「対馬丸」事件(2) 沖縄シーレーンの戦い
昭和十八年(一九四三)、沖縄の戦いはすでに洋上で開始されていた。潜水艦による通商破壊戦である。
米海軍は開戦直後より無制限潜水艦戦を宣言していたが、当初は魚雷の不良などのトラブルや単独攻撃が主だったこともあり、さほどの脅威でもなかった。しかし、昭和十八年にもなると技術的問題が解消され、三隻一単位で船団を攻撃するウルフパック戦術を取ることで、効果的な戦果を挙げるようになっていたのである。
米潜水艦部隊にとって最大の目標は日本本土と南方資源地帯を結ぶ東シナ海及び南シナ海で、まだ攻略目標となっていない沖縄への航路は副次的な目標であった。このため、沖縄航路を狙う潜水艦は警戒目的の単独艦が多かった。
沖縄航路における最初の犠牲が出たのは昭和十八年五月二十六日、大阪商船所属の「嘉義丸」であった。鹿児島から沖縄に向かう鹿11船団に加わっていた「嘉義丸」は命により僚船「開城丸」とともに護衛なしで先行したが、SS189「ソーリー」の雷撃を受けて船体後部が爆沈、約五時間後に船首を屹立して沈没した。乗客約五五一名のうち三二一名が死亡した。
次の損害は同年十二月二十一日、商船四隻、護衛二隻の船団を組んで沖縄から本土へ向かっていた「湖南丸」であった。同船はSS208「グレイバック」の発射した魚雷二発を受け、沈没した。「湖南丸」には軍需工場への動員者、満蒙開拓団応募者、海軍少年飛行兵合格者など五八三名が乗船していたが、そのうち約四〇〇名が救助され、護衛にあたっていた特設捕獲網艇「柏丸」(※)に移乗した。
ところが三時間後、今度はその「柏丸」が反転してきた「グレイバック」の雷撃を受け、轟沈した。救助された「湖南丸」の乗客もすべて「柏丸」と運命を共にしたのである。
昭和十九年に入ると、奄美諸島から沖縄近海を遊弋する米潜水艦も増加し、それとともに損害も増大した。四月十二日、鹿児島から那覇に向かっていた鹿004船団の「台中丸」が、奄美大島西方でSS232「ハリバット」の雷撃を受けて沈没、二八名が死亡した。
八月五日には、奄美大島から沖縄に向かっていた「宮古丸」がSS316「バーベル」の雷撃により沈没、船客三四三名のうち約三〇〇名余が死亡した。駆潜艇三隻の護衛があったにもかかわらず、「宮古丸」が先頭に立ち、駆潜艇三隻が後方につくという不可解な陣形で、まったく護衛の意味をなしていなかった。
沖縄には疎開船だけでなく、第三二軍の増援部隊を本土や大陸から輸送する徴傭船が往来していたが、これらも例外なく潜水艦の攻撃にさらされた。
その中の一隻、「富山丸」は六月二十五日、独立混成第44旅団及び独立混成第45旅団の兵員を乗せて鹿児島を出港し、沖縄に向かった。しかし同二十九日〇七三〇時、徳之島東方を航行中、付近を警戒中だったSS187「スタージョン」の雷撃を受けた。魚雷は「富山丸」の左舷に三発命中、約一分後に沈没したが、積載していたガソリンの炎上により、乗船将兵約四六〇〇名のうち約三七〇〇名が死亡または行方不明となる大惨事となったのである。
この遭難で両旅団は戦わずして壊滅したため急きょ再建され、同年九月、再び沖縄に送り込まれた。またこの影響により、第15独立混成連隊が七月六日から十二日にかけて本土から沖縄へ空輸されるという異例の措置がとられ、後に再建された独立混成第44旅団へ編入された。
※特設捕獲網艇「柏丸」:海軍徴傭船。宇和島運輸より徴傭。515トン。特設捕獲網艇の標準装備は8サンチ砲×1、7.7ミリ機銃×1、掃海具×4、爆雷20~24であった。
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コメント
今回の内容ではありません。
「宮古湾海戦」を読ませていただきました。常々「箱舘戦争」に関する作品に物足りなさを感じている者です。
昔書いた文章ですが、話の種にしていただけたらと思います。
