中島会戦において、犀川を渡った上杉勢が武田方の物見をことごとく切り捨て、八幡平で待ち受ける武田信玄に情報を与えなかったのとまったく同じ状況である。その一方で、謙信は滞陣している織田勢の様子を詳細に捉えている。第四次川中島会戦でも濃霧の中で武田本陣を発見した。謙信が物見、すなわち戦場の情報を重視していたことが明らかである。敵には情報を与えず、こちらは情報を得て、常に戦場のイニシアチブを握る。この諜報能力の差が、謙信が常勝の将たり得た第一の理由であろう。
 敵情をまったく得ることができなかった織田勢が謙信の松任入城を知ったのは、ようやく九月二十三日になってからのことである。おそらく勝家は、この時点で初めて七尾落城をも知ったのであろう。またこの頃、信長から勝家に対して北陸遠征の中止と帰国を命じてきたことが考えられる。信長の嫡男織田信忠が久秀討伐の軍勢を繰り出したのは九月二十七日のことであったから、時期的にも合致する。勝家はただちに軍議を開き、その日のうちに現地から撤収することを決定した。これまでの緩慢とはうって変わって勝家の決断が速い。これは信長が明確な指示を勝家に伝えた証左でもある。天正三年に信長から越前経営を委ねられたとき、何事も信長の指示に従えという国掟を与えている。信長を畏怖していた勝家は秀吉と違い、自らの勝手な判断で作戦行動をとることをができなかったのである。おそらく、信長の命がなければいつまでも手取川から動かなかったであろう。その夜、織田勢は密かに陣払いを開始した。
 だが、老練の闘将である謙信がこれを見逃すはずがなかった。当時、松任城の望楼から水島は一望のもとにあったと推測される。第四次川中島会戦では、炊煙の違いだけで武田勢の出陣を悟った謙信である。このときも敵陣の動きを見て、たちどころに織田勢の動きを察知したに違いない。謙信は全軍に出撃を命じた。第四次川中島会戦では、海津城から立ち上る炊煙を見て、謙信は武田勢の出陣を察知、先手をうって妻女山を下りた。そして手取川では、織田勢が撤収のため動き出したところで松任城から出陣した。敵が動いた機をすかさず捉え、臨機応変に行動を開始するという謙信得意の戦術パターンがここでも登場する。
 予想しなかった謙信の出現に織田勢は動揺した。織田勢の布陣は手取川を後ろにした背水の陣であった。通常、背水の陣は兵を決死の覚悟で戦わせる効果があるとされているが、このときは撤退のため陣形を崩した直後で、「合戦」ができる状態にない。ここで戦国時代における行軍と合戦についておおまかに説明すると、行軍は一人の大将が率いる部隊ごとに鉄炮・槍・大将・騎馬の順序で二列程度の縦隊を組み、進んでいくものである。そして合戦は、いわゆる八陣に代表されるように、決戦予想地域に両軍が行軍していき、陣形を整えて向かい合い、その後、合戦におよぶ、というものであった。ある意味、両者の合意の上で行われた戦だったから「合戦」であったわけだ。だからこの当時、軍勢が行軍の状態からそのまま戦闘に入るのはそう簡単なことでない。
 ところが謙信の軍勢は違った。謙信は笹杖で大まかに軍勢を仕切り、それを戦闘単位にしたという逸話がある。上杉勢の戦闘時の編制がかなりアバウトなものであったと推測される。にもかかわらず、戦闘では圧倒的な強さを誇っていた。このアバウトなところが状況に対して臨機応変に対応できる素地を作り出していたとも考えられるのである。
 ここでもまた、謙信が得意とする戦術パターンが出現する。索敵しつつ行軍を続け、敵を捕捉するや行軍隊形からそのまま攻撃に移る、というものである。第四次川中島会戦でも、謙信は物見を放って敵情を探りつつ濃霧の中を進み、信玄の軍勢を発見するや行軍隊形からそのまま全軍突撃に移った。手取川でもまた、行軍隊形からそのまま追撃戦に転じたと思われる。陣形を整えることなく攻勢に転じる謙信の戦術は、当時の合戦における暗黙の了解を否定したものであった。敵に情報を与えずに戦場のイニシアチブを握り、敵が動いた機を捉えて行動を開始、索敵しつつ行軍を続け、敵を捕捉するや止まることなく攻撃に移るこの機動戦術こそが、上杉謙信の得意とした「車懸り」だったのではないかと筆者は考える。謙信は敵の弱点を見つけるや、敵が布陣を整える前に急進撃し、俄然攻めかかる。態勢の整わない敵は布陣する間もなく、決戦予想地域から逃げざるを得ない、あるいは籠城せざるを得ないという形になる。機動力を駆使して敵部隊を混乱に陥れ、崩壊させるのが第二次大戦における電撃戦であったとすれば、謙信の機動戦もまた、一種の電撃戦であったといえるのではないか。
 さて、勝家が陣形を立て直すべき場所は、和田山城を中心とした手取川対岸しかなかった。手取川は連日降り続いていた秋雨のおかげで大きく増水し、川筋が乱れていた。土地勘のない織田勢は渡河に手間取ったに違いない。動揺と焦り、これらが織田勢を戦わずして混乱状態に陥れたことが容易に想像できる。そこへ上杉勢が来襲してきた。対する上杉勢は、土地勘がある地元の一揆勢を先導役として進撃したであろう。謙信は織田勢に攻撃を仕掛けるまでもなく、軍勢の接近を感じさせるだけで十分だった。上杉勢の来襲を知った織田勢はたちまちパニックに陥り、我先に川を渡ろうとした。しかし、手取川は暴れ川と化している。当時の川筋がどうなっていたか、いまとなってはまったく想像がつかないが、織田兵は濁流に呑み込まれ、それによって失われた兵は数知れなかった。逃げ遅れた兵は上杉勢によって討ち取られた。その数は一〇〇〇余人という。

