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2009年2月

2009.02.26

天正壬午の乱(2) 織田家の武田遺領配分


 織田信長の武田領に対する攻撃は、嫡子信忠を大将として天正十年二月に開始され、精強と謳われた武田氏をわずか一か月で滅ぼしてしまった。武田滅亡後、信濃諏訪に着陣した織田信長は、三月二十九日、武田遺領の知行割りを明らかにした。『信長公記』によれば、その内訳は次の通りである。
 川尻秀隆 甲斐国(穴山梅雪知行を除く)・信濃国諏訪郡
 徳川家康 駿河国
 滝川一益 上野国・信濃国小県郡・佐久郡
 森 長可 信濃国高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡
 木曽義昌 信濃国木曽郡・安曇郡・筑摩郡
 毛利秀頼 信濃国伊那郡
 この他、徳川家康に誘われて織田方に離反した武田家の将、穴山梅雪は父祖以来の所領である甲斐国八代・巨摩二郡の領有を許された。信長は甲信に国掟を定めて四月に帰国、武田遺領の統治はそれぞれの武将に任されることとなった。
 別格は駿河を与えられた三河の徳川家康で、信長とはもっとも深い同盟関係にあった。その処遇は独立した大名としてのものであり、他の武将たちとは明らかに一線を画していたが、実質的には信長麾下の大将格とほとんど変わりがなかった。
 対武田戦において、家康は武田親族衆の穴山梅雪を離反させることに成功し、武田家大崩壊のきっかけをつくった。その功績大として、信長は家康に駿河を進呈した。またそれは、一〇年近くに及んだ対武田戦の労苦に報いるものでもあった。
 三河・遠江に加え、駿河を所領とした家康は名実ともに「海道一の弓取り」となったが、西と北は織田領、そして東は北条領と盟邦に囲まれ、これ以上の所領拡大はもはや無理な状況となってしまった。信長に対して恭順の姿勢を貫き通していた家康に、果たしてこの時点においても野心というものがあったのだろうか。
 野心の可能性が感じられるとすれば、信長が甲信の武田家臣をことごとく討ち果たしていったのに対し、家康はその保護に務めたことであろう。家康は強敵だった武田信玄に心酔しており、その遺臣を麾下とすることで家中の充実を図ろうとしていた。発展の可能性が閉ざされた中にもかかわらず、である。
 長島、越前、甲斐と、抵抗勢力に対する信長の処断は苛烈の一途をたどっていた。所領が広がる一方で、松永久秀、別所長治、荒木村重等、信長に反旗を翻す勢力もまた続出した。中国毛利家の外交僧安国寺恵瓊が「信長はいつか大きく躓く」と予言したように、家康もまた信長の将来に危険を感じ、武田家臣を家中に引き入れることで信長後の可能性に備えていたのかもしれない。
 関東にあったもう一つの雄、相模の北条氏政もまた、信長の武田討伐に手を貸した。長年武田家と盟約を保ってきた北条家であったが、天正六年(一五七七)に越後で起きた御館の乱で、武田勝頼が北条氏から養子に入った上杉景虎を見捨て、上杉景勝と同盟したことをきっかけとして、武田家と断交したのであった。以後、両家は上野と駿河をめぐって攻防を繰り広げた。
 北条氏の当主は五代目の氏直となっていたが、実質的には四代目の氏政がいまだ執政権を握っていた。狡猾な氏政は織田・武田両家の戦いが長期化すると踏んだのだろう。初戦の段階で軍勢を動かすことはなかった。ところが、織田勢はこれまでの氏政にとって予想もつかないスピードで武田領へ侵攻していったのである。結果として、北条氏は対武田戦で大きく遅れをとることとなってしまった。
 氏政は信長に不審の目を向けられ、戦後、武田遺領を与えられることはなかった。もちろん氏政には不満だったろうが、落ちぶれたりとはいえ北条家と互角に戦っていた強敵武田家をわずか一か月で滅ぼしてしまった織田氏の実力を目の当たりにしては、信長に対抗することなど考えられなかったのだろう。その後は信長の心証を害さぬように対武田戦の戦勝を祝すなど、氏政の平身低頭ぶりは卑屈とも思えるほどである。

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2009.02.22

天正壬午の乱(1) 武田遺領・甲信争奪戦

 天正十年(一五八二)三月十一日、織田信長の大軍勢に攻められた武田勝頼が甲州田野で自決し、甲斐源氏の名門武田氏は滅亡した。その遺領である甲斐と信濃、そして上野は信長の家臣たちに分配され、信長の盟友たる徳川家康に対しては、長年に亘った対武田戦の労苦をねぎらうべく駿河一国が与えられた。
 武田氏の滅亡により、関東の情勢は一変した。織田勢の勢いは止まることを知らず、もう一つの強敵であった越後の上杉景勝に対してもまた、武田討滅の勢いを駆ってその本国へ攻めこまんとする勢いであった。西国に目を転じれば、信長の家臣羽柴秀吉が、毛利輝元の領する中国地方を順調に制覇していた。さらに信長の三男神戸信孝が、四国の長宗我部元親を討伐すべく、堺で渡海の準備を進めていた。信長の天下一統事業は、武田家滅亡により、実現に向けて大きくはずみをつけていたのであった。
 ところが同年六月二日、信長がその家臣明智光秀に本能寺で討たれ、後継者たる嫡男信忠も父の後を追って死を選んだことにより、すべてが無に帰した。織田領はたちまち乱れ、戦国乱世の状況に逆転したのであった。
 それは武田遺領であった甲斐・信濃も例外でなかった。京の変報は数日のうちに関東へも知れ渡ることとなり、統治者が変わって間もない甲信両国は大きな混乱に陥った。甲斐と信濃はともに無主の地となった。その獲得へ向けて動き出したのが、越後の上杉景勝、関東の北条氏直、そして「海道一の弓取り」徳川家康だった。一般に「天正壬午の乱」と呼ばれる、甲信争奪戦の開始である。
 この戦いは織田・武田両家の統治期間の差を考慮すれば当然なのであるが、織田領というよりも武田遺領をめぐる戦いという性格の方が強い。それはまた、武田遺臣の動向が上杉・北条・徳川という三大勢力の戦略に影響を与えるということを意味していた。さらに、武田信玄によって信州の地を逐われた諸豪族の故地へ回帰せんとする思惑が絡み、情勢をより複雑なものとしていったのである。