開陽と甲鉄について
箱舘戦争における開陽と甲鉄という、箱舘政府(開陽が沈没後に誕生したので、旧幕府軍の方が正しいが)と明治政府を代表する軍艦について、今までさまざまな観点から論じられてきたが、素朴な疑問について答えを見つけることがなかったことについて、整理をしてみたいと思う。今まで定着してきた一般論とは、なじまない点があると考えられるが、こんな考え方もあるのかということと、更にこのことについてつっこんでみたらどうだろうか、という話題の種となればと思う。
1.両艦の違いについて
①開陽は、フリゲートであるため外洋での作戦行動を念頭に置いて建造されている。
②甲鉄は、もともとアメリカの南軍が、北軍による港湾の封鎖に対抗するために建造された特殊な砲艦であり、外洋での作戦行動を想定していなかったものと考えられる。
③甲鉄は、箱舘湾のような波の穏やかな湾内で、開陽のような軍艦が湾の入口を封鎖している、といったケースが設計思想と合致するものと思われる。
2.甲鉄の評価
①アメリカは、南北戦争が終わり甲鉄のような特殊な船が不要になったため、軍艦の知識に乏しい日本人に売りつけたものと考えるのが妥当なのではないか。
②日本人の関心を引くセールストークが、「鉄製の装甲」、「1発で軍艦を撃沈できるという300ポンドアームストロング砲の装備」、「強力な1200馬力の蒸気機関」であったのではないか。(機関の出力は、公称馬力と実馬力で表されており実馬力は公称馬力の数倍となる。開洋の400馬力公称馬力であるが、甲鉄は公称馬力としている資料を目にしない。灯台部記録による明治丸についての記録では公称馬力254馬力、実馬力1530馬力となっている)
③当時の日本人はこのセールストークを、榎本も含めてかなり真に受けていた節がある。また、後年の歴史作家たちが、この点を何の疑いもなく強調したため、定説のように定着してしまった印象がある。
④榎本は、開陽の建造時にオランダが提案した鉄造船案について、本国の意向により木造になった時点で、鉄製の軍艦に強いあこがれをもっていたとしても不思議ではない。
⑤甲鉄は、茂斉氏が指摘しているように艦に対して異常なほど大きなラムを有しているため、操船が難しく扱いにくい船であったのではないか。
⑥南北戦争以降、甲鉄のような比較的規模の小さな艦で、このような形式の艦が歴史上の表舞台に登場することはなかった。
⑦箱舘戦争での戦い方が、甲鉄に最も適した状況であったことは皮肉な結果である。
3.開陽の位置づけ
①開陽と甲鉄の実力の評価については、日本人と欧米ではかなり違っていたのではないか。
②アメリカは甲鉄を明治政府に引き渡そうとしたが、交戦国ということで局外中立という立場を取り、明治政府に引き渡すことを保留した。
③このことは、欧米列国は、榎本の外交交渉能力と開陽の存在がある限り、箱舘政府の独立も夢ではない、もしくは可能性は低くないと判断したと考えられないか。
④もし箱舘政府が独立した場合、アメリカとしては、一方的に局外中立を破り、甲鉄を明治政府に引き渡したとなると国際法上重大な問題や今後の外交上の障害になる可能性がある。
⑤アメリカとしては、南北戦争が終わり国際舞台に立とうとしているときに、このことが大きなマイナスになると判断したのではないか。
⑥榎本の交渉能力を高く評価するとしても、やはりバックにある開陽抜きでは考えられず、開陽を失った箱舘政府に対する欧米の態度の変化について注意するべきだと思う。
⑦日本では、開陽と比べ甲鉄の評価が高いものの、その位置づけが考慮されて論じられる場が少ない。
⑧一般にいわれるとおり、甲鉄を日本最強の軍艦だと考えれば、アメリカは開陽の存在の有無にかかわらず、明治政府に引き渡しているはずである。
3.クルップ砲について(前装砲であるため正確な名称ではないという)
