戦国

2009.11.09

村上義清(2)義清の勢力拡大

 村上義清は文亀元年(一五〇一)三月十一日、村上顕国の子として葛尾城に生まれた。初陣は永正十六年(一五一九)だったという。翌十七年(一五二〇)に父顕国が病没し、義清が村上家当主となった。顕国の死と義清の家督相続は大永六年(一五二六)ともいう。
 義清が当主となった頃、村上氏の勢力範囲は更級郡、更埴郡を中心に水内郡、高井郡、小県郡にまで及んでおり、所領を接していた高井郡の高梨政頼、小県郡の海野棟綱などと係争中であった。天文十年(一五四一)五月、義清は甲斐の武田信虎、諏訪の諏訪頼重と同調し、小県郡を支配していた海野棟綱を攻めた。棟綱は関東管領上杉憲政を頼って上野へ逃れたが、その後回復することができず、海野氏は滅亡した。
 海野氏を駆逐して甲斐に凱旋した武田信虎であったが、盟将今川義元の駿府へと出向いた天文十年六月十四日、嫡男晴信を首謀とした政変が甲斐で勃発し、信虎は駿河へ追放された。
 家督を強奪した武田晴信は天文十一年(一五四二)七月、突如諏訪郡に侵攻し、盟約を結んでいた諏訪頼重を捕らえ、自刃に追い込んだのを皮切りに、毎年のように伊那郡、小県郡、佐久郡などへ出陣し、信濃各地に勢力を拡大していった。村上義清も小県郡海野平から佐久郡春日あたりまで勢力を伸ばしていたが、武田氏の爆発的伸張に比べれば微々たるものであった。
 天文一六年(一五四七)、佐久郡に出陣した晴信は志賀城を陥落させると、笠原清繁を討ち取り、生け捕った城兵や女子供をことごとく売り払った。これまでにない過酷な処置をとった武田晴信の悪名は信濃じゅうに広まり、その脅威に直面した信濃国人にとって、降伏か滅亡か、という選択を余儀なくされることになったのである。
 晴信の佐久郡および小県郡への侵攻が本格的なものとなり、自身も武田勢に直面する事態になると、義清にとってもこれを座視する訳にいかなくなった。ここに至り、義清のとるべき戦略は、戦国大名的な領土拡張戦から、信濃にとっての新たな侵略者となった武田氏に対する信濃防衛戦に転化した。
 義清を立ち上がらせるきっかけとなったのは、自領に武田氏の脅威が及んできただけでなく、「信濃惣大将」という、代々村上氏が信濃国人衆の筆頭であると自負してきた、反骨心旺盛な地位にあったと考えられる。弱体化したりとはいえ、義清の代にも存続していた足利幕府の初代将軍であった尊氏から村上氏に与えられた「信濃惣大将」という特別な地位は、村上氏が信濃国人衆の筆頭を占める上で重要な権威となっていただろうことは想像に難くない。
 むしろ「信濃惣大将」の権威が有効たり得なければ、当時坂城の一国人に過ぎなかった義清があれだけの勢力を糾合し得なかったのではないか。一般には足利幕府の形骸化=権威の形骸化という風に認識されているが、戦国時代においても権威は支配力を行使する上で重要な要素であり、それが有名無実となるか否かはひとえに当事者の実力次第であった。一方で、戦国時代がいくら実力の時代であったといっても、権威無き者に兵が集まらなかったのも事実である。

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2009.11.08

村上義清(1)「信濃惣大将」を拝命した村上氏

 信濃村上氏は、更級郡村上郷に配流された源為国が、その地名から村上を称したのが発祥といわれている。村上氏は源平の戦いや南北朝の戦いで武功を残し、建武二年(一三三五)、村上信貞が足利尊氏から「信濃惣大将」の称号を得ると、村上氏は信濃守護にも匹敵する権勢を誇るようになった。
「信濃惣大将」とは、信濃平定を任せた村上信貞に足利尊氏が独断で与えた臨時的な称号であり、正式な官職ではないため、南北朝の戦いが一段落するとこの称号は姿を消す。しかし、室町幕府初代将軍足利尊氏から与えられた称号であったから、その後も村上氏が信濃国人衆を統合する上で大きな影響力を持つこととなった。
 足利幕府の成立後も、関東では上杉禅秀の乱や結城合戦などといった大規模な合戦がたびたび起きており、特に信濃では「信濃惣大将」の称号を得た村上氏と信濃守護家との抗争が長く続いた。守護に匹敵する活躍を示しながら、それに補任されることのなかった村上氏の不満が、幕府から派遣されてきた信濃守護家に対する反乱として噴出したのである。
 その最たるものは応永七年(一四〇〇)の大塔合戦であった。守護集権体制を強化しようとした小笠原長秀に、村上信貞の孫満信が反発し、反守護派の信濃国人衆の中心となって挙兵した。長秀も守護派の国人衆を結集し、両派は大塔(現長野市篠ノ井)で合戦に及んだ。戦いは反守護派の勝利に終わり、長秀は信濃から京都に敗走した。
 信濃守護家に対する村上氏の反抗はその後も続いたが、小笠原政康による守護支配体制の強化に伴い、村上氏は信濃守護に従う国人衆の一人として確認しうるところまで衰退を余儀なくされた。
 ところが政康没後、家督相続の混乱から、小笠原守護家は府中小笠原家と松尾小笠原家に分裂した。小笠原守護家が内訌を繰り返す間、村上氏は再び勢力を盛り返し、北信濃で支配力を強化していった。信濃は南北朝時代から続いた戦乱の影響を引きずったまま戦国乱世に突入し、村上義清の時代を迎えることになる。

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2009.10.20

天正壬午の乱(10) ゲリラ戦の展開と乱の終息

 黒駒合戦後も両軍の対陣は続いたが、徳川家康は八月二十日に古府中へ戻った。黒駒の合戦で功のあった将士を賞するためである。その翌日、家康は甲斐及び信濃の武田遺臣から起請文を取り、徳川家に対する臣従を確認した。その数は通説で八九五名(『大日本史料』)、安堵状を元にした土橋治重氏の調査では一二〇〇名にのぼったという。家康はこの起請文をもって武田遺臣を完全に麾下に収めたことになる。
 八月二十二日には飯田城の下条頼氏に書状を発し、木曽郡の木曽義昌に協力して伊那口を固めるよう指示している。北条方に通じていた木曽氏がここに至って徳川方に転じたのである。時期的に見て、黒駒合戦の影響があったことはほぼ間違いない。
 若神子方面では、北条氏直が刈田の拠点とするため、前線の大豆生田に砦を築いた。敵方の農作物を刈り取る刈田は対陣の常套手段だが、北条勢の場合は自軍の兵糧補充の意味もあったようである。
 連日の刈田に業を煮やした家康は大須賀康高に内偵を命じて砦の動静を探り、八月二十八日、自ら出陣して砦を攻撃することにした。刈田に出てきた北条勢を急襲し、逃げる敵兵に追い討ちをかけた。砦にいた北条兵は弓・鉄炮をもって応戦したが、徳川勢はこれをものともせず砦に討ち入った。大須賀康高麾下の久世広宣が先陣きって突入し、活躍した旨が諸書に見える。徳川勢は北条勢を駆逐して砦を奪取したが、確保することなくそのまま引き揚げたようだ。
 若神子に布陣した北条勢の補給路は甲斐を大きく迂回するため、諏訪を経由して佐久に至り、上野に通じる長大なルートだった。長期の対陣になればなるほど、北条方の負担は大きくなったはずである。
 氏直の軍勢は、上野からそのまま信濃へ侵攻し、さらには甲斐国境まで進んだ。本能寺の変後すぐの出撃であり、十分な輜重を整えていなかったに違いない。それでも、圧倒的兵力によって織田勢を駆逐し、さらには短期決戦で徳川勢をも撃破できるという自信が氏直にあったからこそ、長躯進撃してきたわけである。だがその思惑は黒駒合戦の敗北で崩れ、長期対陣の態勢となりつつあった。こうなると、大軍の補給は大きなネックとなってくる。
 数の上で劣勢な家康はこの弱点を衝くべく、氏直主力との合戦を避け、敵を攪乱しようという作戦に出た。家康にとって好都合なことに、対陣した地域は、徳川方についた津金衆のホームグラウンドである現在の須玉町周辺だった。津金衆を先頭とした徳川勢は、地の利を最大限に生かし、江草小屋(獅子吼城)や小尾小屋等、同地域に築かれた北条方の陣地に対してゲリラ的な攻撃を繰り返すことになる。
 八月下旬~九月上旬にかけて、津金衆の津金胤久・小尾祐光・同正秀・跡部久次等が、徳川家臣服部半蔵とともに、北条方の拠点となっていた江草小屋を夜襲してこれを奪取した。北条方は三〇〇〇の兵をもって奪回の挙に出たが、津金衆は伏兵となってこれを迎え撃ち、四七八名を討ち取ったという。
 徳川方の優勢が続いたことで、小県郡にあった真田昌幸が北条方を離れ、徳川方に変心した。弟加津野信昌、旧友依田信蕃の説得によるものであった。『依田記』によれば、真田昌幸を引き入れることに成功すれば後はどうにでもなると、信蕃は二度にわたって使者を出し、三度目には昌幸自身が佐久郡芦田にいた信蕃のもとへ訪れ、面談の末、昌幸は家康に臣属することを決意したという。家康から昌幸に安堵状が発せられたのは九月二十八日のことであった。この真田離反は、北条氏にとって致命的であった。氏直本軍の本国との連絡線が断たれることになったからである。
 九月二十九日、御岳衆が北条方の拠点となっていた小尾小屋を攻略、徳川方が佐久方面の制圧に成功した。十月二十日には、津金衆の小池貞胤が武川衆や徳川援兵三〇〇〇とともに釜無小屋を落とし、首級一一〇〇を挙げた。釜無小屋の具体的な位置は特定できていないが、呼称から釜無川沿いにあったものと推定される。佐久方面に続き、諏訪方面でも北条氏は劣勢に立たされることになった。
 事ここに至り、小田原の北条氏政は家康との和睦を決意した。甲信両国から届く報は自軍にとって不利なものばかりであり、これ以上の対陣は無意味であった。戦略的には徳川方が有利であったが、幸い、氏直の本隊はまだ敗北を蒙っておらず、数的優勢は依然確保していた。圧倒的兵力差は家康にとって決して気を抜けるものではなく、長期の対陣は双方にとって重荷となった。また、上方では羽柴秀吉と柴田勝家の対立が深刻化し、その影響が家康にも及びつつあった。
 北条氏にとって重要なのは上野の確保であり、甲信両国に対してはあわよくば、という程度のものでしかなかった。なぜなら、北条家としての代々の基本戦略はあくまでも関東の制覇であったからだ。上野攻略はその基本戦略にのっとった行動だったのに対し、甲斐と信濃はその戦略の枠外だった。一方、家康にとって甲信両国の確保は以後も続くであろう戦乱を乗り切るため、絶対に必要であると考えていた。ここで両者の利害は一致を見た。家康と氏政は十月二十七日、甲斐・信濃を徳川領、上野を北条領とすることを相互に確認、二十八日、諸大名に対して講和成立の使者を送ることに合意すると、二十九日には人質を交換して両軍とも撤退を開始した。
 講和条件の主たる領土交換条件は、この戦いで北条氏が確保した信濃佐久・諏訪両郡および甲斐郡内を徳川氏に譲渡し、かわりに上州沼田(徳川方についた真田昌幸の所領だった)を北条領とする、というものだった。関東の雄を自認する北条氏にとって、佐久・諏訪・郡内よりも沼田の方がずっと重要だったことが、これでもわかる。
 北条勢の撤退後、家康は信州平定の戦いを続け、上杉領となった川中島四郡を除く地域を麾下ないしは与力とした。その後、北条家との和睦に関する沼田城の扱いがもとで真田昌幸とは永遠の敵対関係になるが、それは本稿とはまた別の話である。
 天正壬午の乱は激変した上方情勢の裏で目立つことはなかったが、関東における家康の主導権を確定的なものとした、極めて大きな意味を持つ戦いだった。家康の所領は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国となった。これはまさに織田信長と互角の戦いを演じたかつての敵、武田信玄の版図にほぼ匹敵する。後に家康が軍事面のみならず政治面でも羽柴秀吉と互角の駆け引きに持ち込むことができたのは、家康が信玄の版図を引き継ぐことを目指し、それを実現したからに他ならない。
 合戦で名を挙げ、それまでどちらかといえば武辺者だった家康はこの戦いにおいて、調略という手を駆使することによって「戦わずして勝つ」ことを学んだ。それもまた、信玄が得意としたものであった。家康は甲斐と家臣団といった目に見える信玄の遺産だけでなく、その戦い方までも引き継いだ。まさに、家康が信玄の化身となった瞬間であった。以後、家康は調略を駆使することにより、天下への道を駆け上っていくことになる。
 なお、甲信調略で大功のあった依田信蕃は天正十一年(一五八三)二月、岩尾城を攻撃中に鉄炮で撃たれて戦死した。そして岡部正綱は、同じく十一年の冬に急死した。過度の飲酒が原因だったという。彼らの歴史的役割は、家康に信玄の遺産を引き渡すというものだったのかもしれない。