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2009.02.19

御館の乱(12) 謙信公以来の武門の誉れ

 景虎を討ち滅ぼした景勝だったが、上杉家の後継者争いから上田長尾家と古志長尾家の闘争に変質した越後の戦乱はすぐに終息しなかった。最後まで抵抗を続けた旧景虎方の本庄秀綱と神余親綱を討滅し、景勝がようやく越後国内を平定したのは、天正八年(一五八〇)六月のことであった。
 越後平定の戦いを続ける傍ら、景勝は武田勝頼と起請文を交わして黄金を寄進し、天正七年(一五七九)十月二十日には勝頼の妹菊姫と婚儀を結び、越甲同盟をより強固なものとした。東上野と信濃飯山も勝頼に割譲されたが、東上野は北条氏政との争奪戦の場となり、武田家の衰亡を早めることになった。
 結果として景虎を見殺しにする形となった氏政は、逆恨みをするかのように勝頼の違約をなじり、甲相同盟を破棄すると、天正七年には徳川家康、翌年には織田信長と同盟を結んだ。この結果、東国で織田家に敵対するのは、上杉・武田両家のみとなった。
 景勝はようやく上杉謙信の後継者としての地位を固めたが、すでにそのとき、天下一統の覇権を握らんとしていた織田信長の軍勢が越後に迫っていた。
 東から北条氏政、西から織田信長と徳川家康に挟撃され、勢力を急速に衰退させた武田勝頼は、天正十年(一五八二)二月、甲斐・信濃に攻め込まれてなすすべもなく崩壊、三月十一日、田野に追い詰められて自害し、武田家は滅亡した。戦国最強といわれた武田家が二か月足らずで消滅したことに、景勝をはじめ東国の諸将は戦慄した。
 東国で織田信長の敵として残ったのは、上杉景勝だけとなった。武田旧領の上野・信濃が信長の勢力化に入ったことで、景勝は西方の北陸だけでなく、南方からも織田勢が迫る緊迫した事態となった。さらに越後国内では、御館の乱における恩賞問題で不満を持ち、信長に内応した新発田重家が謀叛を起こした。またもや景勝は、春日山城で織田方に包囲される形となった。
 覚悟を決めた景勝は五月一日、常陸の佐竹義重に対して書状を送った。古い友人に別れを告げるかのような内容で、己の行末を達観した景勝の素直な心境が表れている名文だ。
「景勝はよい時代に生まれました。弓矢を携え、六十余州を越後一国で相支え、一戦を遂げて滅亡できるとは、景勝にとって死後のいい思い出となります。もし万死に一生を得たならば、日本無双の英雄として天下の誉れ、人々にあまた羨ましがられることでしょう」
 五月上旬、景勝は越中救援に出馬したが、織田方の滝川一益が上野から越後国境に迫り、さらに森長可が信濃川中島から越後に乱入するという危機的事態に接し、景勝は越中を捨てて帰国せざるを得なかった。
 越中では柴田勝家の軍勢による攻撃で五月二十六日に松倉城、六月三日には魚津城が落城し、いよいよ越後存亡の危機に見舞われたとき、奇跡が起こった。本能寺の変である。六月二日、景勝を滅亡の淵まで追い詰めた織田信長が突如としてこの世から去った。この結果、越後に迫っていた織田勢がことごとく退散し、景勝は万死に一生を得たのであった。これは景勝にとって偶然の幸運という以外の何物でもなかった。
 奇跡的に生き延びることができた景勝だったが、信長との戦いの中で、地方大名としての己の実力をいやというほど思い知った。そして戦国という地方分権の時代は終わりを告げ、天下一統という中央集権の時代に移り変わったことを悟ったのであった。この後、景勝は織田信長の後継者として急速に台頭した羽柴秀吉、後の豊臣秀吉と誼を通じるようになった。
 御館の乱に関係した関東の三雄のうち、武田家は信長に滅ぼされ、群雄割拠から天下統一へと動いていた時代の流れを読めなかった北条家は秀吉に抵抗し、滅び去った。だが御館の乱、信長との戦いと、二度まで滅亡の危機に陥った景勝は、自身が越後一国の主が相応であることを悟り、中央政権に取り入ることで生き残ったのであった。
 景勝は豊臣秀吉の五大老に取り立てられ、譜代格として大きく出世した。その過程で景勝が大いに活用したのが、養父上杉謙信の武勇伝だった。
 景勝は御館の乱や織田信長の戦いといった戦さの中で武功を立てたわけではなく、とても戦さ上手とはいえない。だが、多数の書状発給によるプロパガンダ戦略で苦しい戦いを乗り切ってきた。そこで秀吉の時代になってから、謙信を上杉家中興の祖として神格化し、毘龍の旗の下に結束した上杉家の精強をアピールしたのである。
 景勝のプロパガンダは功を奏し、上杉家は豊臣政権の中で一目置かれる存在となった。その間、景勝は越後家中の結束を固めることに注力し、「謙信公以来の武門の誉れ」を継ぐ者として、上杉家を永続させる体制をつくりあげたのであった。

(初出:学研「歴史群像」2007年4月号 No.82「上杉激震! 御館の乱」)

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2009.02.18

御館の乱(11) 御館滅亡

 上田で坂戸城の攻防戦が続いている頃、景虎が籠る御館は兵糧の不足に苦しんでいた。米山の猿毛城を奪われて糧道を断たれていたからである。この状況を打開するため、景虎は神余親綱の三条城から兵糧三〇〇〇俵を搬入するよう命じた。陸路を使用できないため、柏崎の湊から船を出し、直江津まで海輸しようというのである。
 九月下旬、兵糧は御館に向けて送り出された。同時に、栃尾城の本庄秀綱が二〇〇〇の兵を引き連れ、進軍を阻もうとする猿毛城の上野九兵衛を突破し、御館に入城した。さらに十月上旬、樺沢城から上田庄を突破してきた北条景広が御館に入り、景虎の下に馳せ参じた。兵糧の到着と両将の増援に、御館の士気は上がった。景虎は十月十日、かつて上杉謙信が関東管領就任式を執り行った鎌倉の鶴岡八幡宮に、戦勝祈願の願文を送った。
 意気上がる景虎方は十月二十四日、本庄秀綱を大将として大坪口から出陣、春日山城に攻め寄せたが、景勝方の奮戦により撃退された。御館に戻った本庄秀綱は十一月三日、景勝方が中郡の琵琶島城に攻めかかったという報せを受け、救援に向かった。景勝は本庄秀綱の出馬を察知したが、本庄秀綱は景勝方の警戒を突破して琵琶島城に入り、危機を救った。だがその後、本庄秀綱は御館に戻ることができず、栃尾城に帰還した。
 御館に残る勇将は、北条景広だけとなった。北条家は安芸毛利家に通じる一族で、刈羽郡北条に住してから姓を改めた。上杉謙信は北条景広の父、北条高広の手腕を高く評価し、二度まで謀叛を起こしながらも厩橋城将に留め置いた。景広は剛勇無双と称せられ、御館に入城して勇猛ぶりを発揮した。
 十二月十六日、越中松倉城将としてそれまで織田勢と対峙していた河田長親が能生に到着した。景勝は援軍として期待していたが、越後の雪深を理由に再び松倉城に帰還してしまった。正月早々、御館攻撃に参陣する旨を景勝に伝えているが、織田勢と対峙している情勢では、軍勢を動かすことができなかった。
天正七年(一五七九)を迎えた景勝は、雪が消え、小田原北条勢が再び越後に侵入する前に御館を攻略しようと決意した。御館はすでに孤立していたが、春の訪れとともに小田原北条勢が再び越後に進撃してくることは確実だった。前年の小田原北条勢は先手衆だけで御館の救援に失敗したことから、春には北条氏政の本隊が動くであろう。北条氏政が動けば武田勝頼の動向も不透明になる。そうなれば、景勝とて現在の優勢を維持できるかどうかは微妙であった。なんとしても雪解けの前に御館を攻略する必要があったのだ。
 一方、兵糧不足に苦しんでいた御館の景虎は正月早々、猿毛城将の上野九兵衛に書状を送り、帰参を促した。中郡との連絡を回復し、退勢を挽回しようとしたのである。だが、上野九兵衛は景虎の使者を斬り、決意の程を示した。正月二十日には高津城を攻め落とされ、御館は徐々に追い詰められていった。
 雪が消える前に景虎を打ち滅ぼそうと決意した景勝は二月一日、総攻撃に出た。この攻撃で北条景広の陣所が襲撃されて多数討ち取られ、北条景広もまた荻田孫十郎に槍で衝かれて深手を負い、翌日死亡した。翌二日には御館を攻撃し、府内をことごとく焼き払った。 この敗北は景虎方に大きなダメージとなり、御館からは脱走が相次いだ。
 二月五日、景虎は河田吉久に書状を送り、本庄秀綱とともに一刻も早く参陣するよう訴えた。二月十一日にも御館は景勝方に攻撃され、戦火の中、景虎は阿賀北の本庄繁長に、あと一〇日も援軍が来るのが延びれば滅亡の他ないと訴え、一日も早い参陣を哀願する書状を送った。二月中旬には、小田原北条勢の拠点だった樺沢城が上田衆に奪回され、関東援軍の望みも絶たれた。
 事態の急変に、景虎方だった武将は次々と景勝に降った。青海川・鯨波・島・錦などの要地が景勝方となり、御館は完全に孤立した。
 落城必至とみた前関東管領上杉憲政は事態を打開するため、景虎と景勝との調停に乗り出そうとした。このとき上杉憲政は景虎の子、道満丸を救おうとしたのであろうか、一緒に連れて御館を出た。春日山城に向かった上杉憲政は三月十七日、景勝方の武将に襲われ、途中の四屋で道満丸とともに殺害された。上杉憲政は七五歳、道満丸は九歳であった。
 四屋の悲報が伝えられた景虎は、これ以上の籠城は無理と判断し、ついに御館を脱出、武田勝頼の所領である信濃に向かった。景虎の脱出を知った景勝方は景虎を追い、窮した景虎は堀江宗親の鮫ヶ尾城に逃げ込んだ。しかし、堀江宗親もまた景勝方へ内応したため、進退窮まった景虎は三月二十四日、ついに自害した。二六歳であった。