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2009.01.08

手取川の合戦(7) 遅々とした織田勢の進撃

 加賀へ乱入した後の織田勢の動きは明確でない。『信長公記』には「添川・手取川打越し、小松村・本折村・阿多賀・富樫所々焼払ひ在陣なり」とある。
 多くの場合、牛一の記述は進撃路のとおりに地名を並べているが、ここの部分は珍しく、まるで要領を得ていない。記述どおりに地図をたどるとわかるが、七尾城に向かって北上していたはずの織田勢が南下しているようにしか思えないのである。
「添川」は不明であるが、手取川の別名「湊川」の誤記であるという。字義からすると手取川の支流のひとつであるとも考えられる。「小松村」と「本折村」は手取川の南にある現在の小松市内、そして「阿多賀」は小松市内の安宅関のことである。
 問題となるのは「富樫」の地名で、これがかつて加賀守護であった富樫氏の南北の拠点いずれを示すものなのかが明確でない。北であれば手取川北方で、さらには上杉方の拠点松任城よりも北に位置する現在の石川県野々市町であり、これはいうまでもなく記述に要領を得ていない。しかし、南であれば富樫庄のあった加賀市高尾であり、織田勢の南下ルートがはっきりと示されることになる。
 筆者はこれを手取川合戦後における織田勢の退却路ではないかと考えている。この出陣に太田牛一は同行しておらず、記述は人聞きによるものであろう。退却路を誤って進撃路の如く記したのであろうと考えれば、この部分の記述は理解できる。
 余談が長くなったが、こうなると織田勢の進撃路は推定によるしかない。信長の側近堀秀政に送った九月十日付連署状によると、山手の道は一向一揆の拠点が多く、進撃が困難なので浜手を進む、とある。織田勢が手取川を渡ったのは、九月十日頃のことである。越前北ノ庄から五〇キロ程度の行程にもかかわらず、実に一か月以上もかかっている。織田勢の進撃としては、これまでになく遅い。
 連書状にあるように、一揆勢の抵抗が激しかったことも考えられるが、折しも秋の長雨の季節であった。河水の増水や氾濫などで進撃が大きく遅れたことも考えられる。そのような理由があったにしても、二日程度で進める距離の進撃にこれだけの日数がかかっては、七尾城の後詰としては遅すぎる。その上、手取川を渡った柴田勝家は水島に布陣し、実に半月近くも滞陣している。この長期滞陣の理由もまた謎である。
 緩慢な進軍と長期滞陣の理由として作戦上考えられるのは、信長が北陸へ出陣するつもりであったならば、信長の本軍が安全に前進できるよう、点在する一揆勢の拠点を掃討しながらの進撃だったということだ。そして本軍が到着するまで、勝家らが手取川の橋頭堡を確保しようとしていたということだ。
 九月十日付の連署状には、命令あり次第進撃するつもりである、重ねての援軍は無用という旨が記されている。信長が謀反を起こした久秀を説得している頃であった。織田勢の長期滞陣は、信長の出陣取りやめが北陸を進む織田勢に伝えられていなかったか、あるいは上方での決着がつくまで進撃を停止するよう命じられたからなのかもしれない。緊迫した上方の情勢を慮っての書状だったとも想像される。
 だが、この遅々とした行動に歯がゆい思いで同行していたのが羽柴秀吉であった。秀吉としては勝家のポイントにしかならない北陸の仕置をさっさと済ませ、自身が調略を行っていた播磨へ兵を進めたかった。そこへ入ってきた久秀謀叛の報である。
 秀吉は勝家に手取川南岸での進撃停止を進言するが、勝家はこれを拒否した。これが作戦上の対立を引き起こし、秀吉が無断で帰国するという重大な軍律違反を起こしてしまった。「羽柴筑前御届をも申上げず帰陣仕候段、曲事の由御逆鱗なされ、迷惑申され候」と『信長公記』にあるように信長は激怒し、秀吉に謹慎を命じたのであった。
 いずれにせよ、この進撃停止で謙信は救われた。織田勢に手取川を越えられてしまったものの、策源たる金沢まで失われずにすんだからである。