【参考文献】須玉町教育委員会編「須玉町史」/山路愛山「徳川家康」(岩波文庫)/萩原龍夫「北条資料集」(新人物往来社)/大久保彦左衛門「三河物語」(教育社)/江西逸志子「小田原北条記」(教育社)/太田牛一「信長公記」(角川文庫)/小林計一郎「武田・上杉軍記」(新人物往来社)/池田嘉一「史伝上杉謙信」(中村書店)/米山一政編「真田家文書」/上田市立博物館編「真田氏史料集」/高柳光壽「本能寺の変」(学習研究社)/平山優「川中島の戦い」(学習研究社)

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2009.10.19

天正壬午の乱(9) 黒駒の合戦

 甲斐を囲んだ北条氏は、若神子に北条氏直の主力四万三〇〇〇、郡内に北条氏忠の軍勢一万、雁坂口には北条氏邦麾下の秩父勢があった(氏邦は諏訪大社神長官守矢信真に対して甲斐平定を告げる書状を八月九日に発していることから、参謀格として上野侵攻より氏直に同行していたようである)。
 この他、佐久前山城の伴野刑部少輔、小県郡の真田昌幸、諏訪高島城の諏訪頼忠、高遠城の保科正直等が北条方についた。このうち伴野氏と諏訪氏は佐久の春日小屋に籠った依田信蕃に対し、真田昌幸は川中島で上杉景勝に対抗していた。保科正直は武田氏滅亡時に飯田城を守り、落城後は諏訪郡に隠遁していたが、乱の勃発を知り、旧臣を集めて高遠城を乗っ取ったという(『高遠記集成』)。高遠入城後は、上野侵攻時に北条方となった弟の内藤昌月と共に伊那郡の平定に乗り出した模様である。
 甲斐では氏直の若神子着陣に呼応しての攻撃が相次いだ。徳川勢に対しいわゆる外線の包囲態勢をとった北条勢としては、若神子からの主攻と郡内からの助攻による挟撃、雁坂口からの牽制と、各方面の連係が重要であった。基本的に北条氏政以降の北条勢は優勢な兵力をあてにして、無理な戦いを仕掛けることはしない。このときも北条氏はその戦理に従って戦おうとしていた。
 八月九日、武蔵の風間孫左衛門が二〇〇余騎を率いて雁坂口より侵入し、松平清宗・内藤信成が守る大野砦を夜襲した。徳川方は番兵三〇人程が討たれ、残兵も砦に追い込められた。そこへ徳川方の武田遺臣三枝虎吉が救援に駆けつけ、勝沼で風間勢を捕捉、風間孫左衛門の女婿三澤勘四郎の首級を得、その他二三名を討ち取ったという。
 これは徳川家康が新府に本陣を移す直前の攻撃であったが、動じることなく家臣に対応を一任している。このような信頼があったからこそ、家康は背後に敵を受けながらも本陣を敵前まで進めることができたのだといえよう。
 続いて八月十二日には、郡内を制した北条氏忠・氏光・氏勝の軍勢一万が御坂城より出陣、古府中に向けて進撃した。御坂城は御坂峠に本丸を置き、御坂山稜に沿って縄張された山城であった。北条勢はここを拠点として古府中の徳川勢に備えていたのである。
 北条勢は鎌倉往還を下り、東郡の黒駒に入ると広く分散し、民家で剥奪に及んだという。氏光の軍勢は釜無川の川端にまで繰り出して徳川兵二~三〇人を討ち取り、市川近郊にまで進んだようだ。
 古府中を守っていた徳川方の将、鳥居元忠・松平清宗・水野勝成・三宅康貞は北条勢の甲斐侵攻を確認すると、二〇〇〇の兵を率いて出陣した。三河以来の精鋭である。剥奪に及んでいた北条勢は四方に分散していたため、徳川勢を防戦することができずに潰乱、御坂城に向けて敗走した。徳川勢は敗走する北条勢を追撃し、黒駒で捕捉、首級三〇〇を挙げた。
 御坂山に続く山道は三人も並ぶことができないほど狭く険しい難所であったため、北条勢の先陣は引き返すことができず、後陣から討たれていったという。『小田原北条記』に見える記述だが、筆者の実踏によれば黒駒から御坂に続く道はたしかに狭く険しい。馬ならば一騎通るのがやっとである。このような場所で戦うことになれば、兵力の多寡は相殺されてしまっただろう。あるいは、合戦となるまでに北条勢の全軍が山を下りきれなかった可能性も考えられる。
 さて、徳川勢が得た首級は新府城の家康に送られた。家康は首級を城外に曝した。このとき若神子に布陣していた氏直勢は自軍の敗北を知らなかったが、曝された首の中に知人親類を見つけて驚き悲しむとともに、郡内勢の敗北を知ることになったのである。
 黒駒合戦の影響は両軍に大きな影響を与えた。徳川勢は北条の大軍を相手にしても充分戦い抜ける自信を持ち、逆に北条勢は寡をもって衆を制する徳川の精鋭を畏れることになった。以後、黒駒の合戦に敗北した郡内の北条勢は御坂城に籠って攻勢に出ることはなく、北条勢の甲斐挟撃作戦は失敗に終わったのであった。

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天正壬午の乱(8) 若神子の対陣

 北条氏直は小諸城に重臣の大道寺政繁を置くと、諏訪氏と合流すべく信濃路を南下した。四万三〇〇〇の北条勢は芦田から役の行者を経て大門峠を越え、八月一日、柏原に着陣した。
 氏直の信濃侵攻は、精強と信じられていた織田勢を上野から撃退し、坂東武者としての面目を挽回した後の侵攻であった。圧倒的な兵力で佐久郡を奪取するや、その勢いを見た真田昌幸と諏訪頼忠、さらには木曽義昌が北条に誼を通じてきた。かくして信濃中央部を制した氏直は、郡内の北条氏忠勢一万とともに、甲斐に陣していた徳川家康を囲い込むことに成功したのである。
 このとき氏直は、徳川勢が一万程度であるという情報を得ていた。自軍は郡内の友軍と合わせて五万強、これで南北から挟撃すれば、神流川の滝川勢同様、いとも容易に撃破できると考えていた。情勢は明らかに北条方に有利な状況で進行し、北条勢の中に楽観的な空気が流れていた。
 八月一日、氏直の軍勢が佐久往還から若神子に向かうとの報を得た酒井忠次は、いったん高島城の囲みを解いて白須まで軍を返した。ところが八月三日、北条勢が柏原に着陣したことを確認すると、これに対するため、乙骨(乙事)まで戻った。徳川勢は三〇〇〇にすぎなかったが、忠次は北条勢が四万三〇〇〇の大軍であるという情報を得ていなかったのだ。
 一方、徳川勢が山向こうにいるという報を受けた氏直は、徳川勢を捕捉撃滅する好機と見て、全軍の出陣を命じようとした。ところが、氏政に付けられた家老衆は「御坂口の北条氏光、秩父口の北条氏邦に呼応して攻め、一挙に敵を葬るべきである」と氏直を諫めた。これを聞いた氏直はこの好機を逃す道理はないと立腹したが、家老衆はどうしても出陣を認めず、結局徳川勢を取り逃がしてしまった。『北条記』に見えるエピソードである。血気にはやる若き氏直、その突出を押さえようとする頑迷な老臣たちという構図であるが、記事の真偽はともかく、これはまさに、当時の北条家が抱えていた問題そのものであった。
 酒井忠次は北条勢が一〇倍以上の大軍であることを知ると、捕捉される前に乙骨から退却した。殿軍は岡部政綱、二の手が穴山衆、三の手が大久保忠世、四の手が本多康孝、五の手が石川康通、六の手が大須賀康高であった。徳川勢の撤退を知った北条勢はこれを追尾したが、戦に長じた徳川勢が鉄炮を駆使して巧みな撤退戦を繰り広げたため、途中で捕捉することができなかった。この時の様子を大久保彦左衛門は『三河物語』で誇らしげに語る。四万三〇〇〇の軍勢にわずか三〇〇〇の兵が追撃され、一人の戦死者も出なかったということは今も昔も聞いたことがない、と。
 この追撃戦の失敗は、北条方にとって最初のミステイクとなった。もしここで徳川勢を捕捉撃破していれば、その捷報は甲信情勢を一転させるだけの可能性があったからである。
 甲州の士が家康を見込んでいたのは、徳川勢が精鋭であると信じてのものだった。彼らは信玄の代から徳川勢の手強さを知っていた。だからこその与力であった。だが、その徳川勢が北条勢に敗れることがあったならば、甲斐における家康の信頼は一挙に瓦解したはずである。しかも乙骨の徳川勢は、主力といってもよい酒井忠次の軍勢だった。これが敗れることになれば、それは決定的だった。ただちに攻勢をかけるべきであると主張したことが事実であったならば、氏直の判断は正しかったことになる。
 徳川勢を取り逃がした北条勢は、徳川勢が新府に入城したことを確認すると、追撃を打ち切り、若神子城に布陣した。八月六日のことである。若神子は甲斐源氏発祥の地であり、かつて武田信玄が領国内に張り巡らした烽火網の中心地であり、棒道の出発点であった。まさに甲信経営の要衝を押さえたことになるのだが、事は思惑通りに運ばなかった。若神子はまた、徳川方についた津金衆の本拠地でもあったからだ。氏直は敵地の真っ只中に本陣を置いたことになる。
 北条勢の若神子着陣を知った家康は八月八日、古府中を出て新府城に入るや、五~六〇〇の兵を率いて自ら物見に出た。積極的な家康の行動である。八月十日には古府中に鳥居元忠・松平清宗・水野勝成・三宅康貞を置いて郡内及び秩父口の北条勢に備え、家康自身は新府城に入り、ここを本陣とした。「若神子対陣」の始まりである。
 家康が本陣とした新府城は、滅亡直前の武田勝頼が新たな本拠とすべく天正九年に築いた城であった。真田昌幸が縄張した要害であったが、勝頼は戦うことなくこの城を棄てた。だが家康は諏訪方面からの攻勢に対する甲斐防御の拠点として新府城の価値を認め、ここを本陣とした。新府城に陣した徳川勢の兵力は八〇〇〇であったという。北条勢は五倍強の優勢にあったが、家康は優勢な北条勢を相手に、新府城の真価を発揮させることになった。
 八月十一日、徳川方は塩川の対岸に「新城」を築き、北条勢の進撃に備えた。氏直が「古府中を抜け、郡内に引き揚げる」、と語ったという内容を北条方の捕虜から得たためであった。氏直は新府の徳川勢を蹂躙して古府中へ入り、郡内を経て帰国するつもりだったのである。
 翌十二日、家康は伊那郡の飯田城で北条方の軍勢に囲まれていた下条頼安に書状を送り、自らの新府出陣を告げるとともに飯田救援を約束、北条勢が進んでくれば一兵残らず討ち取るという自信の程を示している。対陣する北条方も同日、氏直の家臣高城胤信が、若神子着陣の報告と圧倒的兵力差により勝利は眼前である旨を伝える書状を発している。この宛先は不明であるが、書状の内容から諏訪大社神長官守矢信真に対してのものと推定されている。両軍とも自軍の優勢を伝え、結束を図っていた。