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2009.02.17

御館の乱(10) 坂戸城攻防戦

 八月下旬、北条氏政がようやく重い腰を上げ、越後に兵を出した。だが、氏政自身が出馬したわけではない。氏政の弟、北条氏照と北条氏邦に出陣を命じたのである。『甲陽軍鑑』には兵数一万五〇〇〇とある。厩橋で北条高広・景広父子が加わり、軍勢は三国峠に向かった。
 なお、「ほうじょう」と「きたじょう」の関係がややこしくなるため、ここからは「ほうじょう」家を「小田原北条」家と記すことにする。余談だが、かつて北条高広は上杉謙信に反旗を翻し、小田原北条家についたことがある。その際に「読みは違えども字は同じ」ということで誼を通じたという逸話が残っている。両家はそのような関係でもあった。
 さて、景勝は関東からの小田原北条勢侵攻に備え、故郷の上田坂戸城を拠点として防備を固めるよう、挙兵当初から再三、城将の深沢刑部少輔に指示を出していた。だが、上州の景勝方拠点は景虎方に奪取され、坂戸城は古志郡栃尾城の本庄秀綱を中心とした景虎方勢力に攻撃されており、予断を許せない状況だった。そのような中、景勝がもっとも懸念していた小田原北条勢が動き出したのである。
 小田原北条家出身の景虎と対決する限り、氏政との和睦はありえなかった。また、盟約したばかりの武田勝頼はもともと小田原北条家との関係の方が強かった上、勝頼が策した景勝と景虎との和睦を破談にしてしまったから、今後の戦況如何では勝頼がどう転ぶのか予想がつかなかった。景勝が小田原北条勢の圧倒的な兵力に対抗するには、上田城、直峰城、そして春日山城といった、難攻不落の誉れ高い越後の城砦を拠りどころとした拠点防御戦しかなかった。
 かたや、御館で景勝方に攻めたてられ、苦戦を続けていた景虎は、待ちに待った小田原北条勢来援の報に狂喜した。九月二日、北条景広が北条城に入ったという報を受けた景虎は、小田原北条勢とともに御館に入城することを求める書状を船早飛脚で景広に送った。景広の北条入城は誤報であったが、ほどなく小田原北条勢が三国峠を越えて越後に侵入し、景勝方の樺沢城を奪取して越後侵攻の拠点とした。
 勝頼と景勝との同盟が景勝の流した偽情報であると考えていた景虎は、小田原北条勢と武田勢を合流させた上で、春日山城の景勝を一挙に攻め滅ぼそうと考えていた。このとき、武田勢は妻有に向けて移動していたが、小田原北条勢と合流するためであろうと景虎は信じていたのである。
 一方の景勝は、武田勢の移動を景勝の坂戸援軍要請に応えたものと考えていた。景勝は九月十一日、武田勢がまもなく妻有に着陣するので、到着したら馳走するよう、妻有の小森沢政秀に書状を送っている。すでに小田原北条勢は坂戸城に迫り、攻撃を開始していた。九月十二日、景勝は坂戸城を守る諸将に対し、武田勢を援軍に向かったので城を堅く守るよう申し付けている。景勝方は、樺沢城をはじめとする魚沼郡の城を捨てて全兵力を坂戸城に集め、小田原北条勢に対する防御戦を展開した。
 坂戸城は標高六四〇メートルの山頂に実城を置き、麓に向けて無数の郭を重ねた難攻不落の城砦である。これを攻めあぐねた小田原北条勢は、一〇月の降雪期を迎えることになってしまった。軍議の末、大将の北条氏照は本隊の関東帰還を決断した。越後の豪雪で関東との連絡が途絶えてしまったら、一万五〇〇〇の大軍で越冬するのは無理と判断したのである。
 樺沢城は橋頭堡として確保するため、北条氏邦・北条高広・河田重親らを守将に置いた。また、北条景広と小田原北条勢の篠窪出羽守を御館の援軍として向かわせた。仕置を終えた小田原北条勢は三国峠を越え、関東に帰還した。
 ところで、攻防の帰趨を握っていた武田勢は坂戸城攻防戦の間、何をしていたのか。飯山街道をノロノロと進軍した後、九月下旬に妻有に着陣したが、そこからまったく動くことはなかった。二重同盟を結んでしまった勝頼としては、どちらにも加勢するわけにいかなかったから、小田原北条勢の坂戸城攻めを傍観するよう命じていたのである。
 坂戸城の後詰として期待していた景勝は、この背反ともとれる行動に困惑しつつも、動かぬ武田勢を最大限活用しようとした。城兵には「武田勢が加勢に来たから応援に出す」と書状で励ましつつ、犬伏の防衛を武田勢に託したのである。
 もし、小田原北条勢が御館に向おうとするならば犬伏を通らねばならず、必然的に武田勢とぶつかることになる。敵方にさえならなければ、遊兵であっても戦力になる計算だった。だが、武田勢が小田原北条勢と合流したならば、景勝の運命は極まることになる。
 あとは武田勝頼の信義に賭けるしかなかったが、武田勢が犬伏から動くことはなく、景勝はその賭けに勝った。十二月、景勝は勝頼との同盟を確固たるものとするため、その条件であった婚約の祝儀を武田家に送ったのであった。

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2009.02.16

御館の乱(9) 上杉景勝の反撃

 和睦の打診に武田方の内諾を得た景勝は、景虎方に対して俄然攻勢に転じた。和睦交渉で動きが止まった武田勢に気取られることなく、全力で春日山城から打って出たのである。
 六月十一日および十三日、景勝方は大場にて景虎方と戦い、景虎方の将、上杉景信をはじめ数百人を討ち取った。親類衆のトップで、古志長尾家の当主だった景信を失ったことは、景虎方にとって大きなダメージとなった。
 六月十二日には、景勝方となった長尾筑後守・宮崎甚介らが、景虎方だった直峰城の長尾景明を討ち取り、直峰城を奪取した。松之山街道の起点にある直峰城は、春日山城と景勝の本城坂戸城を結ぶ要衝であった。直峰城が景勝方となったことで、坂戸城の連絡が取れるようになった。これでようやく春日山城の孤立状態が解消されたのである。
 さらに米山の猿毛城が景勝方と0なった。ここは上杉家重臣柿崎晴家の城であったが、謙信死去の翌日である三月十四日に晴家が死去し、無主の状態となっていた。謙信の死後、景虎を推した晴家は景勝派と論争になり、殺害されたという。それを知った柿崎遺臣は景虎方となり、篠宮出羽守が猿毛城を守っていた。だが六月上旬、景勝方についた上野九兵衛が城兵を説得し、篠宮出羽守を討ち取って、猿毛城を陥れたのである。これは、御館が中越の景虎方に通じるルートを断たれたことを意味する。
 直峰・猿毛の両城が景勝方となったことで、今度は景虎が孤立する情況となってしまった。これら城兵が景勝に反応した原因だが、六月八日に景勝が北条父子に送った、武田勝頼との同盟を告げて帰参を促す書状と同様の書状を、景勝が他にも送っていたのであろう。これを確認した城兵が信越国境に集結した武田勢を確認し、しかも十一日の合戦で景勝方優勢と判断して、景勝方についたのだ。
 景勝は非常に筆まめであった。御館の乱の間、各地に散らばった自陣営の諸将に毎日のように書状を発し、春日山の状況を報告するとともに各地の作戦を指示している。戦いで武功のあった者には欠かさず感状を発した。敵方にもたびたび書状を送って帰参を促している。いうまでもなく、常に自軍が優勢であることを誇示している。景勝が御館の乱を優勢に導いた、書状による情報戦略であった。
 景勝方の戦況逆転は、半信半疑であった武田勝頼の心境にも大きく影響を与えたであろう。武田勝頼は陣を越後に進めながら、景勝と本格的な和睦条件の交渉に入った。六月二十四日、武田家重臣の小山田信茂を使者に立て、上杉家重臣の斉藤朝信と新発田長敦に御礼の書状を送っている。その一方で軍勢を進撃させて春日山城下に迫り、勢力を誇示しつつ交渉を有利に進めようとしている。
 また、春日山城下への進撃は、北条氏政に対して景虎支援を履行していることを示す意味もあった。勝頼も北条家を敵に回すデメリットは理解していたようで、内密に景勝との和議を進めようとしていた。だが、景勝は武田との和議が成立したことを板屋光胤に六月二十九日の書状で報告しているように、自軍を有利に転じようと、武田盟約の事実をあちこちにひけらかしていた。このギャップが、結果として武田勝頼を道化役に仕立ててしまった。
 六月二十九日、武田勝頼は春日山城下の木田に陣を構えた。ここは景勝・景虎双方を威圧できる要地であった。先陣の大将武田信豊は同日、和平を促す書状を景勝に出している。おそらく景虎にも同様の書状が届けられたことだろう。越後情勢のキャスティングボードを握ったと勘違いした武田勝頼は、景虎と景勝の和平を成立させようと画策した。景勝と同盟を結びつつも、義兄弟でもある御館の景虎を見捨てるわけにもいかず、また北条氏政に対しても申訳が立つ形で乱を終息させようとしたのである。七月二十三日には、景勝家臣の山吉掃部助らに対し、景勝と景虎を和睦させるために出馬したのだという、もっともらしいことを記した書状を送っている。
 だが、武田勝頼の斡旋にもかかわらず、景勝と景虎の戦いはすぐに終わらなかった。七月二十八日に再び大場で合戦があり、八月一日には景虎方が春日山城に攻め寄せている。景勝は優勢を報じていたが、現実には一進一退の攻防がまだ続いていたのである。眼前で繰り広げられる戦いに手出しをするわけにもいかず、勝頼はさぞ歯がゆい思いで傍観していたことだろう。
 景勝と景虎の和睦が成立したのは八月中旬のことである。和睦の仲介を果たした武田勝頼とその重臣たちには太刀・馬・青銅など御礼の進物が送られた。勝頼は得意の絶頂であったろう。しかし、景勝と景虎がもとより和解できるはずもない。和睦はすぐ破談になり、勝頼はさじを投げた格好で八月二十八日に帰国してしまった。九月十九日に会津の芦名盛氏へ送った書状の中で、勝頼は双方の主張がどうしたら聞き届けられるものか、と嘆いている。
 景虎との和睦はならなかったものの、景勝にとって武田勝頼との同盟が成立したことで、信越国境を気にすることなく御館攻撃に専念できることになった。九月一日、景勝は残っているだけで二六通の感状を発している。いずれも籠城をねぎらい、加増を約するもので、書状戦略によってあらためて景勝方についた家臣の人心掌握に努めていたのである。

