御館の乱(9) 上杉景勝の反撃
和睦の打診に武田方の内諾を得た景勝は、景虎方に対して俄然攻勢に転じた。和睦交渉で動きが止まった武田勢に気取られることなく、全力で春日山城から打って出たのである。
六月十一日および十三日、景勝方は大場にて景虎方と戦い、景虎方の将、上杉景信をはじめ数百人を討ち取った。親類衆のトップで、古志長尾家の当主だった景信を失ったことは、景虎方にとって大きなダメージとなった。
六月十二日には、景勝方となった長尾筑後守・宮崎甚介らが、景虎方だった直峰城の長尾景明を討ち取り、直峰城を奪取した。松之山街道の起点にある直峰城は、春日山城と景勝の本城坂戸城を結ぶ要衝であった。直峰城が景勝方となったことで、坂戸城の連絡が取れるようになった。これでようやく春日山城の孤立状態が解消されたのである。
さらに米山の猿毛城が景勝方と0なった。ここは上杉家重臣柿崎晴家の城であったが、謙信死去の翌日である三月十四日に晴家が死去し、無主の状態となっていた。謙信の死後、景虎を推した晴家は景勝派と論争になり、殺害されたという。それを知った柿崎遺臣は景虎方となり、篠宮出羽守が猿毛城を守っていた。だが六月上旬、景勝方についた上野九兵衛が城兵を説得し、篠宮出羽守を討ち取って、猿毛城を陥れたのである。これは、御館が中越の景虎方に通じるルートを断たれたことを意味する。
直峰・猿毛の両城が景勝方となったことで、今度は景虎が孤立する情況となってしまった。これら城兵が景勝に反応した原因だが、六月八日に景勝が北条父子に送った、武田勝頼との同盟を告げて帰参を促す書状と同様の書状を、景勝が他にも送っていたのであろう。これを確認した城兵が信越国境に集結した武田勢を確認し、しかも十一日の合戦で景勝方優勢と判断して、景勝方についたのだ。
景勝は非常に筆まめであった。御館の乱の間、各地に散らばった自陣営の諸将に毎日のように書状を発し、春日山の状況を報告するとともに各地の作戦を指示している。戦いで武功のあった者には欠かさず感状を発した。敵方にもたびたび書状を送って帰参を促している。いうまでもなく、常に自軍が優勢であることを誇示している。景勝が御館の乱を優勢に導いた、書状による情報戦略であった。
景勝方の戦況逆転は、半信半疑であった武田勝頼の心境にも大きく影響を与えたであろう。武田勝頼は陣を越後に進めながら、景勝と本格的な和睦条件の交渉に入った。六月二十四日、武田家重臣の小山田信茂を使者に立て、上杉家重臣の斉藤朝信と新発田長敦に御礼の書状を送っている。その一方で軍勢を進撃させて春日山城下に迫り、勢力を誇示しつつ交渉を有利に進めようとしている。
また、春日山城下への進撃は、北条氏政に対して景虎支援を履行していることを示す意味もあった。勝頼も北条家を敵に回すデメリットは理解していたようで、内密に景勝との和議を進めようとしていた。だが、景勝は武田との和議が成立したことを板屋光胤に六月二十九日の書状で報告しているように、自軍を有利に転じようと、武田盟約の事実をあちこちにひけらかしていた。このギャップが、結果として武田勝頼を道化役に仕立ててしまった。
六月二十九日、武田勝頼は春日山城下の木田に陣を構えた。ここは景勝・景虎双方を威圧できる要地であった。先陣の大将武田信豊は同日、和平を促す書状を景勝に出している。おそらく景虎にも同様の書状が届けられたことだろう。越後情勢のキャスティングボードを握ったと勘違いした武田勝頼は、景虎と景勝の和平を成立させようと画策した。景勝と同盟を結びつつも、義兄弟でもある御館の景虎を見捨てるわけにもいかず、また北条氏政に対しても申訳が立つ形で乱を終息させようとしたのである。七月二十三日には、景勝家臣の山吉掃部助らに対し、景勝と景虎を和睦させるために出馬したのだという、もっともらしいことを記した書状を送っている。
だが、武田勝頼の斡旋にもかかわらず、景勝と景虎の戦いはすぐに終わらなかった。七月二十八日に再び大場で合戦があり、八月一日には景虎方が春日山城に攻め寄せている。景勝は優勢を報じていたが、現実には一進一退の攻防がまだ続いていたのである。眼前で繰り広げられる戦いに手出しをするわけにもいかず、勝頼はさぞ歯がゆい思いで傍観していたことだろう。
景勝と景虎の和睦が成立したのは八月中旬のことである。和睦の仲介を果たした武田勝頼とその重臣たちには太刀・馬・青銅など御礼の進物が送られた。勝頼は得意の絶頂であったろう。しかし、景勝と景虎がもとより和解できるはずもない。和睦はすぐ破談になり、勝頼はさじを投げた格好で八月二十八日に帰国してしまった。九月十九日に会津の芦名盛氏へ送った書状の中で、勝頼は双方の主張がどうしたら聞き届けられるものか、と嘆いている。
景虎との和睦はならなかったものの、景勝にとって武田勝頼との同盟が成立したことで、信越国境を気にすることなく御館攻撃に専念できることになった。九月一日、景勝は残っているだけで二六通の感状を発している。いずれも籠城をねぎらい、加増を約するもので、書状戦略によってあらためて景勝方についた家臣の人心掌握に努めていたのである。
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