天正壬午の乱(4) 本能寺の変と関東織田領の崩壊
上杉家にも第二の武田家となる運命が迫っていた頃、徳川家康は穴山梅雪を伴って安土城を訪れ、所領安堵の御礼に出向いていた。五月二十日、家康は安土城で織田信長の饗応を受けた後に上洛、さらに信長の勧めで堺を遊楽中だった六月二日、本能寺の変が突発した。家康の従者は十数人に過ぎず、外遊の地で思いもせぬ危機に陥った。
その日のうちに変事を知った家康は明智光秀の追手を逃れるべく、ただちに堺を落ちた。一行は伊賀を越え、伊勢路を経て白子より乗船、海路岡崎に帰着した。六月四日のことである。ところが、家康に同行していた穴山梅雪は別行動を取り、一揆に襲われて命を落とす結果となった。家康の暗殺を警戒しての別行動だったともいうが、その警戒がかえって徒花となったことになる。
万難を排して帰国した家康はただちに軍勢を催した。「仇敵明智光秀を討つ」という名目である。上方出陣を決した家康はその一方で、織田領だった甲斐・信濃に対する調略の手を打った。六月五日、家康は岡部正綱に対して書状を発し、下山城へ向かうことを命じた。下山城は甲斐国巨摩郡にあり、穴山梅雪の父祖以来の居城であった。これは梅雪の遭難死で無主となった穴山領の接収が目的だったことに他ならない。
さらに六日、家康は本多忠俊を甲斐に向かわせた。信長の旧将川尻秀隆に上方の変を報じるとともに、相談役として置くためである。信長は生前、「隣国の儀なれば諸事介抱ありたし」と家康に秀隆の後援を依頼していた。家康は遺命となってしまった信長の言葉に従い、忠俊を甲斐へ送ったのであった。
家康が甲斐・信濃両国に対して打った手はこれだけでない。駿河田中城の戦いで降伏し、遠州二俣にて隠棲していた武田旧臣、依田信蕃を彼の本拠たる信州佐久へ向かわせたのである。しかも途中の甲斐では、旧縁の士に対して家康へ帰服するよう勧誘することを命じていた。信長の死で両国が混乱に陥ることを見越しての対応だったことは明白である。
甲信に対する処置を施した家康は軍勢を率いて東海路を西進した。関東の諸将に本能寺の変報が達したのは、家康が出陣した直後のことである。上野の滝川一益に悲報が到達したのは六月七日だったというから、その頃にはすべての将士に周知となったであろう。
本能寺の変による信長の死は、天下一統に向かってつき進んでいた織田家が崩壊し、その指揮中枢が消滅してしまったことを意味していた。織田家臣団の結束は信長の存在あってのものだったから、信長の死後、家臣団のコントロールはまったく不能の状態となってしまった。諸将は各自の判断で急変した情勢を乗り切らなければならなかったのであるが、結論からいえば、それができたのは中国へ出陣していた羽柴秀吉ただ一人であった。備中高松城を包囲していた秀吉は外交能力を発揮して毛利家との和睦を締結、驚異的なスピードで兵を返すと、上方の織田遺臣をまとめ、六月十三日の山崎の合戦で明智光秀を討ち取り、信長の後継者として大きな一歩を踏み出すことになる。
信濃に配された信長遺臣は新たな知行を捨て、本領のある尾張・美濃へ帰国する道を選んだ。魚津城攻略戦に呼応して越後へ兵を進めた川中島の森長可だったが、信長の悲報を受けるや海津城を捨て、飛騨を経由してもとの所領美濃金山へ向かった。毛利秀頼もまた伊那郡を放棄して上洛、信濃は領主不在の地となった。
本領へ帰国しようとしたのは上野の滝川一益も同じであった。一益は麾下の関東諸将を厩橋に集めて信長の死を伝え、伊勢長島へ帰国する意思を告げて人質を返還した。集まった将は実直な一益に感じ入り、かえって結束が堅くなったという。
越中で魚津城を攻略した柴田勝家は本能寺の変報が伝わるや軍勢を反転させ、上洛の途についた。前述したように越後へ侵入した森長可も退散したため、上杉景勝はきわどいところで滅亡の危機を救われたのであった。
危機の去った景勝はただちに軍勢を動かし、謀叛を起こした新発田重家の新発田城を包囲した。まずは国内平定が肝要であったわけであるが、景勝は森長可が去って空白地帯となった川中島へも怠ることなく勢力を伸ばそうとした。景勝の側近、直江兼続が川中島の春日三河守等に本領の安堵状を発給したのが、六月十四日のことである。
景勝は、古くは謙信の時代に越後へ亡命してきた信濃諸将を旧領に回復させることにより、先代以来の約束を景勝が果たすような形で川中島を勢力下に収めていった。村上(山浦)国清・須田満親のように、天文年間に川中島の戦いが始まった頃から越後へ身を寄せていた武将たちの感激はいかばかりのものであっただろうか。同時に、やはり越後に身を寄せていた、かつての信濃守護小笠原長時の弟貞種は、木曽義昌の所領となっていた深志城を奪回、筑摩郡も景勝の勢力下に入った。さらに、信州上田を領する真田昌幸が上杉の麾下に加わったことにより、上杉家の勢力は小県郡まで拡大した。
本能寺の変後、景勝の北信濃進出はきわめてスムーズに進行したが、以後の経営は信濃諸将に任せるしかなかった。新発田重家の謀叛を鎮定し、越後国内の再統一が成らない限り、本格的な国外進出は無理だったからである。
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