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2009.01.07

手取川の合戦(6) 初の謀略を使った謙信

 七尾城南方の石動山に城を構え、ここを本陣として七尾城の包囲を続けていた謙信のもとに、織田勢の後詰が加賀に乱入したという報が届いたのは、八月九日のことである。後詰が来る前に七尾城を落とさなければならない。謙信はただちに加賀の総領七里頼周に救援を約する書状を発するとともに、七尾城の攻略を急いだ。このままでは、織田勢に加賀を席巻されてしまうおそれが出てきたからである。
 織田方にとって加賀が防衛上の要衝たり得たのに対し、上杉方にとって加賀は上洛のための攻勢発起点として重要であった。加賀門徒は大きな増援兵力となり、上洛作戦の策源として機能しうる金沢という町がある。
 さらに、織田勢に加賀を押さえられることになれば、京都への進撃が難しくなる。おもな理由は前述したとおり、手取川流域の複雑な河川地形だ。水城で有名な関東の忍城や臼井城を攻めあぐねたように、謙信は平攻めが利かない水手の地形を苦手としていたようだ。手取川南方の御幸塚、後に小松城と呼ばれるあたりは典型的な水城地形であったから、謙信としてはここを固められる前に加賀へ進む必要が出てきたのである。
 さて、七尾城内では攻城戦のさなかに疫病が流行し、城兵が次々に斃れていた。そして、春王丸もわずか五歳で病死してしまった。畠山宗家が断絶し、死臭漂う城内には堅戦気分が蔓延した。それでも七尾城は落城する気配を見せなかった。
 ここで謙信は、初の謀略を試みる。「畠山氏の旧領および七尾城を与える」という内容で遊佐・温井一派に内応を誘ったのである。利をもって内応を誘うなど、義を重んじ清廉潔癖を旨とするこれまでの謙信には考えられないことであった。筆者は、ここに謙信の戦国大名としての成長を垣間見る思いがする。好むべきものではなかったが、織田勢が目と鼻の先まで迫っているいまとなっては、もはや使うことをためらっている場合ではないというのが、謙信の偽らざる気持ちであったろう。
 遊佐・温井一派が謙信に内応を約束する書状を送ってきたのが、九月十三日であったといわれる。その夜は中秋の名月であった。風雅を好む謙信は落城に先立ち、月見の宴を催した。宴もたけなわとなった頃、謙信は思わず次の七言絶句を口にしたという。

 霜満軍営秋気清
(霜は軍営に満ちて秋気清し)
 数行過雁月三更
(数行の過雁月三更)
 越山併得能州景
(越山併せ得たり能州の景)
 遮莫家郷憶遠征
(さもあらばあれ家郷遠征を憶うは)

 それから二日後の十五日未明、遊佐続光と温井景隆が内応を決行した。木落口から上杉勢を城内に誘い入れるとともに、織田方の長綱連とその一族百余人を一人残らず討ち果たしたのである。かくして、さしもの名城七尾もついに落城したのであった。

