天正壬午の乱(6) 家康の甲斐平定
鳴海に在陣していた徳川家康は六月十九日、羽柴秀吉から上方平定の報を受けた。これ以上の進軍は無用と判断した家康は軍を返した。織田家の騒動に巻き込まれるのは得策でないと判断したためである。織田家中で最大の戦功を上げた秀吉であるが、卑賤の出自ゆえ他の武将からは格下に見られていた。その秀吉が主君の仇を討つという大功を果たしたのであるから、論功行賞と織田家の家督をめぐって論争となるのは確実だった。
信長の後継者になるのはいったい誰なのか、この時点ではまったくわからなかった。信長に匹敵する逸材は今のところ見あたらず、時代が乱世へと逆転する可能性は非常に高かった。ならば、できうる限り所領を拡大し、他勢力と互するだけの国力を充実すべきである。これが乱世を生き延びる確実な方法であることを、家康はこれまでの経験から体得していたはずである。
またそうなれば、自分にも天下を狙うチャンスが出てくる。家康が天下というものを意識しはじめたのは、おそらくこの頃からだったのではないか。それまでは信長との同盟維持、武田家との苦戦の連続で、そのようなことを考える余裕もなかったはずである。
六月二十一日、徳川家康は遠州浜松へ帰還した。行程二日、往路に比して圧倒的に疾い帰路である。甲斐が騒乱に陥ったという情報はすでに家康にも届いており、帰国後ただちに甲斐および信濃へ兵を進めることを決意しての帰還であった。
浜松へ帰還した家康は早速、甲斐及び信濃に対してさらなる手を打った。六月二十一日、小池信胤に対して信州表の計策を賞し、恩賞を約する書状を発した。この小池信胤なる人物は甲斐の国衆であった津金衆の一人であり、後述する依田信蕃の小諸進出に協力しての恩賞と思われる。翌二十二日には、大野砦の合戦で勝利した有泉信閑に対して、戦勝を称賛した書状を発した。北条氏が甲斐に調略の手を伸ばし、郡内を押さえられたことから、家康自身の出陣に先立って甲斐国中の統制を確保しておくためのものであった。
家康の甲斐平定に際して重視したのが、武川衆や津金衆といった辺境武士団「国衆」であった。武田家の軍勢は士分の有力武将を寄親とし、その下に同心・被官を寄子として配分した、いわゆる寄親寄子制であった。この一集団が寄親の名を冠した「衆」となり、武田軍を構成していたわけだが、その他に寄親を持たずに構成される「国衆」というものがあった。甲斐の国境警備に当たっていた辺境武士団で、血縁的な結びつきが強く、一揆・党などとも呼ばれた。当然のことながら地元の地理に明るく、甲斐国境付近を舞台とした天正壬午の乱では武川衆と津金衆が徳川方の先兵として大きな役割を果たすことになる。
小池信胤が属していた津金衆は、常陸からやってきた佐竹氏の末流と伝えられている。在地名をとって津金氏を称し、逸見地域(須玉川周辺)から信州佐久郡にかけて発展した。武田信玄も甲斐源氏の末流たる津金衆には一目置き、寄親寄子制を適用せずに従来の党的結合を許していたため、強大な勢力を保っていたという。
津金衆の中心的人物は津金胤久・小池信胤・小尾祐光等である。小池氏は津金氏の分流だが、小尾氏は塩川上流域に栄えた一族で、武田庶流と伝えられる。『甲陽軍鑑』でも津金党と小尾党に分けられている等、出自を遡れば津金衆とは別個の一党である。ただ地域的な交流が深く、胤久と祐光が兄弟であったように戦国末期には血縁的にも結ばれていたため、津金衆として語られることが多い。
武川衆は武田氏の支族一条氏の流れを汲む、武川筋の辺境武士団であった。かの馬場信春を輩出した精鋭の一族で、武川十二騎と称賛された。川尻秀隆襲撃の際にはその先頭に立ったとも言う。余談だが、徳川第五代将軍綱吉の側用人として著名な柳沢吉保は、この武川衆出身であった。
頭目的立場に立っていたのは米倉忠継と折井次昌だったが、米倉氏は天正壬午の乱まで別の一党だったという。二人は武田家滅亡の際に徳川家に降り、遠江に匿われた。本能寺の変後、二人は無主になった甲斐に家康の命を受けて入り、ただちに武川衆を糾合して徳川氏に従ったのであった。
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