御館の乱(8) 武田勝頼の変心
はたして、武田信豊は景勝から提示された破格の条件に驚いた。景勝の打診に利ありと判断した信豊は、ただちに甲府へ使者を出した。武田勝頼はまだ甲府を出馬していなかったが、おそらく信豊からの報を受けた後、六月上旬に越後へ向けて動き出した。
六月七日、勝頼の側近である跡部勝資が、景勝方の将十一人を連署した異例の書状を送っている。景勝から再三、講和打診の回答を催促されたにもかかわらず、勝頼出馬のため返事が遅れたことを詫び、代わりに信豊が口頭で回答する旨を伝えている。
これは武田方も景勝の出した条件に大いに乗り気だったことを示しているとともに、景勝が本気かどうかを確認する意味合いもあったであろう。
信豊から誓詞を求められた景勝は、誓詞をしたためて信豊に送り、謝意を示した。景勝はこれで勝頼との盟約に成功すると踏んだのであろう、六月八日、景勝は景虎方であった上州厩橋城の北条高広・景広父子に帰参を促す書状を送っている。
「武田信豊と高坂弾正のとりなしで武田勝頼がこちらについた。どうしようと当方の指図次第である」と、まるで勝頼が景勝の麾下に入ったかのような、高飛車な内容である。
なお、文中に出てくる高坂弾正昌信はひと月前の五月七日に死去している。武田方重臣の名を出すことで、同盟の事実により重みを出そうとしたのであろうか。また、『甲陽軍鑑』には、勝頼の側近であった跡部勝資・長坂長閑の両名が賄賂を得て、景勝との同盟を斡旋したと記してあるが、実際に両家を取り次いでいたのは武田信豊であったということが、この書状で確認できる。
川中島に到着、海津城に入った勝頼は景勝の誓詞を確認し、同盟の是非について信豊と協議した。六月十二日、信豊は景勝に宛てて書状をしたため、誓詞提出の御礼とあわせて勝頼の海津着陣を報告した。詳細は使者の口上で伝えられた。景勝の条件提示も大胆だったが、勝頼の決断もまた驚くほど速かった。
勝頼と信豊が出した結論は、景勝との同盟締結であった。武田方の判断とすれば、上杉家の主君が景虎になろうと景勝になろうと関係なかった。重要なのは、越後と同盟関係になるということであった。
その視点で冷静に判断すれば、北条家との同盟を維持しつつ、越後とも盟約を結ぶことができる景虎を救援する方がいい。背後を安定させつつ、織田・徳川連合軍との戦いに専念できるからだ。
しかし景勝と同盟すれば、北条氏政との関係が断絶し、織田・徳川連合軍とともに東西から挟撃される可能性が高くなるであろうことは容易に想像がつく。
その判断を狂わせるほど、景勝の提示した条件は勝頼にとって魅力が大きかったということになる。
勝頼は、北条氏政の態度にも疑問を持った。武田家が出兵しているにもかかわらず、開戦から三か月になろうとしている六月になっても北条勢が越後まで出陣していないという事実は、氏政には景虎を救援する気がないのではないか、と勝頼に疑惑を持たせるのに十分であった。
氏政が出陣しないのであれば、いくら盟約のためとはいえ、景虎を支援して春日山城を攻撃しても損害を出すのは武田ばかりである。しかも見返りはまったくない。ならば兵を損ずることなく、この場を収めた方が無難である。「表裏の仁」。そのような北条氏政評もまた、勝頼の判断を狂わせたのかもしれない。
景勝と勝頼の和睦の情報は北条氏政にも伝わったようで、六月十二日、上田に向けて先勢が向かったことを記した起請文を沼田の河田重親に送っている。だが、実際に北条勢が沼田に到着したのは九月になってからだった。
| 固定リンク
「戦国」カテゴリの記事
- 村上義清(2)義清の勢力拡大(2009.11.09)
- 村上義清(1)「信濃惣大将」を拝命した村上氏(2009.11.08)
- 天正壬午の乱(10) ゲリラ戦の展開と乱の終息(2009.10.20)
- 天正壬午の乱(9) 黒駒の合戦(2009.10.19)
- 天正壬午の乱(8) 若神子の対陣(2009.10.19)


コメント