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2009.01.06

手取川の合戦(5) 七尾城攻略に手こずる謙信

 能登半島のほぼ中央に位置する七尾城は、加賀・能登・越中の連絡線を押さえる要衝であった。標高三六〇メートルの松尾山に本丸を置き、七つの尾根に曲輪を築いて要所を野面積みの石垣で固めた、北国随一の堅城である。北に七尾湾を望み、惣構えの城下町が形成され、東には木落川、西から南にかけては大谷川が流れる天然の要害となっている。さしもの謙信もこの城を攻めあぐね、攻城戦は二年もの長きにわたった。
 謙信が最初に七尾城を攻めたのは天正四年九月のことである。能登守護である畠山家は、天正二年に畠山義隆が家臣に謀殺され、義隆の子春王丸がその後継者として担ぎ上げられていた。が、春王丸はそのときわずか二歳。実質的に城主がいない状況であった。そこで謙信は、畠山家から養子に迎えていた上条政繁を同家に戻すという大義名分を立て、能登へ侵攻したのである。
 ところが、畠山勢は謙信の介入を嫌い、対決する姿勢を明らかにした。能登の諸城を攻略した上杉勢は七尾城を包囲したが、要害堅固を誇るこの城を落とすことは容易でなかった。雪の季節となり、天正五年の正月を迎えても包囲を続けていた謙信であったが、三月にいったん帰国、国内の仕置を済ませた後、閏七月に再び出陣した。
 城内の実権を握るのは、畠山家の重臣たちであった。彼らは長期の籠城に倦み、上杉家につくか、織田家につくかで分裂していた。遊佐続光と温井景隆を中心とする一派は、北陸を併呑しつつある謙信に与しようと主張していた。もう一方の長綱連一派は、旭日の勢いで勢力を伸ばしている信長に与しようと主張していた。
 再びの謙信出陣に際し、織田方の綱連は僧籍にあった弟の長連龍を使者に立て、信長に救援を要請した。信長は七尾城の救援要請を了承した。八月八日、柴田勝家を総大将とした織田勢が越前を進発し、加賀へ乱入した。
「八月八日、柴田修理亮大将として北国へ御人数出され候。滝川左近・羽柴筑前守・惟住五郎左衛門・斉藤新五・氏家左京亮・伊賀伊賀守・稲葉伊豫・不破河内守・前田又左衛門・佐々内蔵介・原彦次郎・金盛五郎八・若狭衆、賀州へ乱入」
 太田牛一の『信長公記』に記された、北陸遠征の面々である。大将は柴田勝家。羽柴秀吉、惟住(丹羽)長秀、斉藤新五郎、氏家直通、伊賀定治、稲葉一鉄、不破光治、前田利家、佐々成政、原長頼、金盛(金森)長近といった諸将に武藤舜秀ら若狭衆が加わっていた。この総兵力は約三万といわれ、さらに後から、信長自身も一万八〇〇〇の兵を引き連れて出陣の予定だったという。これはまさに織田勢主力の出陣である。信長はなぜ、北陸征伐に本腰を入れることにしたのか。
 これまで加賀の一向一揆は、上杉と織田の間で一種の緩衝地帯として機能していた。ところが、謙信と一向一揆との同盟により加賀が上杉方となったことで、謙信の勢力圏が一挙に越前国境まで迫ってきた。朝倉の時代より数度の一向一揆が発生し、大きな政情不安要素を抱えた越前である。天正三年に織田勢が越前一揆を平定したときは、一揆の残党が謙信に救援を要請している。上洛を表明した上杉勢が越前に迫ったならば、謙信に応じた一揆が勃発することは火を見るより明らかだった。
 畿内では、石山本願寺勢をその寺域内に追い込んだものの、毛利輝元の後援を受けて未だに頑強な抵抗を続けていた。石山本願寺を攻略しない限り畿内の安定は望むことはできなかったが、その早期攻略は困難であった。信長は長期包囲戦に切り替えて本願寺を厳重な包囲下におく一方、天正五年二月に本願寺を支援する紀伊の雑賀衆を攻め、これを降伏させた。これらの処置により、少なくとも本願寺が積極的な攻勢に出てくる可能性はきわめて少なくなった。
 西国では、本願寺勢を後援する毛利家が播磨の諸豪族に対して調略を施していたが、ただちに出陣してくる気配はなかった。織田方も羽柴秀吉が積極的に播磨勢の調略にあたっていたし、播磨勢の最大勢力である三木城の別所長治はこの当時、雑賀攻めに参加するなどして自主的に信長へ加担していた。どちらかといえば、播磨の情勢は織田方有利で進んでおり、毛利勢に対する緩衝地帯として有効に機能していた。
 こうしてみると、信長の領域の中でもっとも緊迫していたのは北陸だった。緊迫の度合いは北陸に続いて播磨、最後に畿内という順序になろうか。北陸の情勢を安定させるために、信長は謙信よりも先に加賀を制する必要が出てきた。一揆勢だけなら比較的容易に制圧できるであろう加賀も、強兵の上杉勢が進出した後となってはその平定が困難になってしまう。謙信は七尾城の攻略に手間取っていた。この間に加賀を制し、七尾城の救援も成功したならば、逆に上杉との国境を一挙に越中まで後退させることができる。
 ここで加賀中部の地形に注目したい。加賀中部を流れる手取川は白山に源を発し、現在の美川町で日本海に注ぐ、全長約七〇キロの河川である。いまは穏やかに流れている手取川も、当時はたびたび氾濫を起こす暴れ川であった。川の流れは一定せず、氾濫のたびに方向を変え、無数の潟湖や沼沢が存在した。現在の川北町・松任市・美川町にかけて「島」の名がついた町名が数多く見受けられるのは、手取川の氾濫のさい、集落が島のように浮かんで見えたことから名付けられたともいう。手取川の南に位置する小松のあたりもまた川筋定まらず、泥田と潟湖ばかりの地形であった。ひとたび雨でも降れば進路が寸断され、軍勢が進撃するには最悪となる。逆に防衛上の観点から見れば阻害地形の連続であり、守りやすい土地ということになる。信長の鉄炮邀撃戦術は完成の域に達しており、段丘状の河岸に馬防柵陣地を築きあげれば長篠を再現することも不可能ではない。そこまで決定的な状況にならなかったとしても、謙信の進撃を食い止めるには適当な地形である。
 武田信玄亡き後、信長がもっとも脅威と見ていたのは戦国最強と評判の謙信だった。これまで謙信に対しては卑屈と思えるほど慎重を期していた信長だが、その一方、天正三年の長篠合戦で精強の武田勢を完膚無きまでに叩きのめしたということで、戦術的にも自信が出てきたに違いない。その自信が、謙信に対する積極的な作戦となって表れたのであろう。かくして、信長は自ら北陸への出陣を決意した。
 信長は進軍に先立ち、越後北部を領する上杉方の将で、再三謀叛の過去がある本庄繁長を誘い、背後から謙信を攻めさせようとした。しかし、あの向背常ならなかった繁長がこの好機に応じなかった。家臣の主権さえも認めた謙信の仁政による家臣団掌握の成果であったといえる。
 それと対照的な事件が畿内で突発した。信長麾下の将、松永久秀の謀叛である。石山本願寺の包囲陣に加わっていた松永久秀・久通父子が八月十七日、勝手に砦を引き払い、大和の信貴山城に籠城したのである。これは足利義昭の御内書に応じての謀叛といわれているが、織田勢の北陸出陣直後を狙った絶妙なタイミングであった。これが畿内でどのように飛び火するかわかったものではない。信長にとっては、北陸の情勢よりも久秀の謀叛鎮圧の方が急務となった。久秀の説得をあきらめた信長はその討伐を決意し、北陸の仕置は勝家に任せざるを得なくなったのである。