①開陽が搭載していた、クルップ社製の前装式のライフル砲は、仰角と射程から単純に計算した初速が約510m/秒と、10年後に生産された後装砲と遜色がない。
②大砲の性能の重要な指標である初速が公になっていないが、同様な計算で導いた場合、富士山に搭載されていたといわれる9インチのダルグレン砲(南北戦争当時最優秀といわれていた)は314m/秒、開陽に装備されていたやや旧式な30ポンド青銅砲は、266m/秒である。
③所氏は、阿波沖で明治政府の春日と交戦したときの記述で、16センチのクルップ砲について30ポンド砲としている(球形弾では口径から何ポンド砲と推定できる)が、クルップ砲の中実弾は48kgであるため106ポンド砲である。(所氏の30ポンド砲説は広く普及しているので罪は深い)
④富士山に搭載されていた、9インチダルグレン砲は、弾重も約40kg(87ポンド)であり運動エネルギーはクルップ砲の1/3にも満たない。
⑤開陽に9インチダルグレン砲が搭載され、その代わりにクルップ砲が降ろされたとすれば、幕府軍には大砲について正確に評価できる人がいなかったということになる。降ろされたのが、30ポンド青銅砲であったとすれば話は分かるが。
⑥所氏は、春日の搭載砲について後装式のアームストロング砲としているが、イギリスでは薩英戦争での爆発事故の反省から、しばらくの間、前装砲に戻っているので、常識的に考えれば春日のアームストロング砲も前装砲の可能性が高いはずである。
⑦イギリスもアメリカと同様に、日本人の無知をいいことに不要になった後装砲を「発射速度が速い」というセールストークで薩摩藩に(高額で)売りつけていれば別である。
⑧所氏の、阿波沖海戦の記述については、不正確な部分や調査不足(一時代前の海戦のイメージ)ではないかと思われるところが多く、専門家の意見としてはあまりにも情けない。
⑨搭載砲数についても、当然バランスを考えているわけであり、大砲の重さにも違いがあるため、26門が多いとは一概にはいえないのではないか。
⑩26門で設計されバランスが取れている艦に、35門積んだからといって単純に戦闘能力が強力になるものではない(火力だけは強力になるが)。指摘をするなら、所氏はその辺を指摘するべきであったと思う。
⑪榎本たちが、砲台用として運搬を目的として強力な艦載砲を開陽に積み込んでいたとする可能性もある。
4.その他
実際には、何の活躍もできずに沈んでしまったために、推測するばかりであるが、開陽の舵の不備がどの程度であったのか。乗組員の技能がどうであったのか。いくら優秀な艦でも、操船技術、射撃等の能力が船に追いつかなかったら宝の持ち腐れである。開陽の最大の弱点はそんなところにあったのではないか。事実、箱舘湾に侵出した甲鉄には、イギリス人が乗船していたという。海戦において何が大切かは、海洋先進国イギリスは理解していたのである。
5.宮古湾海戦(制海権なくして蝦夷独立はならず)について
彼我の海軍力を逆転させた軍艦「甲鉄」の記述での「甲鉄」と「開陽」の優劣では、①甲鉄は洋上での戦闘は困難(湾内は得意)、②「開陽」のクルップ砲の性能はどのくらいであったのか、が最も重要な点ではないかと考えられる。また、常識的には榎本は洋上決戦に持ち込むものと考えられる。その場合「甲鉄」は、乾舷が低い上、巨大なラムによりピッチングが相当大きなものとなり、艦首の砲門が開けなくなるのではないか。
アメリカは、「開陽」が存在したため局外中立を守り、「開陽」が沈没したため局外中立を撤廃した。これは、アメリカの「開陽」に対する明確な評価といえる。
「榎本は新政府側への「甲鉄」売却を知るや、対「甲鉄」用の徹甲弾を開発していた。」
については、「開陽」沈没後のことであるためこの文章にはなじまない。この徹甲弾は「回天」用と考えるのが妥当である。
投稿: リン | 2009.01.17 11:41