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2009.02.15

御館の乱(8) 武田勝頼の変心

 はたして、武田信豊は景勝から提示された破格の条件に驚いた。景勝の打診に利ありと判断した信豊は、ただちに甲府へ使者を出した。武田勝頼はまだ甲府を出馬していなかったが、おそらく信豊からの報を受けた後、六月上旬に越後へ向けて動き出した。
 六月七日、勝頼の側近である跡部勝資が、景勝方の将十一人を連署した異例の書状を送っている。景勝から再三、講和打診の回答を催促されたにもかかわらず、勝頼出馬のため返事が遅れたことを詫び、代わりに信豊が口頭で回答する旨を伝えている。
 これは武田方も景勝の出した条件に大いに乗り気だったことを示しているとともに、景勝が本気かどうかを確認する意味合いもあったであろう。
 信豊から誓詞を求められた景勝は、誓詞をしたためて信豊に送り、謝意を示した。景勝はこれで勝頼との盟約に成功すると踏んだのであろう、六月八日、景勝は景虎方であった上州厩橋城の北条高広・景広父子に帰参を促す書状を送っている。
「武田信豊と高坂弾正のとりなしで武田勝頼がこちらについた。どうしようと当方の指図次第である」と、まるで勝頼が景勝の麾下に入ったかのような、高飛車な内容である。
 なお、文中に出てくる高坂弾正昌信はひと月前の五月七日に死去している。武田方重臣の名を出すことで、同盟の事実により重みを出そうとしたのであろうか。また、『甲陽軍鑑』には、勝頼の側近であった跡部勝資・長坂長閑の両名が賄賂を得て、景勝との同盟を斡旋したと記してあるが、実際に両家を取り次いでいたのは武田信豊であったということが、この書状で確認できる。
 川中島に到着、海津城に入った勝頼は景勝の誓詞を確認し、同盟の是非について信豊と協議した。六月十二日、信豊は景勝に宛てて書状をしたため、誓詞提出の御礼とあわせて勝頼の海津着陣を報告した。詳細は使者の口上で伝えられた。景勝の条件提示も大胆だったが、勝頼の決断もまた驚くほど速かった。
 勝頼と信豊が出した結論は、景勝との同盟締結であった。武田方の判断とすれば、上杉家の主君が景虎になろうと景勝になろうと関係なかった。重要なのは、越後と同盟関係になるということであった。
 その視点で冷静に判断すれば、北条家との同盟を維持しつつ、越後とも盟約を結ぶことができる景虎を救援する方がいい。背後を安定させつつ、織田・徳川連合軍との戦いに専念できるからだ。
 しかし景勝と同盟すれば、北条氏政との関係が断絶し、織田・徳川連合軍とともに東西から挟撃される可能性が高くなるであろうことは容易に想像がつく。
 その判断を狂わせるほど、景勝の提示した条件は勝頼にとって魅力が大きかったということになる。
 勝頼は、北条氏政の態度にも疑問を持った。武田家が出兵しているにもかかわらず、開戦から三か月になろうとしている六月になっても北条勢が越後まで出陣していないという事実は、氏政には景虎を救援する気がないのではないか、と勝頼に疑惑を持たせるのに十分であった。
 氏政が出陣しないのであれば、いくら盟約のためとはいえ、景虎を支援して春日山城を攻撃しても損害を出すのは武田ばかりである。しかも見返りはまったくない。ならば兵を損ずることなく、この場を収めた方が無難である。「表裏の仁」。そのような北条氏政評もまた、勝頼の判断を狂わせたのかもしれない。
 景勝と勝頼の和睦の情報は北条氏政にも伝わったようで、六月十二日、上田に向けて先勢が向かったことを記した起請文を沼田の河田重親に送っている。だが、実際に北条勢が沼田に到着したのは九月になってからだった。

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2009.02.14

御館の乱(7) 景勝、勝頼を買収

 武田勢の出現により、景勝は絶体絶命の危機に陥った。国外勢力はいずれも景虎に与力しようとする敵対勢力だった。御館勢だけならば互角だったが、国外勢力が景虎方に合流したならば、景勝の運命は極まったも同然である。武田勢の越後入国により、それが現実のものになろうとしていた。
 景虎の実家である北条勢の援軍はある程度予測していたが、武田勢二万の出陣は景勝にとって意外だった。天正三年五月、武田勝頼は織田信長・徳川家康連合軍と長篠に戦って大敗し、信玄以来の宿老を多数失って勢力が大きく減衰した。しかも東海道において徳川家康と交戦中だったから、越後に兵を出す余力があるとは思いもよらなかったのである。
 窮地に追い詰められた景勝は、ここで逆転の一策に出た。武田軍先陣の大将、武田信豊に和睦を申し出たのである。六月一日、妻有を守る小森沢政秀に武田勢を警戒するよう書状を送っているが、同時に和睦の交渉を開始していたようである。
 景勝が武田信豊に出した条件は、武田勝頼への献金、上州及び信州の上杉領割譲、景勝と武田勝頼の妹との婚姻すなわち武田・上杉同盟の締結であった。
 武田勝頼への献金額に関しては不明である。『甲陽軍鑑』は一万両と記述しているが、これが誇張であるとする説は少なくない。乱後に未進の黄金五〇枚を請求する跡部勝資の書状が残っていることから、小額であったともいうが、織田・徳川連合軍との戦いが続き、不利な戦況で疲弊していた武田勝頼がもっとも欲していたのは、土地ではなく戦費であった。
『甲陽軍鑑』には、武田家の国庫に七〇〇〇両しかなかったと記してある。金額の是非を差し置いても、戦費が逼迫していたのは間違いない。条件を提示された武田信豊と武田勝頼が即決したことを考えれば、莫大な金額が提示されたことは容易に想像がつく。
 天正六年当時の武田・上杉の関係は盟約こそしていなかったものの、敵対しているというわけでもなかった。むしろ、対織田・徳川戦略の中で同盟の可能性が見えてきていた時期でもある。長篠合戦に敗れた武田勝頼が置かれていた情況を考えてみれば、領土割譲を盟約の条件とするには弱すぎることがすぐに理解できる。
 それに、まだ景勝が越後を掌握したわけではない。それどころか春日山城で孤立し、窮地に陥っているのである。しかも割譲予定地はすべて景虎方にある。もし景勝が敗れたなら、領地はすべて空手形となってしまうのだ。
 しかし、現金の授受なら確実であり、即効性が高かったことは間違いない。
 春日山城中には、上杉謙信が一代で蓄財した大量の軍資金があった。上杉謙信の経済感覚は非凡のもので、休む間もなく戦さを繰り返したにもかかわらず、家督を継承したときに大赤字だった越後の財政を、京都との青苧交易と金山開発で黒字に転換させ、蓄財も可能にするほどの富裕国にしていたのである。
 上杉謙信の死後、実城を占拠した景勝は金蔵を開き、河隅忠清・飯田長家らに命じて金子を数えさせた。五月三日の報告で小判二七二四枚を数えている。上杉謙信小判一枚の価値は一〇両だったというから、二万七〇〇〇両あまり、現在の人件費に対する貨幣価値に換算すれば八一億円以上に相当する。
 多大な遺産を獲得した景勝は、これを惜しむことなく活用し、戦局を有利に導こうとした。当時の武田家が置かれていた苦しい台所事情を看破した上で、和睦の条件を提示したのである。
 だが、これは単なる和睦ではない。勝頼の風下に立つ様子を見せつつ、敵として出陣してきた武田家の一番弱いところを衝き、丸ごと自陣営に取り込んでしまおうという、企業買収さながらの策略であった。武略ではなく、経済外交戦略に持ち込んだ景勝の真骨頂であった。