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2009.01.05

手取川の合戦(4) 謙信と信長の同盟決裂

 天正元年、武田信玄が遠征途上で死去、軍勢が帰国したことで状況は一転した。ひとまず東方の脅威が去ったことを確認した信長はまず、信玄の死を知らずに京都槇島城で挙兵した足利義昭を攻め、義昭を京都から追放した。続いて、近江北部の小谷城域に追い込んでいた浅井・朝倉勢を徹底した追撃戦で滅亡させて、越前と近江北部を制した。
 天正二年には伊勢長島の一向一揆を討滅し、腹中の濃尾勢を安定させたが、越前では朝倉残党と一向宗徒による大規模な一揆が発生し、信長の手から失われた。
 天正三年、最大の強敵とみなしていた武田勝頼に長篠で決定的な打撃を与え、東方を徳川家康に任せることができるようになった。秋には越前へ兵を進めて一揆を鎮圧、領国経営を宿老柴田勝家に任せて、その支配体制を強化した。「かかれ柴田」「鬼柴田」などと形容されるがために、勝家はかなり剛胆な武将に思われがちであるが、その実は細事に気を配る質実剛健な武将であった。もちろん、剛胆のイメージは民衆に知れ渡っていたから、武威をもって一揆で荒廃した越前を立て直すには適任であった。
 信長がそうであったように、謙信もめぐる状況もまた信玄の死後に一変する。関東管領としての関東平定を主な戦略目標としていた謙信の目が、北陸へ転じられたのである。謙信が突如として現実的な戦略方針をもって動き出したのだ。この変心の理由は明らかでないが、関東征伐の大義名分でもあった北条氏康・武田信玄という二人の強敵が相次いで逝去したことが理由かもしれない。
 関東管領はもともと信玄を討伐するための名目だった。ところが、関東管領に就任するや今度はその職務を果たすべく関東へ出陣を繰り返す羽目となる。その信玄という存在がなくなったことで、謙信は関東管領の呪縛から解き放たれたと見ることもできる。
 労ばかり多く利の少ない関東遠征に比べ、本拠の春日山城にも近く、父祖以来の攻略目標であった越中に進出する方が現実的であった。謙信にとって最後の関東出陣となった天正二年の二度の越山は北陸方面への進出に専念するための地歩固めだった。厩橋城を中心とした上野領の統治を北条高広・景広父子に任せた謙信は、以後、北陸の一向一揆討伐に全力をあげる。
 信玄の死により大きな後ろ盾を失った北陸の一向一揆は、謙信が越中を制し、信長が越前を制したことで孤立、このままでは滅亡必至の情勢となった。
 天正三年六月、石山本願寺が謙信に救援を求めてきた。奇しくも信長が長篠での大勝を伝えてきた書状と同じ六月十三日付の書状である。九月には越前一揆の残党が越中富山の城将、河田長親に救援を求めてきた。謙信がこれに応えたのは天正四年になってからである。二月、謙信はついに信長と断交し、五月に父祖以来の宿敵であった一向一揆と和睦した。
 この歴史的決断には、一五代将軍足利義昭の暗躍が大きく影響していた。天正元年に京都を追放され、中国の毛利家に身を寄せていた義昭だったが、幕府再興をあきらめてはいなかった。持ち前の政治力をフルに生かし、信長討伐の御内書を諸国に発して、反織田同盟の再結集を図っていたのであった。
 義昭の檄に中国の毛利輝元、畿内の石山本願寺、加賀の一向一揆に越後の上杉謙信が加わり、再び反織田同盟が結成された。二度の上洛を果たした謙信にとって、幕府再興の一角に加わることは本望だったに違いない。信長に謀反を起こした松永久秀、甲斐の武田勝頼までが加わることになっていたというその反織田同盟は、参加した軍勢の規模を単に比較すれば、武田信玄を中心とした元亀三年のそれを大きく上回るものであった。
 反織田同盟に加入したことにより、これまで一向一揆の討伐が目標だった謙信の北陸戦略が大きく転換することとなる。義昭の外線戦略の一環として、足利幕府再興のために上洛を果たす、すなわち京都への進軍という大きな戦略目標が設定された。このとき、謙信の上洛を妨げていたものは、越前から加賀への進出をうかがっていた柴田勝家、そして能登七尾城に立て籠る畠山家であった。

