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2009.02.26

天正壬午の乱(2) 織田家の武田遺領配分


 織田信長の武田領に対する攻撃は、嫡子信忠を大将として天正十年二月に開始され、精強と謳われた武田氏をわずか一か月で滅ぼしてしまった。武田滅亡後、信濃諏訪に着陣した織田信長は、三月二十九日、武田遺領の知行割りを明らかにした。『信長公記』によれば、その内訳は次の通りである。
 川尻秀隆 甲斐国(穴山梅雪知行を除く)・信濃国諏訪郡
 徳川家康 駿河国
 滝川一益 上野国・信濃国小県郡・佐久郡
 森 長可 信濃国高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡
 木曽義昌 信濃国木曽郡・安曇郡・筑摩郡
 毛利秀頼 信濃国伊那郡
 この他、徳川家康に誘われて織田方に離反した武田家の将、穴山梅雪は父祖以来の所領である甲斐国八代・巨摩二郡の領有を許された。信長は甲信に国掟を定めて四月に帰国、武田遺領の統治はそれぞれの武将に任されることとなった。
 別格は駿河を与えられた三河の徳川家康で、信長とはもっとも深い同盟関係にあった。その処遇は独立した大名としてのものであり、他の武将たちとは明らかに一線を画していたが、実質的には信長麾下の大将格とほとんど変わりがなかった。
 対武田戦において、家康は武田親族衆の穴山梅雪を離反させることに成功し、武田家大崩壊のきっかけをつくった。その功績大として、信長は家康に駿河を進呈した。またそれは、一〇年近くに及んだ対武田戦の労苦に報いるものでもあった。
 三河・遠江に加え、駿河を所領とした家康は名実ともに「海道一の弓取り」となったが、西と北は織田領、そして東は北条領と盟邦に囲まれ、これ以上の所領拡大はもはや無理な状況となってしまった。信長に対して恭順の姿勢を貫き通していた家康に、果たしてこの時点においても野心というものがあったのだろうか。
 野心の可能性が感じられるとすれば、信長が甲信の武田家臣をことごとく討ち果たしていったのに対し、家康はその保護に務めたことであろう。家康は強敵だった武田信玄に心酔しており、その遺臣を麾下とすることで家中の充実を図ろうとしていた。発展の可能性が閉ざされた中にもかかわらず、である。
 長島、越前、甲斐と、抵抗勢力に対する信長の処断は苛烈の一途をたどっていた。所領が広がる一方で、松永久秀、別所長治、荒木村重等、信長に反旗を翻す勢力もまた続出した。中国毛利家の外交僧安国寺恵瓊が「信長はいつか大きく躓く」と予言したように、家康もまた信長の将来に危険を感じ、武田家臣を家中に引き入れることで信長後の可能性に備えていたのかもしれない。
 関東にあったもう一つの雄、相模の北条氏政もまた、信長の武田討伐に手を貸した。長年武田家と盟約を保ってきた北条家であったが、天正六年(一五七七)に越後で起きた御館の乱で、武田勝頼が北条氏から養子に入った上杉景虎を見捨て、上杉景勝と同盟したことをきっかけとして、武田家と断交したのであった。以後、両家は上野と駿河をめぐって攻防を繰り広げた。
 北条氏の当主は五代目の氏直となっていたが、実質的には四代目の氏政がいまだ執政権を握っていた。狡猾な氏政は織田・武田両家の戦いが長期化すると踏んだのだろう。初戦の段階で軍勢を動かすことはなかった。ところが、織田勢はこれまでの氏政にとって予想もつかないスピードで武田領へ侵攻していったのである。結果として、北条氏は対武田戦で大きく遅れをとることとなってしまった。
 氏政は信長に不審の目を向けられ、戦後、武田遺領を与えられることはなかった。もちろん氏政には不満だったろうが、落ちぶれたりとはいえ北条家と互角に戦っていた強敵武田家をわずか一か月で滅ぼしてしまった織田氏の実力を目の当たりにしては、信長に対抗することなど考えられなかったのだろう。その後は信長の心証を害さぬように対武田戦の戦勝を祝すなど、氏政の平身低頭ぶりは卑屈とも思えるほどである。

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