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2009.02.13

御館の乱(6) 武田勝頼の出陣

 景虎方が攻勢に出たのは春日山城に対してだけではなかった。景虎方となった上野の北条高広・景広父子や河田重親が、景虎の実家北条家からの指図を受け、越後と関東を結ぶ三国峠に通じる猿ヶ京に向けて攻勢に出たのである。
 上州で景勝方となったのは深沢城の深沢定政、猿ヶ京城の尻高左馬助、小川城の可乗斎、尾奈淵城の沼田平八郎などの少勢に過ぎなかった。尻高左馬助はひとまず景虎方の上野勢を撃退したが、景虎方が再び来襲することは確実であった。この方面の防衛を担当していた深沢利重は景勝に援軍を求めた。しかし、春日山で孤立していた景勝にそのような余裕はなかった。景勝は手持ちの戦力で防戦するよう命じた。
 五月下旬、再び上野勢が攻め寄せ、猿ヶ京をはじめ小川、尾奈淵も落城し、景勝方は越後に引き揚げざるを得なかった。この敗退により、北条勢は関東から景勝の本拠上田坂戸城へ進撃するための道が開けたのであった。
 その頃、春日山城に立て籠る景勝方と膠着状態に陥っていた、御館の景虎のもとに吉報が舞い込んだ。北条家の要請を受けた武田勝頼の軍勢が信越国境に到着したというのである。
 前述の通り、景虎の兄である北条氏政は、攻守同盟を結んでいた甲斐の武田勝頼に対し、景虎救援の出陣を要請した。武田勝頼はこれに応え、越後に向けて景虎救援の兵を出した。五月下旬、武田勝頼の従兄弟である武田信豊の軍勢が先陣として信越国境に到着したのである。
 五月二十九日、景虎は会津の芦名盛氏に宛て書状を送った。景勝方を春日山に取り籠めたこと、武田信豊の軍勢が信越国境まで来援したことを報じ、芦名盛氏も北条家と示し合わせて出陣するよう求めた。春日山城を孤立させたものの、御館の兵力だけで攻略することができなかった景虎が武田勢の到着に欣喜し、一挙に景勝を葬るべく勇躍している様子が文面に表れている。
 北条氏政の誘いで景虎方となった会津の芦名盛氏は、景虎の書状が届く前、すでに越後に兵を進めていた。芦名の将、小田切治部少輔は菅名に侵入、景虎方の本庄秀綱及び神余親綱に合流しようとしたが、五月二十八日、景勝方に撃退された。
 武田勢の出現により、景虎方は圧倒的な優勢に立った。武田勝頼の妻は北条氏政の妹、すなわち景虎にとっても姉妹であったから、武田勝頼と景虎もまた義兄弟だった。北条氏政が要となり、武田勝頼と景虎が連携して動き出せば、いかに難攻不落の春日山城とてひとたまりもなかったであろう。
 だが、そうはならなかった。北条氏政が小田原を動かなかったからである。氏政は武田・芦名に戦わせて、自らは出陣せずに漁夫の利を占め、あわよくば越後の覇権を獲得しようとしていたのだ。北条家にとって重要なのは関東から越後上杉家の影響が排除されることであり、越後の支配権はどうでもよかった。むしろ内戦で混乱状態に陥っている方が都合がよかったのかもしれない。
 氏政にとって三郎景虎は政争の具に過ぎなかった。先の越相同盟では、上杉謙信に何枚も誓詞を入れながら翌年には盟約を翻し、三郎景虎を見捨てている。そして御館の乱でも、本気で景虎を救援しようとは考えていなかったのだ。

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2009.02.12

御館の乱(5) 景虎、御館に移動

 景勝の挙兵から約二か月の間、春日山城内では両派による攻防戦が展開されたが、五月十三日、景虎は春日山城を出て、府内の御館に入った。武器・兵糧の不足で不利な交戦となるのを避け、御館に移ったのだ。
 景勝は実城の倉庫を押さえていたが、そこには出陣を目前にして十分な武器・兵糧が用意されていたはずで、景勝は存分に籠城戦を展開できる状況だったに違いない。だが、上杉謙信に後継者と定められていた景虎は、武器・兵糧が収まった倉庫を景勝に押さえられた上、まさか春日山城内で戦闘になるとは考えていなかった。
 御館は、越後に亡命してきた前関東管領上杉憲政の居宅として上杉謙信が府内に建てた館である。御館の外郭は東西約二五〇メートル、南北約三〇〇メートル、内郭は東西約一三五メートル、南北約一五〇メートルの四角形で、二重の土塁と堀に囲まれていた。御館は憲政の居宅としてだけではなく、上杉謙信の政庁としての役割も果たしていた。この御館が攻防の中心となったため、景勝と景虎の争乱は後に「御館の乱」と呼ばれたが、当事者たる景勝は「忩劇」「錯乱」などと書状に記している。
 御館には前関東管領上杉憲政がいた。当時七五歳。二十数年前に関東での戦乱を逃れ、これまで平和だった越後で悠々と余生を送っていた。そこへ図らずも景虎が飛び込んできたことで、御館は一変して戦場と化したのであった。
 さて、春日山城を出て御館に拠点を移した景虎は、自軍の勢力を糾合すると攻勢に転じた。五月十六日、景虎方の東条佐渡守は春日山城下の春日町に放火し、三〇〇〇軒を焼き払った。同日、鮫ヶ尾城の堀江宗親が一〇〇〇の兵を引き連れて御館へ着陣。信州飯山城の桃井義孝・本田石見守ら外様衆二〇〇〇も御館に到着した。
 ようやく援兵を得て意気の上がった景虎方は、翌五月十七日、一気に春日山城を攻略すべく五~六〇〇〇の兵で御館を発ち、春日山城の堤際、あるいは千貫門のあたりまで攻め入った。
 景虎方の攻勢に対して景勝方は堤際まで出て防戦を繰り広げ、千貫門を開いて槍で突き落とし、桃井義孝以下数百人の兵を討ち取って撃退した。景虎方の攻撃は失敗に終わった。しかし、春日山城からは兵の離脱が続き、景勝方にも反撃の余力はなかった。
 自軍が優勢であると見た景虎方は五月二十二日に再び兵を出し、荒川館と愛宕で両軍が交戦したが、上田衆の奮戦により景虎方を再び撃退し、春日山の戦いは膠着状態に陥った。