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2009.01.04

手取川の合戦(3) 信玄を挟撃すべく上杉・織田同盟を締結

 尾張と美濃を制し、有力な戦国大名の仲間入りをした織田信長は永禄十二年に足利義昭を奉じ、上洛を果たした。義昭を室町幕府一五代将軍に据え、京都という日本の政治経済の中枢部を押さえることに成功した信長は、そこから勢力を急速に拡大していった。
 その過程で最初に訪れた危機は、元亀元年から天正元年にかけてであった。元亀元年の越前の朝倉義景討伐が、義景と好の深かった妹婿浅井長政の離反により失敗したことが発端である。畿内では三好長逸・三好政康・岩成友通ら三好三人衆との戦いが続き、信長は二正面での作戦を余儀なくされる。
 畿内の戦いは石山本願寺を中心とする一向一揆との戦いにまで拡大し、それが伊勢長島に波及した。将軍権威をもって事態を収拾させようとした信長であったが、信長の傀儡であることを嫌った義昭は信長討伐の檄を諸国に発した。これに応じたのが、甲斐・信濃・駿河を制したものの、北方および東方への勢力伸長が限界に達した武田信玄であった。
 元亀三年、反織田同盟に加わった信玄はそのホープとして大きな期待を受けながら、甲斐の躑躅が崎館を発った。北陸では信長に対する西上作戦に出た信玄に呼応して、越中の一揆勢に神保・椎名両勢が加わり、上杉方を攻めた。反織田同盟を策したのは義昭であったが、諸勢力の動向に大きな影響を与えたのは信玄だった。
 それまで信玄と好を通じていた信長は、信玄が西上の企図を明らかにするとこれと断交、謙信との同盟を打診してきた。信玄と一揆勢が敵である点において謙信と信長との利害は完全に一致していた。謙信もただちにこの盟約に応じ、上杉・織田同盟が成立した。
 この盟約が結ばれた時点において、それぞれが一向一揆と対抗していた場所は、謙信が越中、信長は石山本願寺と伊勢長島であったから、双方の利害がぶつかることは当面なさそうであった。
 四周に敵を抱えることになった信長は、岐阜を中心とした内線戦略で敵勢力に対抗した。内線戦略とは内線の利、すなわち領内の交通線を生かして軍勢を迅速に移動させ、外周に存在する敵の連携を断ち、各個に撃破していくものである。
 このとき、単純に比較した総合兵力では反織田同盟軍の方が上であった。兵力的に優勢な敵に内線戦略でうち勝つには、軍勢の機動性と敵の弱点を見定める戦術眼、そして一貫した戦略性が必要であった。
 信長は信玄との直接対決を避け、その対処を盟友徳川家康に任せる一方、反織田同盟の中でもっとも脆弱と思われた浅井・朝倉に政軍両面で対抗する戦略方針をとった。織田勢の攻勢により浅井・朝倉勢は小谷城域に追い込まれ、兵力を頼みとしていた朝倉勢が越前へ帰国した結果、織田勢に対して有効たりえる存在ではなくなってしまった。
 内線戦略に対抗する形となるのが外線戦略である。これは外周勢力が一致して敵を攻めることにより敵兵力を分散させ、包囲撃滅しようというもので、なによりもお互いの連携が重要であった。
 しかし、反織田同盟の外線戦略は、朝倉義景が越前へ帰国してしまったことにより破綻してしまった。信玄はこれをなじり、越前勢の再出陣を強く要請したが、義景が雪解けとなる春まで越前から動くことはなかった。
 一貫した戦略性を持っていた信長に対し、謙信の行動は関東、もしくは越中の将に救援を求められればそこへ出陣するという緊急展開軍的なものばかりであった。いかにも場当たり的で、明確な戦略ビジョンが見えてこない。性格といってしまえばそれまでだが、中小勢力の主権を重視する謙信ならではの欠点であった。信玄には見事にこの性格を衝かれ、謙信は関東と越中の間で文字どおり東奔西走させられた。結果として、関東・越中どちらでも成果をあげることができなかった。
 謙信と信玄の戦いもまた、内線戦略と外線戦略の戦いであったといえる。こちらでは春日山城を中心とする謙信の内線に対し、信濃で自ら戦い、関東では北条家と共闘し、越中では一向一揆を動かした信玄の外線がまさった。謙信に明確な戦略ビジョンがなかったため、信玄の思惑どおりに動かされてしまったからだ。

