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2009.02.22

天正壬午の乱(1) 武田遺領・甲信争奪戦

 天正十年(一五八二)三月十一日、織田信長の大軍勢に攻められた武田勝頼が甲州田野で自決し、甲斐源氏の名門武田氏は滅亡した。その遺領である甲斐と信濃、そして上野は信長の家臣たちに分配され、信長の盟友たる徳川家康に対しては、長年に亘った対武田戦の労苦をねぎらうべく駿河一国が与えられた。
 武田氏の滅亡により、関東の情勢は一変した。織田勢の勢いは止まることを知らず、もう一つの強敵であった越後の上杉景勝に対してもまた、武田討滅の勢いを駆ってその本国へ攻めこまんとする勢いであった。西国に目を転じれば、信長の家臣羽柴秀吉が、毛利輝元の領する中国地方を順調に制覇していた。さらに信長の三男神戸信孝が、四国の長宗我部元親を討伐すべく、堺で渡海の準備を進めていた。信長の天下一統事業は、武田家滅亡により、実現に向けて大きくはずみをつけていたのであった。
 ところが同年六月二日、信長がその家臣明智光秀に本能寺で討たれ、後継者たる嫡男信忠も父の後を追って死を選んだことにより、すべてが無に帰した。織田領はたちまち乱れ、戦国乱世の状況に逆転したのであった。
 それは武田遺領であった甲斐・信濃も例外でなかった。京の変報は数日のうちに関東へも知れ渡ることとなり、統治者が変わって間もない甲信両国は大きな混乱に陥った。甲斐と信濃はともに無主の地となった。その獲得へ向けて動き出したのが、越後の上杉景勝、関東の北条氏直、そして「海道一の弓取り」徳川家康だった。一般に「天正壬午の乱」と呼ばれる、甲信争奪戦の開始である。
 この戦いは織田・武田両家の統治期間の差を考慮すれば当然なのであるが、織田領というよりも武田遺領をめぐる戦いという性格の方が強い。それはまた、武田遺臣の動向が上杉・北条・徳川という三大勢力の戦略に影響を与えるということを意味していた。さらに、武田信玄によって信州の地を逐われた諸豪族の故地へ回帰せんとする思惑が絡み、情勢をより複雑なものとしていったのである。

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