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2009.01.06

手取川の合戦(5) 七尾城攻略に手こずる謙信

 能登半島のほぼ中央に位置する七尾城は、加賀・能登・越中の連絡線を押さえる要衝であった。標高三六〇メートルの松尾山に本丸を置き、七つの尾根に曲輪を築いて要所を野面積みの石垣で固めた、北国随一の堅城である。北に七尾湾を望み、惣構えの城下町が形成され、東には木落川、西から南にかけては大谷川が流れる天然の要害となっている。さしもの謙信もこの城を攻めあぐね、攻城戦は二年もの長きにわたった。
 謙信が最初に七尾城を攻めたのは天正四年九月のことである。能登守護である畠山家は、天正二年に畠山義隆が家臣に謀殺され、義隆の子春王丸がその後継者として担ぎ上げられていた。が、春王丸はそのときわずか二歳。実質的に城主がいない状況であった。そこで謙信は、畠山家から養子に迎えていた上条政繁を同家に戻すという大義名分を立て、能登へ侵攻したのである。
 ところが、畠山勢は謙信の介入を嫌い、対決する姿勢を明らかにした。能登の諸城を攻略した上杉勢は七尾城を包囲したが、要害堅固を誇るこの城を落とすことは容易でなかった。雪の季節となり、天正五年の正月を迎えても包囲を続けていた謙信であったが、三月にいったん帰国、国内の仕置を済ませた後、閏七月に再び出陣した。
 城内の実権を握るのは、畠山家の重臣たちであった。彼らは長期の籠城に倦み、上杉家につくか、織田家につくかで分裂していた。遊佐続光と温井景隆を中心とする一派は、北陸を併呑しつつある謙信に与しようと主張していた。もう一方の長綱連一派は、旭日の勢いで勢力を伸ばしている信長に与しようと主張していた。
 再びの謙信出陣に際し、織田方の綱連は僧籍にあった弟の長連龍を使者に立て、信長に救援を要請した。信長は七尾城の救援要請を了承した。八月八日、柴田勝家を総大将とした織田勢が越前を進発し、加賀へ乱入した。
「八月八日、柴田修理亮大将として北国へ御人数出され候。滝川左近・羽柴筑前守・惟住五郎左衛門・斉藤新五・氏家左京亮・伊賀伊賀守・稲葉伊豫・不破河内守・前田又左衛門・佐々内蔵介・原彦次郎・金盛五郎八・若狭衆、賀州へ乱入」
 太田牛一の『信長公記』に記された、北陸遠征の面々である。大将は柴田勝家。羽柴秀吉、惟住(丹羽)長秀、斉藤新五郎、氏家直通、伊賀定治、稲葉一鉄、不破光治、前田利家、佐々成政、原長頼、金盛(金森)長近といった諸将に武藤舜秀ら若狭衆が加わっていた。この総兵力は約三万といわれ、さらに後から、信長自身も一万八〇〇〇の兵を引き連れて出陣の予定だったという。これはまさに織田勢主力の出陣である。信長はなぜ、北陸征伐に本腰を入れることにしたのか。
 これまで加賀の一向一揆は、上杉と織田の間で一種の緩衝地帯として機能していた。ところが、謙信と一向一揆との同盟により加賀が上杉方となったことで、謙信の勢力圏が一挙に越前国境まで迫ってきた。朝倉の時代より数度の一向一揆が発生し、大きな政情不安要素を抱えた越前である。天正三年に織田勢が越前一揆を平定したときは、一揆の残党が謙信に救援を要請している。上洛を表明した上杉勢が越前に迫ったならば、謙信に応じた一揆が勃発することは火を見るより明らかだった。
 畿内では、石山本願寺勢をその寺域内に追い込んだものの、毛利輝元の後援を受けて未だに頑強な抵抗を続けていた。石山本願寺を攻略しない限り畿内の安定は望むことはできなかったが、その早期攻略は困難であった。信長は長期包囲戦に切り替えて本願寺を厳重な包囲下におく一方、天正五年二月に本願寺を支援する紀伊の雑賀衆を攻め、これを降伏させた。これらの処置により、少なくとも本願寺が積極的な攻勢に出てくる可能性はきわめて少なくなった。