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2009.02.11

御館の乱(4) 上杉家臣団の分裂と国外勢力の介入

 景勝の実城占拠をきっかけとして、上杉家臣団は景虎方と景勝方に分裂し、越後を真っ二つに分けての大騒乱に発展した。
 実城とは春日山城の本丸部分で、春日山頂の二か所の平坦地、北東の毘沙門堂、お花畑、現在二の丸という石標のある郭、裏側の井戸郭などの総称であった。上杉謙信が御実城様と呼ばれていた通り、実城こそが上杉家の本拠地であった。
 上杉謙信の後継者であることを正当化するため、先手を打って実城を占拠した景勝は、景虎の居館があった二の郭に弓・鉄炮を撃ちかけた。景勝の挙兵は用意周到というわけにいかなかったが、十分成功の打算があった。何よりも景勝は越後の出身であり、上杉謙信の血筋でもあった。景勝が挙兵すれば、越後の諸将はことごとくその旗下に参ずるであろう。
 ところが、景勝の甘い期待はすぐに打ち砕かれた。『上杉年譜』に「老将の中には異議を唱える輩もあった」とあるように、意外にも多くの武将が景虎を支持したのである。特に鮫ヶ尾城の堀江宗親や直峰城の長尾景明など、上越の諸将がことごとく景虎方についたのは衝撃だった。この結果、景勝は春日山城に孤立する格好となってしまったのである。孤塁となった実城の中で、景勝は諸将を自陣に取り込もうと必死の調略戦を展開した。越後だけでなく、会津の芦名盛氏父子にも誼を結ぶべく書状を送っている。
 一方の景虎は、まさか上杉謙信の忌中に景勝が挙兵するとは思ってもみなかった。春日山城の実城から二の郭、三の郭にかけて城壁が設けられていたが、二の郭は実城の崖下にあり、景勝方から撃ち下ろされる格好となった。とはいえ、景虎としても上杉家当主の象徴である実城をみすみす景勝に渡すわけにはいかなかった。景虎もまた、春日山在城中に諸将に書状を発していたようだが、現在残っているのはその返答らしきものだけである。そして、小田原の北条氏政にも救援を求める書状をこの時期に送っていたと思われる。
 双方の調略戦の結果、五月には越後諸将の旗幟がほぼ鮮明となった。景虎方についたのは上越の諸将の他、越後統一期に上杉謙信政権を支えた栃尾城の本庄秀綱、三条城の神余親綱、古志長尾家の上杉景信などであった。また、金山城の由良成繁、沼田城の河田重親や厩橋城の北条高広・景広父子など、景虎の実家である北条家と領国を接する上野の諸将が景虎に同心した。
 景勝を支持したのは、地元魚沼郡の諸将であった。中でも上田長尾家を支えてきた景勝の家臣団、上田衆が終始活躍した。越後統一後に上杉謙信に登用され、政権後半を支えた河田長親・鯵坂長実・山崎秀仙、そして上杉謙信晩年に宿老となった揚北衆の新発田長敦・竹俣慶綱なども景勝方となった。
 一門親類衆も両派に分裂し、景虎方には山本寺定長・琵琶島弥七郎・上杉景信らが、景勝方には山本寺孝長・上条政繁・山浦国清らがついた。この他、本庄繁長・顕長父子、河田長親・重親父子などのように、一族の中で両派に分裂した例もあった。
 上杉家臣団の分裂は、政権上の対立、地域的な問題、さまざまな思惑を包含した一見複雑なものであったが、もっとも根本的な要因となったのは、古来から続いていた古志長尾家と上田長尾家のライバル関係で、越後騒乱の際には、必ずといっていいほどこの問題が影響を及ぼしていた。御館の乱も例外ではなく、両家の対立が景虎と景勝の家督争いに絡んで騒乱を激化させた。
 面白いのは、越後古参の武将が北条家出身の景虎方につき、他国新参の外様衆が越後出身の景勝を推したことである。このねじれ現象は、上杉政権の中で新旧家臣団の対立があったことを示している。かつて上杉謙信を擁立した旧家臣団は、新家臣団の台頭により政権の片隅に追いやられていたが、上杉謙信が後継者と定めた景虎を支え、新家臣団に対して巻き返しを図ろうとした。また、旧家臣団は古志長尾派でもあり、上田長尾家出身の景勝を推すわけにはいかなかったのである。
 上杉謙信死去の報は、周辺諸国にもたちまちのうちに伝わった。この政治的混乱は他国にとっても越後へ勢力を伸ばす最大の好機であり、それぞれの思惑をもって越後へのアプローチを試みたのである。
 小田原の北条氏政は景虎を支援するために出陣の準備をして、甲斐の武田勝頼と会津の芦名盛氏にも出陣を要請した。弟の三郎景虎が越後の当主となれば、これまで関東制圧の上でもっとも邪魔な存在だった上杉家が親類となる上、労せずして越後にも影響を及ぼすことができるまたとないチャンスだった。
 甲斐の武田勝頼にとっても、背後に存在していた上杉家が北条家と通じて同盟関係になれば、長篠合戦で手痛い打撃を受けた織田信長・徳川家康連合軍との戦いに専念できることになる。そのため越後に兵を出すメリットはあった。武田勝頼は北条氏政の依頼に応じ、出陣の準備を始めた。
 かねてから越後奥郡に勢力を伸ばそうと画策していた会津の芦名盛氏は、上杉謙信死去の混乱を狙って越後に兵を進めたが、景勝方に撃退されてしまった。その後、芦名盛氏は北条氏政の要請に応じ、景虎方についた。
 北陸で上杉勢と戦っていた中原の雄、織田信長は、四月二十日、越中の魚津城を守る河田長親に近江の地を与えることを約し、上杉家の混乱に乗じて降誘しようした。もともと近江の武将だった長親であったが、信長に応じることはなく、景勝に臣従を誓ったのであった。

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2009.02.10

御館の乱(3) 謙信時代の上杉景勝

 上杉景勝は魚沼郡上田郷の坂戸城主、長尾政景の次男であった。母は上杉謙信の姉で、法名仙桃院である。弘治元年(一五五五)の卯年生まれであったことから幼名を卯松といった。五歳で上杉謙信の養子となり喜平次顕景と改名したが、幼少のため坂戸城で育った。景勝の兄弟は二男二女であった。嫡男義景は夭折し、長女は上条政繁に嫁ぎ、次女は上杉景虎に嫁いだ。
 上杉謙信在世中の景勝に関する史料を追うと、上田長尾家の当主としての活動が主なものであった。永禄十三年(一五七〇)二月、上杉謙信の関東出陣に従って佐野飯守城を攻略、顕景の名で二通の感状を出した。景勝一六歳のときである。元亀二年(一五七一)二月には武田信玄が駿河に侵入し、北条氏政が上杉謙信に救援を求めた際、上杉謙信は顕景に命じて、上州沼田に出陣させた。やがて武田勢が撤兵したため、顕景も坂戸城に引き揚げた。
 天正三年正月十一日、二一歳のときに景勝と改名し、弾正少弼に任ぜられた。景勝が後継者であったという説については、上杉謙信が弾正少弼の官位を譲り与えたことがその根拠となっている。ところが『新潟県史』は、これに関係する二通の上杉謙信書状が、元和六年(一六二〇)頃の景勝自筆書状と筆跡が同じであるとしている。すなわち、景勝が自己の立場を正当化するため、後年に偽作した可能性がある、ということだ。
 住居に関しても両者の待遇には差があった。景虎は越後入国直後から、上杉謙信が起居する実城の東崖下である二の郭に屋敷を与えられた。だが景勝は、養子となった後も坂戸城に留め置かれ、天正三年に景勝と改名してから、ようやく春日山城三の郭に移ることができた。三の郭は中城とも称され、そこに屋敷を構えた景勝は「御中城様」と呼ばれた。
 このように、景勝は上杉謙信の養子ではあったものの、その待遇は上杉謙信の後継者としてではなく、上田長尾家の当主としてのものであった。幼少の頃は上杉謙信も書状を送るなどしてかわいがっていたものの、景虎が登場してからは突き放された感がある。府中長尾家出身の上杉謙信が越後当主となったとき、上田長尾家は最後まで上杉謙信に抵抗した一族であり、その過去の対立構造が景勝の待遇に影響を与えていたのかもしれない。
 そのような折、景虎の風下に置かれていた景勝の立場を覆す最大のチャンスが上杉謙信の死とともにやってきた。昏睡したままの上杉謙信は遺言できぬまま息を引き取り、政治的な空白状態が春日山城に訪れた。これを逃せば、上杉謙信によってすでに後継者とされていた景虎が当主の座に収まってしまう。過去の府中長尾家と上田長尾家の対立を差し置いたとしても、北条家の血を引く景虎に越後を明け渡してしまうことは、越後出身の景勝にとって我慢ならぬことであったろう。すなわち、景勝の実城占拠は上杉政権の奪取を狙ったクーデターだったのだ。

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2009.02.06

御館の乱(2) 謙信の後継者、上杉景虎

 上杉謙信には実子がなく、景虎・景勝・義春という三人の養子がいた。景虎は相模北条家出身で、越相同盟によって元亀元年(一五七〇)四月に人質として越後に入り、上杉謙信の養子となった。景勝は上杉謙信の重臣だった長尾政景の次男で、永禄七年(一五六四)七月の長尾政景の死後、上杉謙信の養子となった。また、能登畠山家出身の義春は上条上杉家に入り、親類衆として上条政繁を名乗っていた。
 現在までに上杉謙信の後継者について残された文書は発見されていないが、一般には景虎と景勝のいずれかであったと考えられている。だが、さまざまな状況証拠から、上杉謙信はすでに景虎を後継者として定めていたようだ。
 景虎は相模小田原城を本拠とした北条氏康の七男、北条三郎である。諸書には三郎氏秀と記してあることが多いが、三郎と氏秀が別人であることは黒田基樹氏の研究により明らかとなっている。また、甲斐の武田信玄の養子になったという記述が『関八州古戦録』にあるが、これも武田側の史料がないため、確実ではない。
 永禄一二年(一五六九)、甲斐の武田信玄が駿河に侵攻したことで敵対関係となったため、氏康は上杉謙信と越相同盟を締結した。このとき三郎は上杉家の人質となり、元亀元年(一五七〇)四月、上杉謙信とともに越後に入国した。当初は北条氏政の子国増丸が人質の予定であったが、五歳と幼少であったことから三郎に変更された。北条氏政が実子を人質に出すことを惜しんだということもあるが、これまで一度として同盟関係となったことがない上杉家との取次役という大役を果たすことのできる人物が、越後に赴く必要があったのである。
 越後に入った三郎は四月二十五日に上杉謙信の姪と婚姻、同時に上杉謙信の初名を与えられ、上杉景虎を名乗ることになった。上杉謙信の姪は景勝の姉妹であり、これで景勝とは義兄弟の関係になった。
 その後、景虎は上杉謙信に対する北条家の取次役として動いていたことが、元亀元年(一五七〇)八月九日と元亀二年(一五七一)十月三日の景虎書状でわかる。内容はどちらも北条家への援軍を上杉謙信に依頼したもので、宛先は直江景綱や山吉豊守といった上杉謙信譜代の重臣であった。上杉謙信の養子であったにもかかわらず、重臣を介さなければならなかったところに、当時の景虎の微妙な立場が垣間見える。
 元亀二年、景虎の立場を揺るがす事件が北条本家で起きた。景虎の実父北条氏康が十月三日に死去し、跡を継いだ景虎の実兄北条氏政が、十二月に再び武田信玄と同盟を結び、越相同盟を破棄したのだ。上杉謙信は「表裏の仁」と有名だった北条氏政の違約を非常に怒り、ただちに北条家と断交した。養子になったとはいえ、実質的に人質だった景虎は、この断交によって国へ返されるなり、最悪の場合には殺害されても仕方がなかった。
 だが、上杉謙信は景虎を成敗することなく、引き続き上杉謙信の養子として越後にとどまらせたのである。元亀三年閏正月二十四日、景虎が謙信家臣の河田長親に、海鼠腸を贈られたことに対する礼状を発しており、また同年、上野で越年した上杉謙信に景虎が同行していたことなどから、同盟破棄後も上杉家中における景虎の立場に変化はなかったことがうかがえる。
 その後、景虎は上杉謙信の後継者として次第に認められるようになってきた。注目すべき書状が二点ある。年代が確定できないものであるが、三条本成寺宛の書状と、雲門寺宛の新年の祝儀に対する礼状である。三条本成寺には過去に上杉謙信も同様の文書を送っており、替わって書状を発するということは、景虎が上杉謙信の後継者であったことを強く示している。また、越後の三大刹といわれた雲門寺と新年の祝儀をとり交わす関係であったということは、景虎の上杉家中での位置付けが上杉謙信に比する高位であったことを物語っている。
 この他にも、御館の乱に際して上野金山城の由良成繁が景虎の家督継承を祝う書状を景虎家臣の遠山康光に送っていたり、越後一ノ宮である居多神社や上越地方の諸城が景虎方についたことも、景虎が上杉謙信の後継者として認められていた証左といえよう。『北条五代記』は「誰もが家督は三郎殿が継ぐのであろうと考えていた」と記している。
 そして、景虎が後継者であったというもっとも有力な根拠として、景虎には軍役を課せられていなかったことがあげられる。一方、景勝は上杉謙信の甥であったが、他の諸将と同様に軍役を課せられていた。天正三年二月の『上杉家軍役帳』には、「御中城様」としてその筆頭に記されている。