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2009.10.17

天正壬午の乱(7) 北条氏直の信濃侵攻

 信濃では、家康に派遣された依田信蕃が佐久郡の要衝たる小諸へ入城した。『依田記』によれば、それは六月二十日頃のことという。佐久は信州に対する上野からの入口にあたり、北条氏の信濃進出に先手を打ったことになる。
 信濃もまた、甲斐とともに無主の状態に陥っていた。織田信長は森長可・毛利秀頼・滝川一益に信州を分与したことは前述したが、同時に信州の土豪たちも所領を安堵されていた。木曽郡福島の木曽義昌、伊那郡松尾の小笠原信嶺、佐久郡前山の伴野刑部少輔、小県郡の真田昌幸、更科郡の屋代勝永等である。彼らは新領主がことごとく帰国するやただちに独立状態に復帰、信濃は再び土豪が蟠踞する地となった。
 この他にも小笠原貞種が上杉景勝の後援を受けて深志城を奪回した他、武田家滅亡時に浪人となった諏訪頼忠は旧故の家臣を糾合、父祖以来の居城であった諏訪郡の高島城へ入城した。
 七月三日、家康はいよいよ甲斐を目指し浜松を発った。同時に有泉信閑に対して、先鋒の本多広孝・大久保忠世・石川康通等を案内して新府へ移り、信州の調略を進めるよう命じた。甲斐はほぼ徳川方に鎮定されたが、川中島を除く信濃には未だ決定的な勢力が及ばず、土豪たちの思惑もからんで、情勢は流動的だった。
 家康は伊那郡松尾城の小笠原信嶺と同郡に在する大草左近・知久頼元・同頼氏・下条頼安等を降誘し、諏訪郡高島城の諏訪頼忠もまた徳川方についた。これで家康は南信濃を支配下に置いたことになる。佐久郡は家康の支配下にあり、川中島四郡と小笠原貞種の筑摩郡、真田昌幸の小県郡は上杉景勝の支配下にあって、信濃は一時両者で分割したような形となった。
 ところが、北条氏直の信濃乱入とともに信濃の情勢が大きく変化する。氏直は七月を期して碓氷峠から佐久へと侵攻した。その兵力は四万三〇〇〇の大軍だったという。小諸城には徳川家康が派遣した依田信蕃がいたが、圧倒的な北条勢にはかなわず、本拠の芦田小屋へ後退した。「小屋」とは、山中に築かれた防御拠点のことである。
 氏直の侵攻に、佐久郡は北条氏が制することとなった。これを見て動いたのが、上杉方に降っていた真田昌幸だった。昌幸は三月の武田滅亡直前に北条家と接触しており、武田勝頼を見捨てて北条方へ離反することを画策していた。それは信濃の織田所領化とともに立ち消えとなったのだが、この時点において実現することとなった。上杉・北条・徳川の三大勢力の間で変転を繰り返し、「表裏比興の者」と呼ばれた昌幸の離反劇の始まりである。北条方へ付いた昌幸は川中島を狙ったという。これには景勝もたまらず川中島へ出陣、北条勢を警戒した。景勝の滞陣は北条勢が諏訪へ南下するまで続いた。
 景勝の受難は続いた。京都にあった小笠原長時の三男貞慶が信州騒乱を聞きつけて帰郷、七月十七日に深志城を攻め、叔父の貞種を破って深志城を奪った。この事件は貞慶の単独行とも思われるが、上杉家に寄食していた父長時は御館の乱で景虎方につき、乱後は会津へ亡命していたこと、後に長時を会津から呼び戻そうとしていたこと、また会津は謀叛者新発田重家と通じていた芦名盛隆の本領であったことなどから、貞慶の深志攻めは、あるいは北条氏の後援を得ていた可能性がある。
 七月九日、家康が古府中へ到着した。家康のもとにさっそく津金胤久と小尾祐光が駆けつけ、臣属を誓った。家康はこれを許し、恩賞として曲金・長崎で一〇〇貫文及び現米一〇〇俵を宛うとともに、先手として働いていた小池信胤への感状を二人に託した。胤久・祐光と信胤とが家康の親書を託し得るほど、津金衆としての結束を家康が承知していたことを示している。
 家康は北条方の攻勢に対して手を打つべく、七月十二日、柴田康忠に一〇〇〇余の兵を付け、依田信蕃の援軍として佐久に向かわせた。
 上野から信濃へ侵入した北条氏直も佐久の土豪井上善九郎・井出善四郎等を降誘し、甲斐国内を探らせた。また、佐久から若神子に至る進撃ルートを確保すべく津金衆の勧誘を図った。この結果、高見沢但馬守等を降誘することに成功し、佐久往還沿いの緊張は高まったが、氏直は徳川方に付いた津金衆の守りが堅いことを確認すると、佐久往還の南下を避け、諏訪方面に向かった。いったんは徳川方に降った諏訪頼忠が離反し、北条氏に従属したからである。七月十三日のことであった。
 家康の重臣酒井忠次は、頼忠に合流しようと三〇〇〇の兵とともに諏訪へ向かっていたが、頼忠の離反が明らかになったのは七月十四日であった。頼忠の離反を知るや、徳川勢は高島城を囲んだ。『家忠日記』によれば同二十二日に高島城の攻撃を開始したという。
 七月二十四日、八代郡樫山に着陣した家康はここで武川衆六四名と対面した後、甲州防衛のため諸将の配置を指示した。武川衆の陣城には服部正成を配し、若神子には榊原康政・大須賀康高・本多広孝を置いた。大野砦には松平清宗・内藤家長と武田遺臣三枝虎吉が籠った。八代郡屋代には鳥居元忠を置き、郡内の北条勢に備えた。

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2009.10.16

天正壬午の乱(6) 家康の甲斐平定

 鳴海に在陣していた徳川家康は六月十九日、羽柴秀吉から上方平定の報を受けた。これ以上の進軍は無用と判断した家康は軍を返した。織田家の騒動に巻き込まれるのは得策でないと判断したためである。織田家中で最大の戦功を上げた秀吉であるが、卑賤の出自ゆえ他の武将からは格下に見られていた。その秀吉が主君の仇を討つという大功を果たしたのであるから、論功行賞と織田家の家督をめぐって論争となるのは確実だった。
 信長の後継者になるのはいったい誰なのか、この時点ではまったくわからなかった。信長に匹敵する逸材は今のところ見あたらず、時代が乱世へと逆転する可能性は非常に高かった。ならば、できうる限り所領を拡大し、他勢力と互するだけの国力を充実すべきである。これが乱世を生き延びる確実な方法であることを、家康はこれまでの経験から体得していたはずである。
 またそうなれば、自分にも天下を狙うチャンスが出てくる。家康が天下というものを意識しはじめたのは、おそらくこの頃からだったのではないか。それまでは信長との同盟維持、武田家との苦戦の連続で、そのようなことを考える余裕もなかったはずである。
 六月二十一日、徳川家康は遠州浜松へ帰還した。行程二日、往路に比して圧倒的に疾い帰路である。甲斐が騒乱に陥ったという情報はすでに家康にも届いており、帰国後ただちに甲斐および信濃へ兵を進めることを決意しての帰還であった。
 浜松へ帰還した家康は早速、甲斐及び信濃に対してさらなる手を打った。六月二十一日、小池信胤に対して信州表の計策を賞し、恩賞を約する書状を発した。この小池信胤なる人物は甲斐の国衆であった津金衆の一人であり、後述する依田信蕃の小諸進出に協力しての恩賞と思われる。翌二十二日には、大野砦の合戦で勝利した有泉信閑に対して、戦勝を称賛した書状を発した。北条氏が甲斐に調略の手を伸ばし、郡内を押さえられたことから、家康自身の出陣に先立って甲斐国中の統制を確保しておくためのものであった。
 家康の甲斐平定に際して重視したのが、武川衆や津金衆といった辺境武士団「国衆」であった。武田家の軍勢は士分の有力武将を寄親とし、その下に同心・被官を寄子として配分した、いわゆる寄親寄子制であった。この一集団が寄親の名を冠した「衆」となり、武田軍を構成していたわけだが、その他に寄親を持たずに構成される「国衆」というものがあった。甲斐の国境警備に当たっていた辺境武士団で、血縁的な結びつきが強く、一揆・党などとも呼ばれた。当然のことながら地元の地理に明るく、甲斐国境付近を舞台とした天正壬午の乱では武川衆と津金衆が徳川方の先兵として大きな役割を果たすことになる。
 小池信胤が属していた津金衆は、常陸からやってきた佐竹氏の末流と伝えられている。在地名をとって津金氏を称し、逸見地域(須玉川周辺)から信州佐久郡にかけて発展した。武田信玄も甲斐源氏の末流たる津金衆には一目置き、寄親寄子制を適用せずに従来の党的結合を許していたため、強大な勢力を保っていたという。
 津金衆の中心的人物は津金胤久・小池信胤・小尾祐光等である。小池氏は津金氏の分流だが、小尾氏は塩川上流域に栄えた一族で、武田庶流と伝えられる。『甲陽軍鑑』でも津金党と小尾党に分けられている等、出自を遡れば津金衆とは別個の一党である。ただ地域的な交流が深く、胤久と祐光が兄弟であったように戦国末期には血縁的にも結ばれていたため、津金衆として語られることが多い。
 武川衆は武田氏の支族一条氏の流れを汲む、武川筋の辺境武士団であった。かの馬場信春を輩出した精鋭の一族で、武川十二騎と称賛された。川尻秀隆襲撃の際にはその先頭に立ったとも言う。余談だが、徳川第五代将軍綱吉の側用人として著名な柳沢吉保は、この武川衆出身であった。
 頭目的立場に立っていたのは米倉忠継と折井次昌だったが、米倉氏は天正壬午の乱まで別の一党だったという。二人は武田家滅亡の際に徳川家に降り、遠江に匿われた。本能寺の変後、二人は無主になった甲斐に家康の命を受けて入り、ただちに武川衆を糾合して徳川氏に従ったのであった。

