「対馬丸」事件(1) 疎開の決定
昭和十九年(一九四四)七月七日、絶対国防圏の一角であったマリアナ諸島のサイパン島が玉砕陥落した。東条英機内閣は緊急閣議を開き、一般疎開の促進および学童疎開の強度なる促進を閣議決定した。
同日深夜、文部省から沖縄県知事に対し緊急電報で通達があった。その内容は、奄美諸島および沖縄の老幼婦女子をただちに島外へ疎開させること、沖縄・八重山・宮古の三島から本土へ八万人、台湾へ二万人、計一〇万人を七月中に疎開させよ、というものであった。
県内政部はこの決定に基づいて急きょ学童集団疎開計画を策定し、七月十九日、各学校に対し「学童集団疎開準備ニ関スル件」及び「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令した。
疎開の目的は、国土防衛態勢の確立、県下児童の安全地区での教育運営の維持、食糧事情の調整などであった。
当時、沖縄には守備兵力として第三二軍が配備されていたが、六月の米軍サイパン上陸という事態を迎え、大幅な増強が決定された。だが、それによる兵員増加に伴い、狭い島嶼内における営舎の不足と食糧事情の悪化が予想された。そこで非戦闘員である島民を疎開させ、学校を営舎とするなど、諸事情の好転を図ろうというのである。沖縄での疎開は非戦闘員を戦闘に巻き込まないという配慮もさることながら、戦略的に必要な要請でもあったのだ。
学童疎開の対象は当初、国民学校初等科第三学年から第六学年までの男子希望者を原則とし、初等科第一、第二学年の者であっても心身の発育十分で付添が不要と認められた者は許可するとなっていた。また、児童四〇名に対し一名の割合で教員を付すること、児童二〇名に対し一名の割合で世話人を付することとされた。あわせて博多に業務事務局、鹿児島と佐世保に南西諸島引揚援護局を設置、疎開者受入先の宮崎・熊本・大分三県にそれぞれ担当者を派遣した。
だが、疎開は遅々として進まなかった。周知の通り、沖縄県は本土から遠く洋上を隔てた島々からなり、一般には鹿児島まで船で往復するしか方法がなかった。当時、すでに航路が米潜水艦の危険にさらされている事は周知の事実であり、島外への脱出は一種の賭けであった。また、本土と沖縄の人々の気質の違いや、異郷への疎開による家族離散の不安なども、疎開を躊躇させる大きな理由となっていた。
そこで県は昭和十九年七月中旬、県庁の役人や警察署職員の家族を疎開第一陣として出発させた。これは役職関係者の優先的避難ではなく、疎開を敬遠する県民に対して垂範啓蒙の意味があったという。
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