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2009.01.03

手取川の合戦(2) 信玄と因縁の戦いを続けた謙信

 越後を統一した上杉謙信は、川中島で武田信玄と戦う一方、北陸では一向一揆と抗争を繰り広げていた。これは一揆勢の総領である石山本願寺が武田信玄と盟約を結んでいたからという程度のものではなく、先々代長尾能景のときから続いていた根の深いものであった。長尾能景は永正三年、越中における一揆勢との戦いの中で討死した。その跡を継いだ謙信の父、長尾為景は越後における一向宗を一切禁止し、越中で一揆勢と手を組む神保氏と戦いを繰り広げた。その対立構図が謙信の代にも続いていたのである。
 永禄三年三月、神保長職が一向一揆と結んで、椎名康胤の松倉城に攻め寄せたのが謙信時代における越中騒乱の始まりである。以後、越中は神保長職と椎名康胤の二つの勢力に分かれ、謙信に対して向背常ならぬ状態が続いた。一方が謙信に対すれば、一方は謙信につき、謙信についた将も謙信が帰国すればまた離反するありさまで、戦乱が収まる気配はなかった。背後で彼らを動かしていたのは誰あらん、信玄その人だった。
 謙信と信玄が初めて川中島で対戦したのは、天文二十二年のことである。信玄に所領を逐われた村上義清の要請によるものだった。突然現れた謙信勢に、川中島へ進出した武田勢は散々に撃破された。謙信の一方的勝利だったといってもよい。謙信は武田勢との遭遇戦の中で、信玄にその精強ぶりを見せつけた。そして追撃戦では、中信濃の坂城南条まで進出するという機動力の高さをも見せた。この直後、謙信は最初の上洛を果たし、信玄討伐の勅命を得る。
 謙信が容易ならざる敵であることを知った信玄は、家臣の調略、和睦の一方的破棄による奇襲、近隣勢力との同盟、川中島に限定しない広範な戦略など、略術を駆使して謙信を翻弄した。この間、謙信と信玄は天文二十四年と弘治三年に川中島で対陣している。
 川中島を勢力下に収めつつあった信玄を討伐する大義名分を得るため、謙信は永禄二年に二度目の上洛を果たした。そして室町幕府第一三代将軍足利義輝に拝謁、関東管領補任の内意を得た。関東管領とは鎌倉公方を補佐して不破関以東を統括する室町幕府の役職で、戦国時代には有名無実化していた。しかし、謙信は越後へ帰国後に越山、上州厩橋城に着陣するや関東諸将一一万の大軍勢が集結したのである。有名無実といわれた関東管領であったが、謙信の武名がその威光を復活させてしまったのだ。謙信はこの大軍をもって難攻不落といわれた小田原城の北条氏康を攻めた。攻城一か月、ついに落城の気配を見せなかった小田原を離れた謙信は、鶴岡八幡宮で関東管領就任の儀を披露し、正式に関東管領となった。はれて信玄討伐の名分を得た謙信は勇躍川中島へ乗り込み、信玄に決戦を挑んだ。永禄三年九月の第四次川中島会戦である。
 決戦を志向して出陣した謙信は先手をうって出陣、妻女山に布陣して信玄の意表をついた。懐に飛び込まれた信玄はその意図を図りかね、当初は茶臼山へ布陣したものの、謙信の隙をついて海津城に入り、長期対陣状態となった。
 この状況に先にしびれをきらしたのは信玄だった。彼は軍勢を二手に分け、上杉勢の側背を衝こうとする啄木鳥の戦法を実行に移した。ところが、海津城から立ち上る炊煙を見て謙信は武田勢の出陣を察知、先手をうって妻女山を下りた。
 犀川を渡り、八幡平に出た謙信は武田方の物見をことごとく切り捨てることを命じ、敵の情報を断った。物見からの報告も別働隊からも謙信の動向に関する情報が入らず、八幡平に布陣した信玄は完全な情報不足に陥った。
 物見を放って濃霧の中を進んできた謙信は信玄の本陣を発見、行軍隊形からそのまま全軍突撃を命じた。いわゆる車懸りの戦法である。戦いは謙信と信玄の一騎討ちもあったと伝えられるほど、両軍勢とも一歩も引かぬ大乱戦となった。別働隊が合流し、最終的に数的優勢に立った信玄が川中島の確保に成功したものの、弟信繁を失うなど代償は大きかった。このときの損害が、勝頼時代の武田勢弱体化の遠因になったともいわれているほどである。この損害に懲りた信玄は、その後二度と謙信に合戦を挑もうとしなかった。信州から関東にかけて謙信のいないところへ出陣し、越中からの牽制を策して、文字通り謙信を東奔西走させたのである。