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2009.10.15

天正壬午の乱(5) 甲斐騒乱

 上方へと出陣した徳川家康は六月十四日、ようやく尾張の鳴海まで進んだ。前日に山崎で合戦があり、明智光秀が羽柴秀吉に敗れたとの報を得た家康は鳴海で軍勢を停止、上方の情報収集に務めた。これまでの対応に比べ、家康の進撃はあまりに遅い。織田家の内戦に巻き込まれたくない、というのが家康の本心だったのではないか。
 この六月十四日という日は、甲斐でも大きな異変が起きた日であった。家康の真意を疑った川尻秀隆が、家康が派遣した本多忠俊を討ち果たしてしまったのである。十四日の夜のことであった。この椿事に大きく刺激されたのが甲斐の国人衆であった。彼らは一揆を起こすと、翌十五日に甲斐を落ちようとした秀隆を今窪で捕らえ、殺害してしまったのである。かくして甲斐は無主の騒乱に陥った。
 この混乱に乗じて甲斐を征圧すべく、北条家が動き出した。六月十五日、北条氏政は郡内の渡辺庄左衛門に対し、武田旧臣を集めて郡内を制圧するよう命じた。また、北条家に通じてきた東郡の土豪大村三右衛門の手引きによって軍勢を入れ、甲斐を乗っ取らんと企てた。北条勢は雁坂口及び恵林寺口から鉢形城主北条氏邦の軍勢七〇〇〇、郡内口から甘縄城主北条氏勝率いる八〇〇〇余が侵攻するつもりだったという。
 北条方の郡内制圧は成功した。領国が隣接しており、古くから親交のあったことがそれを容易にしたのだろう。ところが、北条氏邦は北条氏直に従って上野に侵攻したため、甲斐への進出が遅れた。北条家の援軍を得ることができなかった大村三右衛門は徳川方の穴山遺臣有泉信閑・穂坂常陸介等と大野で合戦に及び、敗れて討ち取られた(大野砦の合戦)。『甲斐国志』によれば六月十七~十八日頃のことという。
 家康が上方出陣に先立ち、家臣の岡部正綱を穴山梅雪の遺領に送り込んで平定したことは前述した。武田氏と血縁関係にあった梅雪が異郷で遭難死したことは、結果として家康には都合がよかった。武田家を崩壊させた梅雪の内応変節、伊賀越えの際の家康に対する警戒等を思い起こしたとき、梅雪がもし甲斐へ無事帰国していたならば、混乱に乗じて武田家再興を図ることも考えられただろう。だが、梅雪の死を理由として穴山遺臣を難なく麾下に収めることができたことで、家康は甲斐進出の足場を築くことに成功したのであった。
 また、武田遺臣だった依田信蕃には甲斐及び信濃に在する武田遺臣を降誘することが命じられていた。甲斐に入った信蕃が柏坂で鐘の旗を掲げたとき、そこに三〇〇〇の兵が集まったという。大野での勝利は、家康の調略の成果だったといえよう。
 もっとも、北条氏にとって重要だったのは、実のところ甲斐よりも上野だった。対武田戦に加わったものの、初動の出遅れから信長の不興を買い、上野領を召し上げられて滝川一益に与えられた。さらに一益が関東管領に任命されたことは、関東の雄を自負する北条氏にとって屈辱以外の何物でもなかった。
 信長の天下がほぼ定まり、いったんは勢力拡大の可能性がなくなった北条家であったが、本能寺の変とともにその制約が解かれたことで、再び関東の覇者となるべく動き出した。まずは上野を攻略して関東の勢力を回復し、可能ならば甲斐・信濃も制しようというのが北条家の戦略だった。全体的な戦略指揮と調略はおもに氏政が行い、軍勢の作戦指揮は氏直が執った。
 六月十六日、北条勢は五万五〇〇〇の大軍で上野に侵攻し、十八日に金窪で滝川一益の軍勢一万八〇〇〇と合戦に及んだ。神流川の合戦である。緒戦は士気に優る滝川勢が圧したという。だが翌十九日、北条勢は神流川で滝川勢を散々に討ち破った。この戦いで北条方が挙げた首級は三七〇〇であったという。敗れた滝川一益は戦場を逃れて箕輪城へ戻った後、信濃路を経由して伊勢長島へ引き揚げた。合戦後、北条氏直は各地に朱印状を発し、上野を支配することとなった。

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2009.04.01

天正壬午の乱(4) 本能寺の変と関東織田領の崩壊

 上杉家にも第二の武田家となる運命が迫っていた頃、徳川家康は穴山梅雪を伴って安土城を訪れ、所領安堵の御礼に出向いていた。五月二十日、家康は安土城で織田信長の饗応を受けた後に上洛、さらに信長の勧めで堺を遊楽中だった六月二日、本能寺の変が突発した。家康の従者は十数人に過ぎず、外遊の地で思いもせぬ危機に陥った。
 その日のうちに変事を知った家康は明智光秀の追手を逃れるべく、ただちに堺を落ちた。一行は伊賀を越え、伊勢路を経て白子より乗船、海路岡崎に帰着した。六月四日のことである。ところが、家康に同行していた穴山梅雪は別行動を取り、一揆に襲われて命を落とす結果となった。家康の暗殺を警戒しての別行動だったともいうが、その警戒がかえって徒花となったことになる。
 万難を排して帰国した家康はただちに軍勢を催した。「仇敵明智光秀を討つ」という名目である。上方出陣を決した家康はその一方で、織田領だった甲斐・信濃に対する調略の手を打った。六月五日、家康は岡部正綱に対して書状を発し、下山城へ向かうことを命じた。下山城は甲斐国巨摩郡にあり、穴山梅雪の父祖以来の居城であった。これは梅雪の遭難死で無主となった穴山領の接収が目的だったことに他ならない。
 さらに六日、家康は本多忠俊を甲斐に向かわせた。信長の旧将川尻秀隆に上方の変を報じるとともに、相談役として置くためである。信長は生前、「隣国の儀なれば諸事介抱ありたし」と家康に秀隆の後援を依頼していた。家康は遺命となってしまった信長の言葉に従い、忠俊を甲斐へ送ったのであった。
 家康が甲斐・信濃両国に対して打った手はこれだけでない。駿河田中城の戦いで降伏し、遠州二俣にて隠棲していた武田旧臣、依田信蕃を彼の本拠たる信州佐久へ向かわせたのである。しかも途中の甲斐では、旧縁の士に対して家康へ帰服するよう勧誘することを命じていた。信長の死で両国が混乱に陥ることを見越しての対応だったことは明白である。
 甲信に対する処置を施した家康は軍勢を率いて東海路を西進した。関東の諸将に本能寺の変報が達したのは、家康が出陣した直後のことである。上野の滝川一益に悲報が到達したのは六月七日だったというから、その頃にはすべての将士に周知となったであろう。
 本能寺の変による信長の死は、天下一統に向かってつき進んでいた織田家が崩壊し、その指揮中枢が消滅してしまったことを意味していた。織田家臣団の結束は信長の存在あってのものだったから、信長の死後、家臣団のコントロールはまったく不能の状態となってしまった。諸将は各自の判断で急変した情勢を乗り切らなければならなかったのであるが、結論からいえば、それができたのは中国へ出陣していた羽柴秀吉ただ一人であった。備中高松城を包囲していた秀吉は外交能力を発揮して毛利家との和睦を締結、驚異的なスピードで兵を返すと、上方の織田遺臣をまとめ、六月十三日の山崎の合戦で明智光秀を討ち取り、信長の後継者として大きな一歩を踏み出すことになる。
 信濃に配された信長遺臣は新たな知行を捨て、本領のある尾張・美濃へ帰国する道を選んだ。魚津城攻略戦に呼応して越後へ兵を進めた川中島の森長可だったが、信長の悲報を受けるや海津城を捨て、飛騨を経由してもとの所領美濃金山へ向かった。毛利秀頼もまた伊那郡を放棄して上洛、信濃は領主不在の地となった。
 本領へ帰国しようとしたのは上野の滝川一益も同じであった。一益は麾下の関東諸将を厩橋に集めて信長の死を伝え、伊勢長島へ帰国する意思を告げて人質を返還した。集まった将は実直な一益に感じ入り、かえって結束が堅くなったという。
 越中で魚津城を攻略した柴田勝家は本能寺の変報が伝わるや軍勢を反転させ、上洛の途についた。前述したように越後へ侵入した森長可も退散したため、上杉景勝はきわどいところで滅亡の危機を救われたのであった。
 危機の去った景勝はただちに軍勢を動かし、謀叛を起こした新発田重家の新発田城を包囲した。まずは国内平定が肝要であったわけであるが、景勝は森長可が去って空白地帯となった川中島へも怠ることなく勢力を伸ばそうとした。景勝の側近、直江兼続が川中島の春日三河守等に本領の安堵状を発給したのが、六月十四日のことである。
 景勝は、古くは謙信の時代に越後へ亡命してきた信濃諸将を旧領に回復させることにより、先代以来の約束を景勝が果たすような形で川中島を勢力下に収めていった。村上(山浦)国清・須田満親のように、天文年間に川中島の戦いが始まった頃から越後へ身を寄せていた武将たちの感激はいかばかりのものであっただろうか。同時に、やはり越後に身を寄せていた、かつての信濃守護小笠原長時の弟貞種は、木曽義昌の所領となっていた深志城を奪回、筑摩郡も景勝の勢力下に入った。さらに、信州上田を領する真田昌幸が上杉の麾下に加わったことにより、上杉家の勢力は小県郡まで拡大した。
 本能寺の変後、景勝の北信濃進出はきわめてスムーズに進行したが、以後の経営は信濃諸将に任せるしかなかった。新発田重家の謀叛を鎮定し、越後国内の再統一が成らない限り、本格的な国外進出は無理だったからである。