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2009.02.04

御館の乱(1) 謙信の死と乱の勃発

 天正六年(一五七八)三月、関東出陣を控えた越後に衝撃的な事件が起きた。三月九日に当主の上杉謙信が春日山城の厠で倒れ、意識不明が戻らぬまま、三月十三日に死去したのである。死因は景勝の書状に「不慮の虫気」とあり、脳卒中だったと推測される。
 カリスマともいうべき上杉謙信の突然の死に、上杉家臣団は動揺した。昏睡した上杉謙信の意識は息を引き取るまで戻ることなく、当然のことながら事後の指示や遺言はまったく受けることができない状態であった。世継ぎをどうするかで家中は論争となり、三月十四日、重臣柿崎晴家が殺害された。
 謙信の葬儀は三月十五日、かつて上杉謙信が川中島から招いた大乗寺長海を導師として、不穏な空気の中で執り行われた。甲冑を着せた遺骸は甕に納められ、春日山城内の不識院に埋葬されたという。享年四九。法名は不識院殿真光謙信である。
 春日山城内の混乱状態に機先を制して動いたのが、上杉謙信の養子であった上杉景勝だった。上杉謙信の葬儀が終わるや、麾下の上田衆を率いて春日山の実城(本丸)を占拠し、もう一人の養子、上杉景虎の屋敷があった二の郭に弓・鉄炮を撃ち込んだのである。
 焼香の煙も消えぬうちに突発した事変で、春日山城内は戦場となった。実城を占拠した景勝はその事情を弁明するため、三月二十四日、国内の諸将に書状を発した。その内容は、「上杉謙信公が遺言されたのだから実城へ移りなさいと皆が強く言うので、その意見に任せ、春日山の実城に移った」という主旨のものであった。
 だが、前述のように上杉謙信は人事不省で遺言できるような状態になかった。景勝が上杉謙信の後継者であることを主張し、自己の立場を正当化しようとするものであったことは明白である。ではなぜ、景勝はそのような弁明をする必要があったのか。それは、景勝が正統な後継者ではなかったからである。

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2009.02.03

家康の東部戦線(10) 高天神城攻略

 武田勝頼との戦いは有利に推移していたが、天正七年(一五七九)は家康にとって試練となる年だった。織田信長から嫡男信康とその母築山殿が勝頼に内通しているという不審を受けた家康は、信長との関係を重視し、信康を自害させたのであった。家康と信長は表面上同盟関係にあったが、この事件以降、家康は実質的に信長の方面軍司令官的な存在となっていく。
 そのような内憂の中でも、駿遠をめぐる勝頼との戦いは続いていた。四月二十五日、勝頼が高天神の国安に出陣してきたため、家康は馬伏塚へ兵を進めた。ここ数年間続いた父子での出陣はもうない。勝頼は戦わずして兵を撤収すると、家康はこれを追撃するかのように大井川を渡って駿河へ侵入、田中城を攻撃した後、浜松に帰城した。
 九月五日、家康は小田原の北条氏政と盟約し、武田氏を東西から挟撃する情勢を築き上げた。すでに北条・武田両家は関東から駿河にかけて戦端を開いており、二正面作戦を強要されることになった勝頼は、ついに全力をもって遠江へ出兵できない窮地に追い込まれた。
 遠相同盟の効果は早くも現れた。駿河の黄瀬川で北条軍と対峙する勝頼を背後から牽制するため、家康は九月十七日に掛川に出陣、駿河に兵を進め、十九日には武田家の属城である持舟城を陥れたのである。
 もはや勝頼に高天神城救援の余力がないことを確認した家康は、天正八年(一五八〇)になると、高天神城を一挙に攻略するための付城戦略に出た。駿河田中城や遠江小山城を攻めて武田勢を牽制している間に、小笠山・中村・能ケ坂・火ケ峰・獅子ケ鼻・三井山の六箇所に砦を次々と築き、高天神城の周りに深濠を掘削して柵を結び、高天神城を完全に孤立させたのである。
 家康は馬伏塚に本陣を置き、包囲戦の指揮をとった。包囲の状況は家康から安土の織田信長へ報告され、信長は検分のため猪子兵助ら四名を派遣した。事実上の軍監であり、もはや徳川軍が織田軍の一方面軍という扱いであることを象徴する事実であった。
 高天神に籠城していたのは、城将岡部長教をはじめとする軍兵一〇〇〇であった。徳川軍の包囲陣が着工されるや、長教は甲斐へ使者を送り、解囲のための援軍を要請した。
 しかし、武田軍の主力は関東で北条軍と対陣しており、後詰を差し向ける余裕はなく、九月には高天神城を後詰しないと決した。これまで高天神城を維持・補給するために続けられてきた出陣は結局、戦略的に何の意味も持たず、武田軍に大きな負担を強いるばかりだったのである。それを悟った勝頼は遅ればせながら戦略的に正しい判断を下したが、逆に信長による情報戦の好餌となってしまった。すなわち、勝頼は信長の軍勢を恐れ、出陣しないのだと喧伝されたのである。
 甲斐から援軍どころか何の連絡もなく、勝頼から見限られたという空気を察した岡部長教は天正九年(一五八一)一月、矢文で降伏の意向を家康方に伝えた。しかし、家康は降伏を認めなかった。勝頼が高天神城を見捨てた、という事実を効果的に演出するための信長の指示だったという。
 天正二年の攻略以来、武田氏の遠江における最前線基地となっていた高天神城は完全に包囲され、干殺しの形でじりじりと進んでいった。
 城内の兵糧が途絶え、もはやこれまでと見た岡部長教以下の城兵は最期の一戦と覚悟して、二手に分かれて城から打って出た。が、待ち受けていた徳川勢の返り討ちに遭い、ことごとく討死してしまったのである。家康は榊原康政・本多忠勝らに城内への突入を命じ、三月二十二日、高天神城はついに陥落した。
 特に具体的な戦略目的があったわけでもなく、武田勝頼の威厳を誇示するがために攻略された高天神城は、勝頼の威厳を完全に失墜させる形で失われたのであった。
 その効果は絶大だった。高天神城が失われた翌年、天正十年(一五八二)二月、一時は無敵とも恐れられた武田家は信長の侵攻を受け、もろくも一か月で滅亡した。家臣団の大半が高天神城を救おうとしなかった勝頼を見限ったからであった。
 一方、高天神城の攻略により、ようやく遠江を支配下に収めた家康だったが、その間、信長の命により嫡子信康を失い、独立行動権をも失った。家康は信長の同盟者であったが、武田家との戦いの中で両者の実力差は大きく隔絶し、いつしか信長の属将という立場に追いやられていたのであった。武田家滅亡後、家康は信長から駿河を拝領した。家康の心中は、いかばかりのものだったのであろうか。

