手取川の合戦(7) 遅々とした織田勢の進撃
加賀へ乱入した後の織田勢の動きは明確でない。『信長公記』には「添川・手取川打越し、小松村・本折村・阿多賀・富樫所々焼払ひ在陣なり」とある。
多くの場合、牛一の記述は進撃路のとおりに地名を並べているが、ここの部分は珍しく、まるで要領を得ていない。記述どおりに地図をたどるとわかるが、七尾城に向かって北上していたはずの織田勢が南下しているようにしか思えないのである。
「添川」は不明であるが、手取川の別名「湊川」の誤記であるという。字義からすると手取川の支流のひとつであるとも考えられる。「小松村」と「本折村」は手取川の南にある現在の小松市内、そして「阿多賀」は小松市内の安宅関のことである。
問題となるのは「富樫」の地名で、これがかつて加賀守護であった富樫氏の南北の拠点いずれを示すものなのかが明確でない。北であれば手取川北方で、さらには上杉方の拠点松任城よりも北に位置する現在の石川県野々市町であり、これはいうまでもなく記述に要領を得ていない。しかし、南であれば富樫庄のあった加賀市高尾であり、織田勢の南下ルートがはっきりと示されることになる。
筆者はこれを手取川合戦後における織田勢の退却路ではないかと考えている。この出陣に太田牛一は同行しておらず、記述は人聞きによるものであろう。退却路を誤って進撃路の如く記したのであろうと考えれば、この部分の記述は理解できる。
余談が長くなったが、こうなると織田勢の進撃路は推定によるしかない。信長の側近堀秀政に送った九月十日付連署状によると、山手の道は一向一揆の拠点が多く、進撃が困難なので浜手を進む、とある。織田勢が手取川を渡ったのは、九月十日頃のことである。越前北ノ庄から五〇キロ程度の行程にもかかわらず、実に一か月以上もかかっている。織田勢の進撃としては、これまでになく遅い。
連書状にあるように、一揆勢の抵抗が激しかったことも考えられるが、折しも秋の長雨の季節であった。河水の増水や氾濫などで進撃が大きく遅れたことも考えられる。そのような理由があったにしても、二日程度で進める距離の進撃にこれだけの日数がかかっては、七尾城の後詰としては遅すぎる。その上、手取川を渡った柴田勝家は水島に布陣し、実に半月近くも滞陣している。この長期滞陣の理由もまた謎である。
緩慢な進軍と長期滞陣の理由として作戦上考えられるのは、信長が北陸へ出陣するつもりであったならば、信長の本軍が安全に前進できるよう、点在する一揆勢の拠点を掃討しながらの進撃だったということだ。そして本軍が到着するまで、勝家らが手取川の橋頭堡を確保しようとしていたということだ。
九月十日付の連署状には、命令あり次第進撃するつもりである、重ねての援軍は無用という旨が記されている。信長が謀反を起こした久秀を説得している頃であった。織田勢の長期滞陣は、信長の出陣取りやめが北陸を進む織田勢に伝えられていなかったか、あるいは上方での決着がつくまで進撃を停止するよう命じられたからなのかもしれない。緊迫した上方の情勢を慮っての書状だったとも想像される。
だが、この遅々とした行動に歯がゆい思いで同行していたのが羽柴秀吉であった。秀吉としては勝家のポイントにしかならない北陸の仕置をさっさと済ませ、自身が調略を行っていた播磨へ兵を進めたかった。そこへ入ってきた久秀謀叛の報である。
秀吉は勝家に手取川南岸での進撃停止を進言するが、勝家はこれを拒否した。これが作戦上の対立を引き起こし、秀吉が無断で帰国するという重大な軍律違反を起こしてしまった。「羽柴筑前御届をも申上げず帰陣仕候段、曲事の由御逆鱗なされ、迷惑申され候」と『信長公記』にあるように信長は激怒し、秀吉に謹慎を命じたのであった。
いずれにせよ、この進撃停止で謙信は救われた。織田勢に手取川を越えられてしまったものの、策源たる金沢まで失われずにすんだからである。
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