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2009.03.08

天正壬午の乱(3) 織田家の対上杉戦

 武田家の滅亡後も織田氏の攻勢はとどまるところを知らなかった。その次なる目標は、越後の上杉景勝であった。
 天正六年に上杉謙信が急死した後、景勝は同じく謙信の養子だった上杉景虎と家督を争った。御館の乱である。武田勝頼との同盟に成功した景勝は景虎を滅ぼしたものの、景虎方についた諸将は各地で抵抗を続け、鎮圧にはさらに二年を要した。この内乱で国力は疲弊し、謙信時代を支えていた数々の勇将をも失うことになった。そしてまた、内乱の決着に大きな役割を果たした勝頼との盟約により、北信濃と上野の上杉領をすべて武田氏に割譲し、領国は越後国内に後退した。
 しかも内乱の間、北陸では、上杉家の勢力下にあった加賀・能登を信長の重臣柴田勝家が奪取、さらに越後の隣国越中へと攻め込んできた。天正九年(一五八一)四月には、越中戦線を支えていた謙信以来の重臣、河田長親を病で失った。
 その頃、越後奥郡を任されていた重臣、新発田重家が織田信長に内通した。重家もまた謙信以来の名将であり、御館の乱においては春日山城の守将を務め、武田勝頼との和議交渉をとりもつなど大いに活躍した。景勝は重家に全幅の信頼を置き、人質も取らずに北辺の守りを任せていたのである。
 ところが、乱後の論功行賞に重家は不満だったという。そこへ信長からの誘引があった。重家は景勝を見限り、信長に応じた。重家が挙兵し、景勝に対する敵対を明らかにしたのは天正十年一月のことであった。重家に相応じて、越中の柴田勝家が攻勢に出た。織田方の挟撃により、景勝は苦戦を余儀なくされた。
 天正十年三月、不利な情勢下にもかかわらず、景勝は織田勢の攻勢に瀕した勝頼に対して援兵を送った。景勝と同じく謙信の養子だった上条政繁を大将とした上杉勢は国境近郊の信濃長沼城に進駐し、三月九日頃には埴科郡の海津城近郊にまで兵を進めた。しかし数日後に武田勝頼が田野で自刃、その悲報が伝えられると、上杉勢は長沼へ引き返した。
 武田家の滅亡により、越後に迫った織田勢は越中の柴田勝家だけではなくなった。関東管領の重職を与えられて上野へ入国した滝川一益、川中島四郡を与えられた森長可もまた、越後に接することとなったのである。
 滝川一益に上野が与えられたのは、『信長公記』によれば信長が知行割りを明らかにする以前の三月二十三日のことであった。一益は三月二十五日、甲府に在する織田信忠のもとへ帰参御礼に来た上野の将小幡信貞とともに上野へ向かった。
 信長はまた、上野の武田旧臣に対しても一益に服属するよう命じた。一益の麾下に入った将は『小田原北条記』によれば、上州の内藤大和守(昌月)・小幡上総守(信貞)・和田石見守・由良信濃守(国繁)・長尾但馬守・安中左近、武州の上田安徳斎・木部宮内少輔・高山遠江守・深谷左兵衛尉・成田下総守・倉賀野淡路守、信州の真田昌幸等であった。
 上野に入った一益はまず内藤昌月が城代を務めていた箕輪城に入城した後、北条高広(もと上杉家臣。御館の乱で景虎方につき敗戦後は北条家に依った)から厩橋城の引き渡しを受け、同城に移った。
 川中島四郡を与えられた森長可は、四月五日に海津へ入城した。景勝はこれに対抗すべく、武田方の残党芋川正元を支援して一揆を蜂起させた。一揆勢は大倉古城を拠点として、織田方の将稲葉典道が入った飯山城を囲み、さらに四月七日、上杉勢八〇〇〇が長沼から迫った。長可も海津から兵を発して合戦に及び、追撃戦で一二〇〇余を討ち取ったという。さらに大倉古城を落とし、飯山城の包囲を解いた。
 北には謀叛を起こした新発田重家、東に滝川一益、南には森長可、そして西には柴田勝家が迫り、景勝は織田勢に対し文字通り四面楚歌の状況に陥った。
 森長可の軍勢五〇〇〇が信越国境を越え、越後へ攻め入ったのは五月二十三日のことであった。森勢は関山から越後へ攻め入り、二本木まで進んで放火に及んだのである。滝川一益も森勢に相呼応し、三国峠を越えて越後魚沼郡へ侵入したようであるが、樺沢城の栗林政頼らに撃退された。おそらく物見程度の小規模な出兵だったのだろう。
 越後の本拠春日山城を守っていたのは、上条政繁の兵七〇〇余ばかりであった。圧倒的兵力の織田勢になすすべもない政繁は、景勝に本国の危機を伝えるべく早馬を送った。このとき景勝は、織田勢に囲まれた魚津城を後詰するため、越中へ出陣中だった。しかし、危急の報に接した景勝は魚津城救援を断念、ただちに越中の陣を引き払った。五月二十七日のことである。
 その二日後となる五月二十九日、越中の柴田勝家が後詰のなくなった魚津城に対して総攻撃を開始した。見事なまでの連携である。織田勢が三か国にまたがる広域正面において効果的な連携攻撃を実施し得たのは、信長の指示であったろうことは想像に難くない。魚津城が落城したのは本能寺の変の翌日、六月三日のことであった。

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2009.02.22

天正壬午の乱(1) 武田遺領・甲信争奪戦

 天正十年(一五八二)三月十一日、織田信長の大軍勢に攻められた武田勝頼が甲州田野で自決し、甲斐源氏の名門武田氏は滅亡した。その遺領である甲斐と信濃、そして上野は信長の家臣たちに分配され、信長の盟友たる徳川家康に対しては、長年に亘った対武田戦の労苦をねぎらうべく駿河一国が与えられた。
 武田氏の滅亡により、関東の情勢は一変した。織田勢の勢いは止まることを知らず、もう一つの強敵であった越後の上杉景勝に対してもまた、武田討滅の勢いを駆ってその本国へ攻めこまんとする勢いであった。西国に目を転じれば、信長の家臣羽柴秀吉が、毛利輝元の領する中国地方を順調に制覇していた。さらに信長の三男神戸信孝が、四国の長宗我部元親を討伐すべく、堺で渡海の準備を進めていた。信長の天下一統事業は、武田家滅亡により、実現に向けて大きくはずみをつけていたのであった。
 ところが同年六月二日、信長がその家臣明智光秀に本能寺で討たれ、後継者たる嫡男信忠も父の後を追って死を選んだことにより、すべてが無に帰した。織田領はたちまち乱れ、戦国乱世の状況に逆転したのであった。
 それは武田遺領であった甲斐・信濃も例外でなかった。京の変報は数日のうちに関東へも知れ渡ることとなり、統治者が変わって間もない甲信両国は大きな混乱に陥った。甲斐と信濃はともに無主の地となった。その獲得へ向けて動き出したのが、越後の上杉景勝、関東の北条氏直、そして「海道一の弓取り」徳川家康だった。一般に「天正壬午の乱」と呼ばれる、甲信争奪戦の開始である。
 この戦いは織田・武田両家の統治期間の差を考慮すれば当然なのであるが、織田領というよりも武田遺領をめぐる戦いという性格の方が強い。それはまた、武田遺臣の動向が上杉・北条・徳川という三大勢力の戦略に影響を与えるということを意味していた。さらに、武田信玄によって信州の地を逐われた諸豪族の故地へ回帰せんとする思惑が絡み、情勢をより複雑なものとしていったのである。

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2009.02.19

御館の乱(12) 謙信公以来の武門の誉れ

 景虎を討ち滅ぼした景勝だったが、上杉家の後継者争いから上田長尾家と古志長尾家の闘争に変質した越後の戦乱はすぐに終息しなかった。最後まで抵抗を続けた旧景虎方の本庄秀綱と神余親綱を討滅し、景勝がようやく越後国内を平定したのは、天正八年(一五八〇)六月のことであった。
 越後平定の戦いを続ける傍ら、景勝は武田勝頼と起請文を交わして黄金を寄進し、天正七年(一五七九)十月二十日には勝頼の妹菊姫と婚儀を結び、越甲同盟をより強固なものとした。東上野と信濃飯山も勝頼に割譲されたが、東上野は北条氏政との争奪戦の場となり、武田家の衰亡を早めることになった。
 結果として景虎を見殺しにする形となった氏政は、逆恨みをするかのように勝頼の違約をなじり、甲相同盟を破棄すると、天正七年には徳川家康、翌年には織田信長と同盟を結んだ。この結果、東国で織田家に敵対するのは、上杉・武田両家のみとなった。
 景勝はようやく上杉謙信の後継者としての地位を固めたが、すでにそのとき、天下一統の覇権を握らんとしていた織田信長の軍勢が越後に迫っていた。
 東から北条氏政、西から織田信長と徳川家康に挟撃され、勢力を急速に衰退させた武田勝頼は、天正十年(一五八二)二月、甲斐・信濃に攻め込まれてなすすべもなく崩壊、三月十一日、田野に追い詰められて自害し、武田家は滅亡した。戦国最強といわれた武田家が二か月足らずで消滅したことに、景勝をはじめ東国の諸将は戦慄した。
 東国で織田信長の敵として残ったのは、上杉景勝だけとなった。武田旧領の上野・信濃が信長の勢力化に入ったことで、景勝は西方の北陸だけでなく、南方からも織田勢が迫る緊迫した事態となった。さらに越後国内では、御館の乱における恩賞問題で不満を持ち、信長に内応した新発田重家が謀叛を起こした。またもや景勝は、春日山城で織田方に包囲される形となった。
 覚悟を決めた景勝は五月一日、常陸の佐竹義重に対して書状を送った。古い友人に別れを告げるかのような内容で、己の行末を達観した景勝の素直な心境が表れている名文だ。
「景勝はよい時代に生まれました。弓矢を携え、六十余州を越後一国で相支え、一戦を遂げて滅亡できるとは、景勝にとって死後のいい思い出となります。もし万死に一生を得たならば、日本無双の英雄として天下の誉れ、人々にあまた羨ましがられることでしょう」
 五月上旬、景勝は越中救援に出馬したが、織田方の滝川一益が上野から越後国境に迫り、さらに森長可が信濃川中島から越後に乱入するという危機的事態に接し、景勝は越中を捨てて帰国せざるを得なかった。
 越中では柴田勝家の軍勢による攻撃で五月二十六日に松倉城、六月三日には魚津城が落城し、いよいよ越後存亡の危機に見舞われたとき、奇跡が起こった。本能寺の変である。六月二日、景勝を滅亡の淵まで追い詰めた織田信長が突如としてこの世から去った。この結果、越後に迫っていた織田勢がことごとく退散し、景勝は万死に一生を得たのであった。これは景勝にとって偶然の幸運という以外の何物でもなかった。
 奇跡的に生き延びることができた景勝だったが、信長との戦いの中で、地方大名としての己の実力をいやというほど思い知った。そして戦国という地方分権の時代は終わりを告げ、天下一統という中央集権の時代に移り変わったことを悟ったのであった。この後、景勝は織田信長の後継者として急速に台頭した羽柴秀吉、後の豊臣秀吉と誼を通じるようになった。
 御館の乱に関係した関東の三雄のうち、武田家は信長に滅ぼされ、群雄割拠から天下統一へと動いていた時代の流れを読めなかった北条家は秀吉に抵抗し、滅び去った。だが御館の乱、信長との戦いと、二度まで滅亡の危機に陥った景勝は、自身が越後一国の主が相応であることを悟り、中央政権に取り入ることで生き残ったのであった。
 景勝は豊臣秀吉の五大老に取り立てられ、譜代格として大きく出世した。その過程で景勝が大いに活用したのが、養父上杉謙信の武勇伝だった。
 景勝は御館の乱や織田信長の戦いといった戦さの中で武功を立てたわけではなく、とても戦さ上手とはいえない。だが、多数の書状発給によるプロパガンダ戦略で苦しい戦いを乗り切ってきた。そこで秀吉の時代になってから、謙信を上杉家中興の祖として神格化し、毘龍の旗の下に結束した上杉家の精強をアピールしたのである。
 景勝のプロパガンダは功を奏し、上杉家は豊臣政権の中で一目置かれる存在となった。その間、景勝は越後家中の結束を固めることに注力し、「謙信公以来の武門の誉れ」を継ぐ者として、上杉家を永続させる体制をつくりあげたのであった。

