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2009.10.15

天正壬午の乱(5) 甲斐騒乱

 上方へと出陣した徳川家康は六月十四日、ようやく尾張の鳴海まで進んだ。前日に山崎で合戦があり、明智光秀が羽柴秀吉に敗れたとの報を得た家康は鳴海で軍勢を停止、上方の情報収集に務めた。これまでの対応に比べ、家康の進撃はあまりに遅い。織田家の内戦に巻き込まれたくない、というのが家康の本心だったのではないか。
 この六月十四日という日は、甲斐でも大きな異変が起きた日であった。家康の真意を疑った川尻秀隆が、家康が派遣した本多忠俊を討ち果たしてしまったのである。十四日の夜のことであった。この椿事に大きく刺激されたのが甲斐の国人衆であった。彼らは一揆を起こすと、翌十五日に甲斐を落ちようとした秀隆を今窪で捕らえ、殺害してしまったのである。かくして甲斐は無主の騒乱に陥った。
 この混乱に乗じて甲斐を征圧すべく、北条家が動き出した。六月十五日、北条氏政は郡内の渡辺庄左衛門に対し、武田旧臣を集めて郡内を制圧するよう命じた。また、北条家に通じてきた東郡の土豪大村三右衛門の手引きによって軍勢を入れ、甲斐を乗っ取らんと企てた。北条勢は雁坂口及び恵林寺口から鉢形城主北条氏邦の軍勢七〇〇〇、郡内口から甘縄城主北条氏勝率いる八〇〇〇余が侵攻するつもりだったという。
 北条方の郡内制圧は成功した。領国が隣接しており、古くから親交のあったことがそれを容易にしたのだろう。ところが、北条氏邦は北条氏直に従って上野に侵攻したため、甲斐への進出が遅れた。北条家の援軍を得ることができなかった大村三右衛門は徳川方の穴山遺臣有泉信閑・穂坂常陸介等と大野で合戦に及び、敗れて討ち取られた(大野砦の合戦)。『甲斐国志』によれば六月十七~十八日頃のことという。
 家康が上方出陣に先立ち、家臣の岡部正綱を穴山梅雪の遺領に送り込んで平定したことは前述した。武田氏と血縁関係にあった梅雪が異郷で遭難死したことは、結果として家康には都合がよかった。武田家を崩壊させた梅雪の内応変節、伊賀越えの際の家康に対する警戒等を思い起こしたとき、梅雪がもし甲斐へ無事帰国していたならば、混乱に乗じて武田家再興を図ることも考えられただろう。だが、梅雪の死を理由として穴山遺臣を難なく麾下に収めることができたことで、家康は甲斐進出の足場を築くことに成功したのであった。
 また、武田遺臣だった依田信蕃には甲斐及び信濃に在する武田遺臣を降誘することが命じられていた。甲斐に入った信蕃が柏坂で鐘の旗を掲げたとき、そこに三〇〇〇の兵が集まったという。大野での勝利は、家康の調略の成果だったといえよう。
 もっとも、北条氏にとって重要だったのは、実のところ甲斐よりも上野だった。対武田戦に加わったものの、初動の出遅れから信長の不興を買い、上野領を召し上げられて滝川一益に与えられた。さらに一益が関東管領に任命されたことは、関東の雄を自負する北条氏にとって屈辱以外の何物でもなかった。
 信長の天下がほぼ定まり、いったんは勢力拡大の可能性がなくなった北条家であったが、本能寺の変とともにその制約が解かれたことで、再び関東の覇者となるべく動き出した。まずは上野を攻略して関東の勢力を回復し、可能ならば甲斐・信濃も制しようというのが北条家の戦略だった。全体的な戦略指揮と調略はおもに氏政が行い、軍勢の作戦指揮は氏直が執った。
 六月十六日、北条勢は五万五〇〇〇の大軍で上野に侵攻し、十八日に金窪で滝川一益の軍勢一万八〇〇〇と合戦に及んだ。神流川の合戦である。緒戦は士気に優る滝川勢が圧したという。だが翌十九日、北条勢は神流川で滝川勢を散々に討ち破った。この戦いで北条方が挙げた首級は三七〇〇であったという。敗れた滝川一益は戦場を逃れて箕輪城へ戻った後、信濃路を経由して伊勢長島へ引き揚げた。合戦後、北条氏直は各地に朱印状を発し、上野を支配することとなった。

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