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2009.03.08

天正壬午の乱(3) 織田家の対上杉戦

 武田家の滅亡後も織田氏の攻勢はとどまるところを知らなかった。その次なる目標は、越後の上杉景勝であった。
 天正六年に上杉謙信が急死した後、景勝は同じく謙信の養子だった上杉景虎と家督を争った。御館の乱である。武田勝頼との同盟に成功した景勝は景虎を滅ぼしたものの、景虎方についた諸将は各地で抵抗を続け、鎮圧にはさらに二年を要した。この内乱で国力は疲弊し、謙信時代を支えていた数々の勇将をも失うことになった。そしてまた、内乱の決着に大きな役割を果たした勝頼との盟約により、北信濃と上野の上杉領をすべて武田氏に割譲し、領国は越後国内に後退した。
 しかも内乱の間、北陸では、上杉家の勢力下にあった加賀・能登を信長の重臣柴田勝家が奪取、さらに越後の隣国越中へと攻め込んできた。天正九年(一五八一)四月には、越中戦線を支えていた謙信以来の重臣、河田長親を病で失った。
 その頃、越後奥郡を任されていた重臣、新発田重家が織田信長に内通した。重家もまた謙信以来の名将であり、御館の乱においては春日山城の守将を務め、武田勝頼との和議交渉をとりもつなど大いに活躍した。景勝は重家に全幅の信頼を置き、人質も取らずに北辺の守りを任せていたのである。
 ところが、乱後の論功行賞に重家は不満だったという。そこへ信長からの誘引があった。重家は景勝を見限り、信長に応じた。重家が挙兵し、景勝に対する敵対を明らかにしたのは天正十年一月のことであった。重家に相応じて、越中の柴田勝家が攻勢に出た。織田方の挟撃により、景勝は苦戦を余儀なくされた。
 天正十年三月、不利な情勢下にもかかわらず、景勝は織田勢の攻勢に瀕した勝頼に対して援兵を送った。景勝と同じく謙信の養子だった上条政繁を大将とした上杉勢は国境近郊の信濃長沼城に進駐し、三月九日頃には埴科郡の海津城近郊にまで兵を進めた。しかし数日後に武田勝頼が田野で自刃、その悲報が伝えられると、上杉勢は長沼へ引き返した。
 武田家の滅亡により、越後に迫った織田勢は越中の柴田勝家だけではなくなった。関東管領の重職を与えられて上野へ入国した滝川一益、川中島四郡を与えられた森長可もまた、越後に接することとなったのである。
 滝川一益に上野が与えられたのは、『信長公記』によれば信長が知行割りを明らかにする以前の三月二十三日のことであった。一益は三月二十五日、甲府に在する織田信忠のもとへ帰参御礼に来た上野の将小幡信貞とともに上野へ向かった。
 信長はまた、上野の武田旧臣に対しても一益に服属するよう命じた。一益の麾下に入った将は『小田原北条記』によれば、上州の内藤大和守(昌月)・小幡上総守(信貞)・和田石見守・由良信濃守(国繁)・長尾但馬守・安中左近、武州の上田安徳斎・木部宮内少輔・高山遠江守・深谷左兵衛尉・成田下総守・倉賀野淡路守、信州の真田昌幸等であった。
 上野に入った一益はまず内藤昌月が城代を務めていた箕輪城に入城した後、北条高広(もと上杉家臣。御館の乱で景虎方につき敗戦後は北条家に依った)から厩橋城の引き渡しを受け、同城に移った。
 川中島四郡を与えられた森長可は、四月五日に海津へ入城した。景勝はこれに対抗すべく、武田方の残党芋川正元を支援して一揆を蜂起させた。一揆勢は大倉古城を拠点として、織田方の将稲葉典道が入った飯山城を囲み、さらに四月七日、上杉勢八〇〇〇が長沼から迫った。長可も海津から兵を発して合戦に及び、追撃戦で一二〇〇余を討ち取ったという。さらに大倉古城を落とし、飯山城の包囲を解いた。
 北には謀叛を起こした新発田重家、東に滝川一益、南には森長可、そして西には柴田勝家が迫り、景勝は織田勢に対し文字通り四面楚歌の状況に陥った。
 森長可の軍勢五〇〇〇が信越国境を越え、越後へ攻め入ったのは五月二十三日のことであった。森勢は関山から越後へ攻め入り、二本木まで進んで放火に及んだのである。滝川一益も森勢に相呼応し、三国峠を越えて越後魚沼郡へ侵入したようであるが、樺沢城の栗林政頼らに撃退された。おそらく物見程度の小規模な出兵だったのだろう。
 越後の本拠春日山城を守っていたのは、上条政繁の兵七〇〇余ばかりであった。圧倒的兵力の織田勢になすすべもない政繁は、景勝に本国の危機を伝えるべく早馬を送った。このとき景勝は、織田勢に囲まれた魚津城を後詰するため、越中へ出陣中だった。しかし、危急の報に接した景勝は魚津城救援を断念、ただちに越中の陣を引き払った。五月二十七日のことである。
 その二日後となる五月二十九日、越中の柴田勝家が後詰のなくなった魚津城に対して総攻撃を開始した。見事なまでの連携である。織田勢が三か国にまたがる広域正面において効果的な連携攻撃を実施し得たのは、信長の指示であったろうことは想像に難くない。魚津城が落城したのは本能寺の変の翌日、六月三日のことであった。

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