(初出:学研『歴史群像』No.73 2005年10月号 「徳川家康、東部戦線の死闘」)

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2009.02.02

家康の東部戦線(9) 家康、攻勢に転じる

 この時期における高天神城の脅威は決して大きくなかったが、徳川家康は高天神城に備えるため、去る天正二年八月、小笠原氏の旧城であった馬伏塚城を修築し、大須賀康高を城将として入れていた。
 敵中に突出している高天神城に兵糧を搬入すべく、武田勝頼は遠江へ軍勢を繰り出した。天正四年三月上旬のことである。前年に諏訪原城を失った勝頼はこの出陣の際、新たな遠江進出拠点として相良城を築いた。
 武田軍を阻止するため、家康は嫡子信康とともに八〇〇〇の兵を率いて出陣、横須賀の丸山に陣を張ったが、高天神城兵と山県遺臣衆が対抗して出陣してきたため、兵糧の搬入を許してしまった。
 家康は同年八月、大井川を越えて駿河へ侵入したが、勝頼が出陣してくるという風聞を得たため、兵を引き揚げた。もっとも、天正四年は故信玄の葬儀が行われた年であり、勝頼は自重して大軍を動かすことはなかった。この時点においても、家康は武田勢との直接対決を恐れていたのである。
 天正五年(一五七七)になると、勝頼は再び遠江へ出陣してきた。二万の軍勢を動員した勝頼は八月二十五日、高天神城南方の横須賀に布陣した。西進の気配を示す武田軍に対抗すべく、家康は嫡男信康とともに兵を発して丸山に陣取り、武田勢を撃退して威勢を示した。ついに武田軍将兵の質が大きく低下していた事が発覚し、勝頼は退却を余儀なくされたのであった。
 これ以降、家康は武田軍主力を恐れることがなくなり、逆に勝頼が戦いを避けるようになったのである。十月に入ると、勝頼は再び遠江の小山城に進出したが、家康・信康父子が馬伏塚まで軍勢を進めると、戦わずして甲斐へ引き揚げてしまった。
 天正六年(一五七八)一月、鷹狩のため三河にやってきた信長と岡崎で会見した家康は、この年から積極的な攻勢に転じた。三月七日、浜松城を出馬して掛川城に入り、翌八日、大井川の河畔に陣を移すと、九日には駿河に侵入して田中城を攻撃し、外曲輪を破った。十日には遠江の牧野城に兵を引き揚げ、城を修築。三月十三日には、家康の旗本衆のみが出陣し、小山城を攻撃した。三月十八日、家康は浜松城へ帰還した。
 家康は五月四日にも駿河に侵入して、田中城を攻撃した。七月には横須賀城を築き、高天神城からの唯一の西方進出地点を封じた。以後、この横須賀城が高天神城に対する攻略拠点となるのである。
 家康は八月二十一日にも浜松を出陣して小山城を攻撃し、二十二日には駿河へ乱入して、持舟城まで攻め寄せた。九月四日には牧野城へ兵を戻し、二日後に浜松へ帰城した。
 一連の家康の攻勢に対し、勝頼が出陣することはなかった。その頃、越後で大政変が起こり、勝頼もその渦中に巻き込まれていたからである。天正六年三月に上杉謙信が急死、養子となっていた上杉景虎と上杉景勝との間で謙信の跡目をめぐる争乱が勃発した。いわゆる御館の乱である。北条家と同盟を結んでいた勝頼は、北条家から養子に入った景虎を助けるため、五月二十九日に越後国境まで兵を進めた。
 ところが、景勝の破格の和睦条件を受諾して兵を引いたため、景虎を見殺しにする結果となり、これに憤った氏政は勝頼と断交した。勝頼は上杉家と同盟したが、その代償として徳川氏だけでなく北条氏も敵に回し、二正面作戦を余儀なくされたのである。
 越後から戻った勝頼は十一月、大井川を渡って遠江に進出し、相良に陣を張った。家康父子は三日に馬伏塚城に入り、横須賀城に迫った武田軍を邀撃する態勢を整えた。この徳川勢の動きを見た勝頼は高天神城に軍を引き、十二日には合戦することなく甲斐に帰国した。勝頼の撤収を確認した家康もまた、二十五日に浜松に帰城した。

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2009.02.01

家康の東部戦線(8)  長篠の合戦

 天正三年四月末、武田勝頼は三河長篠城を奪回しようとこれを包囲し、激しい攻撃をかけた。徳川家康は織田信長に救援を要請。信長は今度こそ武田勢を撃破せんものと、設楽原に布陣して巧妙なる馬防陣地を構築し、武田勢を待ちうけた。
 果たして、勝頼は五月十九日に一万五〇〇〇の軍勢を率いて設楽原に進出し、決戦を企図して織田・徳川連合軍三万八〇〇〇に対峙した。
 五月二十一日、勝頼は麾下に突貫を命じたが、織田・徳川連合軍はあらかじめ準備していた大量の鉄砲を駆使して迎撃し、攻め寄せる武田軍を完膚なきまでに撃破した。武田勢は馬場信春・山県昌景・内藤昌豊ら、信玄以来の重臣多数が討死し、勝頼は命からがら甲斐へ落ち延びるという大敗北を喫したのである。
 長篠の合戦後、有利な情勢に転じた家康はこの機を逃さず、遠江で攻勢に出た。武田勢によって奪われた失地を回復しようというのである。
 遠江に戻った家康は五月末、二俣城の攻略に向かい、鳥羽山・毘沙門堂・蜷原・和田島に砦を築き、二俣城を取り囲んだ。
 二俣城を守るのは依田信守・信蕃父子であった。信守は六月下旬に病死したが、信蕃が跡を継ぎ、引き続き二俣城を固く守っていた。天険を利した二俣城は落城の様子を見せなかったため、大久保忠世らに攻城を任せ、家康は浜松に帰陣した。
 家康は六月二日に駿河へ侵入すると、各地に放火して回った。七月には諏訪原城に軍勢を出して強襲したが、城将の室賀昌清と小泉忠季がよく防いだため、なかなか陥落しなかった。
 だが八月二十四日、松平忠次の奮戦により、諏訪原城は陥落した。城を守っていた室賀昌清と小泉忠季は諏訪原城を落ち、小山城へ向かった。家康は忠次を賞して城主とし、牧野城と名を改めた。諏訪原城の攻略により、家康は駿河への侵攻ルートを確保したことになる。
 続いて家康は、大熊長秀が守る小山城を囲んだ。遠江侵攻のため大井川西岸に築かれた橋頭堡であり、ここを奪回すれば、高天神城は孤立する。
 ところが、勝頼が二万の大軍を率いて駿河に出兵してきた。かき集めた兵は一二、三歳を過ぎたばかりの少年や還俗した者などで、長篠のダメージは癒えていなかったが、東海道筋の要衝諏訪原城を失い、さらに小山城まで囲まれたとあっては、出陣しないわけにはいかなかった。
 長篠で打ち破ったとはいえ、一万に満たない徳川勢だけでは形勢の不利は免れなかった。家康は小山城の包囲を解き、牧野城に軍勢を後退させた。
 さて、徳川勢に包囲された二俣城に籠城していた依田信蕃は、危急を甲州に報じたが、長篠のダメージはあまりに大きく、救援の兵を出すことができなかった勝頼は十一月、二俣城を開城して甲斐へ後退せよと命じる書状を送った。信蕃は勝頼の命に従い、攻城軍の大久保忠世に開城を申し出た。報告を受けた家康はそれを認め、信蕃は十二月二十四日に二俣城を明け渡し、甲斐に帰国した。後に信蕃は家康に仕え、甲斐・信濃平定戦で大いに活躍することになる。
 天正四年(一五七六)になると、家康は二年前に攻略できなかった犬居城へ向けて兵を出した。まず樽山城を落として信州からの援路を断った後、犬居城に向けて兵を繰り出すと、守りきれなくなった天野景貫は犬居城を捨て、甲斐へ落ちていった。
 犬居城の奪取により、東遠江における家康の失地は回復し、武田軍の信州方面からの脅威はなくなった。この後、家康にとって最大の課題となったのは、西遠江に残る武田方最大の拠点、高天神城の奪回であった。
 さらに家康は、駿河への本格的侵攻に向けて準備を進めていった。その最大の布石が、今川氏真の招聘だった。家康は駿河旧主という氏真の地位を利用して、駿河侵攻を正当化しようとしたのである。掛川開城の条件だった駿河回復を実現するという名目もあっただろう。
 家康は氏真を駿河国境に近い牧野城に迎え入れると、三月十七日、牧野城主松平家忠に対し、氏真の擁護と丁重な対応を命じた。以後、氏真は徳川氏の客将として武田氏滅亡の頃まで牧野に在城し、「氏真衆」という独自の家臣団まで編成したのである。

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