 西国では、本願寺勢を後援する毛利家が播磨の諸豪族に対して調略を施していたが、ただちに出陣してくる気配はなかった。織田方も羽柴秀吉が積極的に播磨勢の調略にあたっていたし、播磨勢の最大勢力である三木城の別所長治はこの当時、雑賀攻めに参加するなどして自主的に信長へ加担していた。どちらかといえば、播磨の情勢は織田方有利で進んでおり、毛利勢に対する緩衝地帯として有効に機能していた。
 こうしてみると、信長の領域の中でもっとも緊迫していたのは北陸だった。緊迫の度合いは北陸に続いて播磨、最後に畿内という順序になろうか。北陸の情勢を安定させるために、信長は謙信よりも先に加賀を制する必要が出てきた。一揆勢だけなら比較的容易に制圧できるであろう加賀も、強兵の上杉勢が進出した後となってはその平定が困難になってしまう。謙信は七尾城の攻略に手間取っていた。この間に加賀を制し、七尾城の救援も成功したならば、逆に上杉との国境を一挙に越中まで後退させることができる。
 ここで加賀中部の地形に注目したい。加賀中部を流れる手取川は白山に源を発し、現在の美川町で日本海に注ぐ、全長約七〇キロの河川である。いまは穏やかに流れている手取川も、当時はたびたび氾濫を起こす暴れ川であった。川の流れは一定せず、氾濫のたびに方向を変え、無数の潟湖や沼沢が存在した。現在の川北町・松任市・美川町にかけて「島」の名がついた町名が数多く見受けられるのは、手取川の氾濫のさい、集落が島のように浮かんで見えたことから名付けられたともいう。手取川の南に位置する小松のあたりもまた川筋定まらず、泥田と潟湖ばかりの地形であった。ひとたび雨でも降れば進路が寸断され、軍勢が進撃するには最悪となる。逆に防衛上の観点から見れば阻害地形の連続であり、守りやすい土地ということになる。信長の鉄炮邀撃戦術は完成の域に達しており、段丘状の河岸に馬防柵陣地を築きあげれば長篠を再現することも不可能ではない。そこまで決定的な状況にならなかったとしても、謙信の進撃を食い止めるには適当な地形である。
 武田信玄亡き後、信長がもっとも脅威と見ていたのは戦国最強と評判の謙信だった。これまで謙信に対しては卑屈と思えるほど慎重を期していた信長だが、その一方、天正三年の長篠合戦で精強の武田勢を完膚無きまでに叩きのめしたということで、戦術的にも自信が出てきたに違いない。その自信が、謙信に対する積極的な作戦となって表れたのであろう。かくして、信長は自ら北陸への出陣を決意した。
 信長は進軍に先立ち、越後北部を領する上杉方の将で、再三謀叛の過去がある本庄繁長を誘い、背後から謙信を攻めさせようとした。しかし、あの向背常ならなかった繁長がこの好機に応じなかった。家臣の主権さえも認めた謙信の仁政による家臣団掌握の成果であったといえる。
 それと対照的な事件が畿内で突発した。信長麾下の将、松永久秀の謀叛である。石山本願寺の包囲陣に加わっていた松永久秀・久通父子が八月十七日、勝手に砦を引き払い、大和の信貴山城に籠城したのである。これは足利義昭の御内書に応じての謀叛といわれているが、織田勢の北陸出陣直後を狙った絶妙なタイミングであった。これが畿内でどのように飛び火するかわかったものではない。信長にとっては、北陸の情勢よりも久秀の謀叛鎮圧の方が急務となった。久秀の説得をあきらめた信長はその討伐を決意し、北陸の仕置は勝家に任せざるを得なくなったのである。

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