(初出:学研「歴史群像」2007年4月号 No.82「上杉激震! 御館の乱」)

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2009.02.18

御館の乱(11) 御館滅亡

 上田で坂戸城の攻防戦が続いている頃、景虎が籠る御館は兵糧の不足に苦しんでいた。米山の猿毛城を奪われて糧道を断たれていたからである。この状況を打開するため、景虎は神余親綱の三条城から兵糧三〇〇〇俵を搬入するよう命じた。陸路を使用できないため、柏崎の湊から船を出し、直江津まで海輸しようというのである。
 九月下旬、兵糧は御館に向けて送り出された。同時に、栃尾城の本庄秀綱が二〇〇〇の兵を引き連れ、進軍を阻もうとする猿毛城の上野九兵衛を突破し、御館に入城した。さらに十月上旬、樺沢城から上田庄を突破してきた北条景広が御館に入り、景虎の下に馳せ参じた。兵糧の到着と両将の増援に、御館の士気は上がった。景虎は十月十日、かつて上杉謙信が関東管領就任式を執り行った鎌倉の鶴岡八幡宮に、戦勝祈願の願文を送った。
 意気上がる景虎方は十月二十四日、本庄秀綱を大将として大坪口から出陣、春日山城に攻め寄せたが、景勝方の奮戦により撃退された。御館に戻った本庄秀綱は十一月三日、景勝方が中郡の琵琶島城に攻めかかったという報せを受け、救援に向かった。景勝は本庄秀綱の出馬を察知したが、本庄秀綱は景勝方の警戒を突破して琵琶島城に入り、危機を救った。だがその後、本庄秀綱は御館に戻ることができず、栃尾城に帰還した。
 御館に残る勇将は、北条景広だけとなった。北条家は安芸毛利家に通じる一族で、刈羽郡北条に住してから姓を改めた。上杉謙信は北条景広の父、北条高広の手腕を高く評価し、二度まで謀叛を起こしながらも厩橋城将に留め置いた。景広は剛勇無双と称せられ、御館に入城して勇猛ぶりを発揮した。
 十二月十六日、越中松倉城将としてそれまで織田勢と対峙していた河田長親が能生に到着した。景勝は援軍として期待していたが、越後の雪深を理由に再び松倉城に帰還してしまった。正月早々、御館攻撃に参陣する旨を景勝に伝えているが、織田勢と対峙している情勢では、軍勢を動かすことができなかった。
天正七年(一五七九)を迎えた景勝は、雪が消え、小田原北条勢が再び越後に侵入する前に御館を攻略しようと決意した。御館はすでに孤立していたが、春の訪れとともに小田原北条勢が再び越後に進撃してくることは確実だった。前年の小田原北条勢は先手衆だけで御館の救援に失敗したことから、春には北条氏政の本隊が動くであろう。北条氏政が動けば武田勝頼の動向も不透明になる。そうなれば、景勝とて現在の優勢を維持できるかどうかは微妙であった。なんとしても雪解けの前に御館を攻略する必要があったのだ。
 一方、兵糧不足に苦しんでいた御館の景虎は正月早々、猿毛城将の上野九兵衛に書状を送り、帰参を促した。中郡との連絡を回復し、退勢を挽回しようとしたのである。だが、上野九兵衛は景虎の使者を斬り、決意の程を示した。正月二十日には高津城を攻め落とされ、御館は徐々に追い詰められていった。
 雪が消える前に景虎を打ち滅ぼそうと決意した景勝は二月一日、総攻撃に出た。この攻撃で北条景広の陣所が襲撃されて多数討ち取られ、北条景広もまた荻田孫十郎に槍で衝かれて深手を負い、翌日死亡した。翌二日には御館を攻撃し、府内をことごとく焼き払った。 この敗北は景虎方に大きなダメージとなり、御館からは脱走が相次いだ。
 二月五日、景虎は河田吉久に書状を送り、本庄秀綱とともに一刻も早く参陣するよう訴えた。二月十一日にも御館は景勝方に攻撃され、戦火の中、景虎は阿賀北の本庄繁長に、あと一〇日も援軍が来るのが延びれば滅亡の他ないと訴え、一日も早い参陣を哀願する書状を送った。二月中旬には、小田原北条勢の拠点だった樺沢城が上田衆に奪回され、関東援軍の望みも絶たれた。
 事態の急変に、景虎方だった武将は次々と景勝に降った。青海川・鯨波・島・錦などの要地が景勝方となり、御館は完全に孤立した。
 落城必至とみた前関東管領上杉憲政は事態を打開するため、景虎と景勝との調停に乗り出そうとした。このとき上杉憲政は景虎の子、道満丸を救おうとしたのであろうか、一緒に連れて御館を出た。春日山城に向かった上杉憲政は三月十七日、景勝方の武将に襲われ、途中の四屋で道満丸とともに殺害された。上杉憲政は七五歳、道満丸は九歳であった。
 四屋の悲報が伝えられた景虎は、これ以上の籠城は無理と判断し、ついに御館を脱出、武田勝頼の所領である信濃に向かった。景虎の脱出を知った景勝方は景虎を追い、窮した景虎は堀江宗親の鮫ヶ尾城に逃げ込んだ。しかし、堀江宗親もまた景勝方へ内応したため、進退窮まった景虎は三月二十四日、ついに自害した。二六歳であった。

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2009.02.17

御館の乱(10) 坂戸城攻防戦

 八月下旬、北条氏政がようやく重い腰を上げ、越後に兵を出した。だが、氏政自身が出馬したわけではない。氏政の弟、北条氏照と北条氏邦に出陣を命じたのである。『甲陽軍鑑』には兵数一万五〇〇〇とある。厩橋で北条高広・景広父子が加わり、軍勢は三国峠に向かった。
 なお、「ほうじょう」と「きたじょう」の関係がややこしくなるため、ここからは「ほうじょう」家を「小田原北条」家と記すことにする。余談だが、かつて北条高広は上杉謙信に反旗を翻し、小田原北条家についたことがある。その際に「読みは違えども字は同じ」ということで誼を通じたという逸話が残っている。両家はそのような関係でもあった。
 さて、景勝は関東からの小田原北条勢侵攻に備え、故郷の上田坂戸城を拠点として防備を固めるよう、挙兵当初から再三、城将の深沢刑部少輔に指示を出していた。だが、上州の景勝方拠点は景虎方に奪取され、坂戸城は古志郡栃尾城の本庄秀綱を中心とした景虎方勢力に攻撃されており、予断を許せない状況だった。そのような中、景勝がもっとも懸念していた小田原北条勢が動き出したのである。
 小田原北条家出身の景虎と対決する限り、氏政との和睦はありえなかった。また、盟約したばかりの武田勝頼はもともと小田原北条家との関係の方が強かった上、勝頼が策した景勝と景虎との和睦を破談にしてしまったから、今後の戦況如何では勝頼がどう転ぶのか予想がつかなかった。景勝が小田原北条勢の圧倒的な兵力に対抗するには、上田城、直峰城、そして春日山城といった、難攻不落の誉れ高い越後の城砦を拠りどころとした拠点防御戦しかなかった。
 かたや、御館で景勝方に攻めたてられ、苦戦を続けていた景虎は、待ちに待った小田原北条勢来援の報に狂喜した。九月二日、北条景広が北条城に入ったという報を受けた景虎は、小田原北条勢とともに御館に入城することを求める書状を船早飛脚で景広に送った。景広の北条入城は誤報であったが、ほどなく小田原北条勢が三国峠を越えて越後に侵入し、景勝方の樺沢城を奪取して越後侵攻の拠点とした。
 勝頼と景勝との同盟が景勝の流した偽情報であると考えていた景虎は、小田原北条勢と武田勢を合流させた上で、春日山城の景勝を一挙に攻め滅ぼそうと考えていた。このとき、武田勢は妻有に向けて移動していたが、小田原北条勢と合流するためであろうと景虎は信じていたのである。
 一方の景勝は、武田勢の移動を景勝の坂戸援軍要請に応えたものと考えていた。景勝は九月十一日、武田勢がまもなく妻有に着陣するので、到着したら馳走するよう、妻有の小森沢政秀に書状を送っている。すでに小田原北条勢は坂戸城に迫り、攻撃を開始していた。九月十二日、景勝は坂戸城を守る諸将に対し、武田勢を援軍に向かったので城を堅く守るよう申し付けている。景勝方は、樺沢城をはじめとする魚沼郡の城を捨てて全兵力を坂戸城に集め、小田原北条勢に対する防御戦を展開した。
 坂戸城は標高六四〇メートルの山頂に実城を置き、麓に向けて無数の郭を重ねた難攻不落の城砦である。これを攻めあぐねた小田原北条勢は、一〇月の降雪期を迎えることになってしまった。軍議の末、大将の北条氏照は本隊の関東帰還を決断した。越後の豪雪で関東との連絡が途絶えてしまったら、一万五〇〇〇の大軍で越冬するのは無理と判断したのである。
 樺沢城は橋頭堡として確保するため、北条氏邦・北条高広・河田重親らを守将に置いた。また、北条景広と小田原北条勢の篠窪出羽守を御館の援軍として向かわせた。仕置を終えた小田原北条勢は三国峠を越え、関東に帰還した。
 ところで、攻防の帰趨を握っていた武田勢は坂戸城攻防戦の間、何をしていたのか。飯山街道をノロノロと進軍した後、九月下旬に妻有に着陣したが、そこからまったく動くことはなかった。二重同盟を結んでしまった勝頼としては、どちらにも加勢するわけにいかなかったから、小田原北条勢の坂戸城攻めを傍観するよう命じていたのである。
 坂戸城の後詰として期待していた景勝は、この背反ともとれる行動に困惑しつつも、動かぬ武田勢を最大限活用しようとした。城兵には「武田勢が加勢に来たから応援に出す」と書状で励ましつつ、犬伏の防衛を武田勢に託したのである。
 もし、小田原北条勢が御館に向おうとするならば犬伏を通らねばならず、必然的に武田勢とぶつかることになる。敵方にさえならなければ、遊兵であっても戦力になる計算だった。だが、武田勢が小田原北条勢と合流したならば、景勝の運命は極まることになる。
 あとは武田勝頼の信義に賭けるしかなかったが、武田勢が犬伏から動くことはなく、景勝はその賭けに勝った。十二月、景勝は勝頼との同盟を確固たるものとするため、その条件であった婚約の祝儀を武田家に送ったのであった。