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2009.01.01

手取川の合戦(1) 天下無敵の戦術家、上杉謙信

「越後の龍」と称された上杉謙信は、とにかく戦さに強かった。毎年のように戦さを続けながら、一度として誰が見ても敗北というような結果になったことがない。実のところ、謙信の生涯における野戦の事例は少ない。多くの敵が城郭に拠り、謙信との野戦を避けたため、戦いは必然的に攻城戦となったからである。にもかかわらず、当時から「謙信は戦さに強い」という評判は高かった。
 謙信の戦術的評価を決定づけたのは、数次に及んだ信州川中島の戦い、そして永禄期における関東での戦いだった。謙信はこれらの戦いの中で、名将と並び称された甲斐の武田信玄、相模の北条氏康という東国を代表する二人の戦国大名を同時に相手にして、一歩もひけを取らなかった。戦略となれば圧倒的に謙信のそれを上回り、合戦でも強い信玄と氏康であったが、両将とも謙信との合戦を嫌い、戦術よりも戦略をもって謙信を打倒しようとした。ところが謙信は、二人の謀略に悩まされながらも、戦術だけをもって五分の戦いを演じたのである。
 この時期における謙信の出陣は、常に諸将の救援要請に応じてのものだった。悪くいえばいかにも場当たり的で、ここに謙信の戦略的意図というものをほとんど感じることができない。だが、ひとたび謙信が出陣すれば、武田勢も北条勢も潮が引くかのように後退し、ひたすら謙信の鋭鋒を避け、謙信のいないところを攻めた。信玄の信濃における、そして氏康の関東における戦略プランが、謙信の出陣により大きく狂いを生じさせることとなった。彼らが目的を達成することができたのは、調略によって諸将を降誘し、謙信が出陣する名目を失わせてからだった。
 これまでの戦史において、戦術の不利を戦略でカバーした例は快挙にいとまがない。ところが、戦略の不利を戦術でカバーすることができた例は、古今東西を見てもそうは見あたらない。そういった意味で、謙信はまれにみる戦術家だった。
 天正五年九月二十三日に生起した手取川会戦は、戦国最強と評された上杉謙信、最後の戦いだった。能登七尾城の攻略に出陣した謙信に対し、同城に籠城する畠山家の重臣長綱連が織田信長に救援を要請した。信長はこれに応じ、宿老柴田勝家を大将とする約三万の大軍を北陸へ派遣する。ところが、その後詰が到着する前に謙信が七尾城を攻略。余勢を駆って加賀中部まで進撃し、手取川に布陣する織田勢を撃破したというのが、そのあらましである。
 手取川会戦は上杉勢と織田勢との間で生起した初の戦いであったが、謙信と信長の直接対決とならなかったせいか、良質な資料がきわめて少なく、歴史の表舞台にもほとんど出てこない。なぜ謙信は七尾城を攻めたのか、なぜ謙信と信長が北陸で激突することになったのか、なぜ手取川だったのか……。戦いの実相はほとんど明らかでない。しかし、手取川の戦いに至るまでの過程を追っていくと、実はこの会戦が歴史の流れを変えかねない大事件であったことがわかるのである。手取川会戦が生起した要因はなにか、それは第四次川中島会戦が起きた永禄初期の頃まで遡らなければならない。

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