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2009.02.16

御館の乱(9) 上杉景勝の反撃

 和睦の打診に武田方の内諾を得た景勝は、景虎方に対して俄然攻勢に転じた。和睦交渉で動きが止まった武田勢に気取られることなく、全力で春日山城から打って出たのである。
 六月十一日および十三日、景勝方は大場にて景虎方と戦い、景虎方の将、上杉景信をはじめ数百人を討ち取った。親類衆のトップで、古志長尾家の当主だった景信を失ったことは、景虎方にとって大きなダメージとなった。
 六月十二日には、景勝方となった長尾筑後守・宮崎甚介らが、景虎方だった直峰城の長尾景明を討ち取り、直峰城を奪取した。松之山街道の起点にある直峰城は、春日山城と景勝の本城坂戸城を結ぶ要衝であった。直峰城が景勝方となったことで、坂戸城の連絡が取れるようになった。これでようやく春日山城の孤立状態が解消されたのである。
 さらに米山の猿毛城が景勝方と0なった。ここは上杉家重臣柿崎晴家の城であったが、謙信死去の翌日である三月十四日に晴家が死去し、無主の状態となっていた。謙信の死後、景虎を推した晴家は景勝派と論争になり、殺害されたという。それを知った柿崎遺臣は景虎方となり、篠宮出羽守が猿毛城を守っていた。だが六月上旬、景勝方についた上野九兵衛が城兵を説得し、篠宮出羽守を討ち取って、猿毛城を陥れたのである。これは、御館が中越の景虎方に通じるルートを断たれたことを意味する。
 直峰・猿毛の両城が景勝方となったことで、今度は景虎が孤立する情況となってしまった。これら城兵が景勝に反応した原因だが、六月八日に景勝が北条父子に送った、武田勝頼との同盟を告げて帰参を促す書状と同様の書状を、景勝が他にも送っていたのであろう。これを確認した城兵が信越国境に集結した武田勢を確認し、しかも十一日の合戦で景勝方優勢と判断して、景勝方についたのだ。
 景勝は非常に筆まめであった。御館の乱の間、各地に散らばった自陣営の諸将に毎日のように書状を発し、春日山の状況を報告するとともに各地の作戦を指示している。戦いで武功のあった者には欠かさず感状を発した。敵方にもたびたび書状を送って帰参を促している。いうまでもなく、常に自軍が優勢であることを誇示している。景勝が御館の乱を優勢に導いた、書状による情報戦略であった。
 景勝方の戦況逆転は、半信半疑であった武田勝頼の心境にも大きく影響を与えたであろう。武田勝頼は陣を越後に進めながら、景勝と本格的な和睦条件の交渉に入った。六月二十四日、武田家重臣の小山田信茂を使者に立て、上杉家重臣の斉藤朝信と新発田長敦に御礼の書状を送っている。その一方で軍勢を進撃させて春日山城下に迫り、勢力を誇示しつつ交渉を有利に進めようとしている。
 また、春日山城下への進撃は、北条氏政に対して景虎支援を履行していることを示す意味もあった。勝頼も北条家を敵に回すデメリットは理解していたようで、内密に景勝との和議を進めようとしていた。だが、景勝は武田との和議が成立したことを板屋光胤に六月二十九日の書状で報告しているように、自軍を有利に転じようと、武田盟約の事実をあちこちにひけらかしていた。このギャップが、結果として武田勝頼を道化役に仕立ててしまった。
 六月二十九日、武田勝頼は春日山城下の木田に陣を構えた。ここは景勝・景虎双方を威圧できる要地であった。先陣の大将武田信豊は同日、和平を促す書状を景勝に出している。おそらく景虎にも同様の書状が届けられたことだろう。越後情勢のキャスティングボードを握ったと勘違いした武田勝頼は、景虎と景勝の和平を成立させようと画策した。景勝と同盟を結びつつも、義兄弟でもある御館の景虎を見捨てるわけにもいかず、また北条氏政に対しても申訳が立つ形で乱を終息させようとしたのである。七月二十三日には、景勝家臣の山吉掃部助らに対し、景勝と景虎を和睦させるために出馬したのだという、もっともらしいことを記した書状を送っている。
 だが、武田勝頼の斡旋にもかかわらず、景勝と景虎の戦いはすぐに終わらなかった。七月二十八日に再び大場で合戦があり、八月一日には景虎方が春日山城に攻め寄せている。景勝は優勢を報じていたが、現実には一進一退の攻防がまだ続いていたのである。眼前で繰り広げられる戦いに手出しをするわけにもいかず、勝頼はさぞ歯がゆい思いで傍観していたことだろう。
 景勝と景虎の和睦が成立したのは八月中旬のことである。和睦の仲介を果たした武田勝頼とその重臣たちには太刀・馬・青銅など御礼の進物が送られた。勝頼は得意の絶頂であったろう。しかし、景勝と景虎がもとより和解できるはずもない。和睦はすぐ破談になり、勝頼はさじを投げた格好で八月二十八日に帰国してしまった。九月十九日に会津の芦名盛氏へ送った書状の中で、勝頼は双方の主張がどうしたら聞き届けられるものか、と嘆いている。
 景虎との和睦はならなかったものの、景勝にとって武田勝頼との同盟が成立したことで、信越国境を気にすることなく御館攻撃に専念できることになった。九月一日、景勝は残っているだけで二六通の感状を発している。いずれも籠城をねぎらい、加増を約するもので、書状戦略によってあらためて景勝方についた家臣の人心掌握に努めていたのである。

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2009.02.15

御館の乱(8) 武田勝頼の変心

 はたして、武田信豊は景勝から提示された破格の条件に驚いた。景勝の打診に利ありと判断した信豊は、ただちに甲府へ使者を出した。武田勝頼はまだ甲府を出馬していなかったが、おそらく信豊からの報を受けた後、六月上旬に越後へ向けて動き出した。
 六月七日、勝頼の側近である跡部勝資が、景勝方の将十一人を連署した異例の書状を送っている。景勝から再三、講和打診の回答を催促されたにもかかわらず、勝頼出馬のため返事が遅れたことを詫び、代わりに信豊が口頭で回答する旨を伝えている。
 これは武田方も景勝の出した条件に大いに乗り気だったことを示しているとともに、景勝が本気かどうかを確認する意味合いもあったであろう。
 信豊から誓詞を求められた景勝は、誓詞をしたためて信豊に送り、謝意を示した。景勝はこれで勝頼との盟約に成功すると踏んだのであろう、六月八日、景勝は景虎方であった上州厩橋城の北条高広・景広父子に帰参を促す書状を送っている。
「武田信豊と高坂弾正のとりなしで武田勝頼がこちらについた。どうしようと当方の指図次第である」と、まるで勝頼が景勝の麾下に入ったかのような、高飛車な内容である。
 なお、文中に出てくる高坂弾正昌信はひと月前の五月七日に死去している。武田方重臣の名を出すことで、同盟の事実により重みを出そうとしたのであろうか。また、『甲陽軍鑑』には、勝頼の側近であった跡部勝資・長坂長閑の両名が賄賂を得て、景勝との同盟を斡旋したと記してあるが、実際に両家を取り次いでいたのは武田信豊であったということが、この書状で確認できる。
 川中島に到着、海津城に入った勝頼は景勝の誓詞を確認し、同盟の是非について信豊と協議した。六月十二日、信豊は景勝に宛てて書状をしたため、誓詞提出の御礼とあわせて勝頼の海津着陣を報告した。詳細は使者の口上で伝えられた。景勝の条件提示も大胆だったが、勝頼の決断もまた驚くほど速かった。
 勝頼と信豊が出した結論は、景勝との同盟締結であった。武田方の判断とすれば、上杉家の主君が景虎になろうと景勝になろうと関係なかった。重要なのは、越後と同盟関係になるということであった。
 その視点で冷静に判断すれば、北条家との同盟を維持しつつ、越後とも盟約を結ぶことができる景虎を救援する方がいい。背後を安定させつつ、織田・徳川連合軍との戦いに専念できるからだ。
 しかし景勝と同盟すれば、北条氏政との関係が断絶し、織田・徳川連合軍とともに東西から挟撃される可能性が高くなるであろうことは容易に想像がつく。
 その判断を狂わせるほど、景勝の提示した条件は勝頼にとって魅力が大きかったということになる。
 勝頼は、北条氏政の態度にも疑問を持った。武田家が出兵しているにもかかわらず、開戦から三か月になろうとしている六月になっても北条勢が越後まで出陣していないという事実は、氏政には景虎を救援する気がないのではないか、と勝頼に疑惑を持たせるのに十分であった。
 氏政が出陣しないのであれば、いくら盟約のためとはいえ、景虎を支援して春日山城を攻撃しても損害を出すのは武田ばかりである。しかも見返りはまったくない。ならば兵を損ずることなく、この場を収めた方が無難である。「表裏の仁」。そのような北条氏政評もまた、勝頼の判断を狂わせたのかもしれない。
 景勝と勝頼の和睦の情報は北条氏政にも伝わったようで、六月十二日、上田に向けて先勢が向かったことを記した起請文を沼田の河田重親に送っている。だが、実際に北条勢が沼田に到着したのは九月になってからだった。

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2009.02.14

御館の乱(7) 景勝、勝頼を買収

 武田勢の出現により、景勝は絶体絶命の危機に陥った。国外勢力はいずれも景虎に与力しようとする敵対勢力だった。御館勢だけならば互角だったが、国外勢力が景虎方に合流したならば、景勝の運命は極まったも同然である。武田勢の越後入国により、それが現実のものになろうとしていた。
 景虎の実家である北条勢の援軍はある程度予測していたが、武田勢二万の出陣は景勝にとって意外だった。天正三年五月、武田勝頼は織田信長・徳川家康連合軍と長篠に戦って大敗し、信玄以来の宿老を多数失って勢力が大きく減衰した。しかも東海道において徳川家康と交戦中だったから、越後に兵を出す余力があるとは思いもよらなかったのである。
 窮地に追い詰められた景勝は、ここで逆転の一策に出た。武田軍先陣の大将、武田信豊に和睦を申し出たのである。六月一日、妻有を守る小森沢政秀に武田勢を警戒するよう書状を送っているが、同時に和睦の交渉を開始していたようである。
 景勝が武田信豊に出した条件は、武田勝頼への献金、上州及び信州の上杉領割譲、景勝と武田勝頼の妹との婚姻すなわち武田・上杉同盟の締結であった。
 武田勝頼への献金額に関しては不明である。『甲陽軍鑑』は一万両と記述しているが、これが誇張であるとする説は少なくない。乱後に未進の黄金五〇枚を請求する跡部勝資の書状が残っていることから、小額であったともいうが、織田・徳川連合軍との戦いが続き、不利な戦況で疲弊していた武田勝頼がもっとも欲していたのは、土地ではなく戦費であった。
『甲陽軍鑑』には、武田家の国庫に七〇〇〇両しかなかったと記してある。金額の是非を差し置いても、戦費が逼迫していたのは間違いない。条件を提示された武田信豊と武田勝頼が即決したことを考えれば、莫大な金額が提示されたことは容易に想像がつく。
 天正六年当時の武田・上杉の関係は盟約こそしていなかったものの、敵対しているというわけでもなかった。むしろ、対織田・徳川戦略の中で同盟の可能性が見えてきていた時期でもある。長篠合戦に敗れた武田勝頼が置かれていた情況を考えてみれば、領土割譲を盟約の条件とするには弱すぎることがすぐに理解できる。
 それに、まだ景勝が越後を掌握したわけではない。それどころか春日山城で孤立し、窮地に陥っているのである。しかも割譲予定地はすべて景虎方にある。もし景勝が敗れたなら、領地はすべて空手形となってしまうのだ。
 しかし、現金の授受なら確実であり、即効性が高かったことは間違いない。
 春日山城中には、上杉謙信が一代で蓄財した大量の軍資金があった。上杉謙信の経済感覚は非凡のもので、休む間もなく戦さを繰り返したにもかかわらず、家督を継承したときに大赤字だった越後の財政を、京都との青苧交易と金山開発で黒字に転換させ、蓄財も可能にするほどの富裕国にしていたのである。
 上杉謙信の死後、実城を占拠した景勝は金蔵を開き、河隅忠清・飯田長家らに命じて金子を数えさせた。五月三日の報告で小判二七二四枚を数えている。上杉謙信小判一枚の価値は一〇両だったというから、二万七〇〇〇両あまり、現在の人件費に対する貨幣価値に換算すれば八一億円以上に相当する。
 多大な遺産を獲得した景勝は、これを惜しむことなく活用し、戦局を有利に導こうとした。当時の武田家が置かれていた苦しい台所事情を看破した上で、和睦の条件を提示したのである。
 だが、これは単なる和睦ではない。勝頼の風下に立つ様子を見せつつ、敵として出陣してきた武田家の一番弱いところを衝き、丸ごと自陣営に取り込んでしまおうという、企業買収さながらの策略であった。武略ではなく、経済外交戦略に持ち込んだ景勝の真骨頂であった。

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2009.02.13

御館の乱(6) 武田勝頼の出陣

 景虎方が攻勢に出たのは春日山城に対してだけではなかった。景虎方となった上野の北条高広・景広父子や河田重親が、景虎の実家北条家からの指図を受け、越後と関東を結ぶ三国峠に通じる猿ヶ京に向けて攻勢に出たのである。
 上州で景勝方となったのは深沢城の深沢定政、猿ヶ京城の尻高左馬助、小川城の可乗斎、尾奈淵城の沼田平八郎などの少勢に過ぎなかった。尻高左馬助はひとまず景虎方の上野勢を撃退したが、景虎方が再び来襲することは確実であった。この方面の防衛を担当していた深沢利重は景勝に援軍を求めた。しかし、春日山で孤立していた景勝にそのような余裕はなかった。景勝は手持ちの戦力で防戦するよう命じた。
 五月下旬、再び上野勢が攻め寄せ、猿ヶ京をはじめ小川、尾奈淵も落城し、景勝方は越後に引き揚げざるを得なかった。この敗退により、北条勢は関東から景勝の本拠上田坂戸城へ進撃するための道が開けたのであった。
 その頃、春日山城に立て籠る景勝方と膠着状態に陥っていた、御館の景虎のもとに吉報が舞い込んだ。北条家の要請を受けた武田勝頼の軍勢が信越国境に到着したというのである。
 前述の通り、景虎の兄である北条氏政は、攻守同盟を結んでいた甲斐の武田勝頼に対し、景虎救援の出陣を要請した。武田勝頼はこれに応え、越後に向けて景虎救援の兵を出した。五月下旬、武田勝頼の従兄弟である武田信豊の軍勢が先陣として信越国境に到着したのである。
 五月二十九日、景虎は会津の芦名盛氏に宛て書状を送った。景勝方を春日山に取り籠めたこと、武田信豊の軍勢が信越国境まで来援したことを報じ、芦名盛氏も北条家と示し合わせて出陣するよう求めた。春日山城を孤立させたものの、御館の兵力だけで攻略することができなかった景虎が武田勢の到着に欣喜し、一挙に景勝を葬るべく勇躍している様子が文面に表れている。
 北条氏政の誘いで景虎方となった会津の芦名盛氏は、景虎の書状が届く前、すでに越後に兵を進めていた。芦名の将、小田切治部少輔は菅名に侵入、景虎方の本庄秀綱及び神余親綱に合流しようとしたが、五月二十八日、景勝方に撃退された。
 武田勢の出現により、景虎方は圧倒的な優勢に立った。武田勝頼の妻は北条氏政の妹、すなわち景虎にとっても姉妹であったから、武田勝頼と景虎もまた義兄弟だった。北条氏政が要となり、武田勝頼と景虎が連携して動き出せば、いかに難攻不落の春日山城とてひとたまりもなかったであろう。
 だが、そうはならなかった。北条氏政が小田原を動かなかったからである。氏政は武田・芦名に戦わせて、自らは出陣せずに漁夫の利を占め、あわよくば越後の覇権を獲得しようとしていたのだ。北条家にとって重要なのは関東から越後上杉家の影響が排除されることであり、越後の支配権はどうでもよかった。むしろ内戦で混乱状態に陥っている方が都合がよかったのかもしれない。
 氏政にとって三郎景虎は政争の具に過ぎなかった。先の越相同盟では、上杉謙信に何枚も誓詞を入れながら翌年には盟約を翻し、三郎景虎を見捨てている。そして御館の乱でも、本気で景虎を救援しようとは考えていなかったのだ。

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2009.02.12

御館の乱(5) 景虎、御館に移動

 景勝の挙兵から約二か月の間、春日山城内では両派による攻防戦が展開されたが、五月十三日、景虎は春日山城を出て、府内の御館に入った。武器・兵糧の不足で不利な交戦となるのを避け、御館に移ったのだ。
 景勝は実城の倉庫を押さえていたが、そこには出陣を目前にして十分な武器・兵糧が用意されていたはずで、景勝は存分に籠城戦を展開できる状況だったに違いない。だが、上杉謙信に後継者と定められていた景虎は、武器・兵糧が収まった倉庫を景勝に押さえられた上、まさか春日山城内で戦闘になるとは考えていなかった。
 御館は、越後に亡命してきた前関東管領上杉憲政の居宅として上杉謙信が府内に建てた館である。御館の外郭は東西約二五〇メートル、南北約三〇〇メートル、内郭は東西約一三五メートル、南北約一五〇メートルの四角形で、二重の土塁と堀に囲まれていた。御館は憲政の居宅としてだけではなく、上杉謙信の政庁としての役割も果たしていた。この御館が攻防の中心となったため、景勝と景虎の争乱は後に「御館の乱」と呼ばれたが、当事者たる景勝は「忩劇」「錯乱」などと書状に記している。
 御館には前関東管領上杉憲政がいた。当時七五歳。二十数年前に関東での戦乱を逃れ、これまで平和だった越後で悠々と余生を送っていた。そこへ図らずも景虎が飛び込んできたことで、御館は一変して戦場と化したのであった。
 さて、春日山城を出て御館に拠点を移した景虎は、自軍の勢力を糾合すると攻勢に転じた。五月十六日、景虎方の東条佐渡守は春日山城下の春日町に放火し、三〇〇〇軒を焼き払った。同日、鮫ヶ尾城の堀江宗親が一〇〇〇の兵を引き連れて御館へ着陣。信州飯山城の桃井義孝・本田石見守ら外様衆二〇〇〇も御館に到着した。
 ようやく援兵を得て意気の上がった景虎方は、翌五月十七日、一気に春日山城を攻略すべく五~六〇〇〇の兵で御館を発ち、春日山城の堤際、あるいは千貫門のあたりまで攻め入った。
 景虎方の攻勢に対して景勝方は堤際まで出て防戦を繰り広げ、千貫門を開いて槍で突き落とし、桃井義孝以下数百人の兵を討ち取って撃退した。景虎方の攻撃は失敗に終わった。しかし、春日山城からは兵の離脱が続き、景勝方にも反撃の余力はなかった。
 自軍が優勢であると見た景虎方は五月二十二日に再び兵を出し、荒川館と愛宕で両軍が交戦したが、上田衆の奮戦により景虎方を再び撃退し、春日山の戦いは膠着状態に陥った。

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2009.02.11

御館の乱(4) 上杉家臣団の分裂と国外勢力の介入

 景勝の実城占拠をきっかけとして、上杉家臣団は景虎方と景勝方に分裂し、越後を真っ二つに分けての大騒乱に発展した。
 実城とは春日山城の本丸部分で、春日山頂の二か所の平坦地、北東の毘沙門堂、お花畑、現在二の丸という石標のある郭、裏側の井戸郭などの総称であった。上杉謙信が御実城様と呼ばれていた通り、実城こそが上杉家の本拠地であった。
 上杉謙信の後継者であることを正当化するため、先手を打って実城を占拠した景勝は、景虎の居館があった二の郭に弓・鉄炮を撃ちかけた。景勝の挙兵は用意周到というわけにいかなかったが、十分成功の打算があった。何よりも景勝は越後の出身であり、上杉謙信の血筋でもあった。景勝が挙兵すれば、越後の諸将はことごとくその旗下に参ずるであろう。
 ところが、景勝の甘い期待はすぐに打ち砕かれた。『上杉年譜』に「老将の中には異議を唱える輩もあった」とあるように、意外にも多くの武将が景虎を支持したのである。特に鮫ヶ尾城の堀江宗親や直峰城の長尾景明など、上越の諸将がことごとく景虎方についたのは衝撃だった。この結果、景勝は春日山城に孤立する格好となってしまったのである。孤塁となった実城の中で、景勝は諸将を自陣に取り込もうと必死の調略戦を展開した。越後だけでなく、会津の芦名盛氏父子にも誼を結ぶべく書状を送っている。
 一方の景虎は、まさか上杉謙信の忌中に景勝が挙兵するとは思ってもみなかった。春日山城の実城から二の郭、三の郭にかけて城壁が設けられていたが、二の郭は実城の崖下にあり、景勝方から撃ち下ろされる格好となった。とはいえ、景虎としても上杉家当主の象徴である実城をみすみす景勝に渡すわけにはいかなかった。景虎もまた、春日山在城中に諸将に書状を発していたようだが、現在残っているのはその返答らしきものだけである。そして、小田原の北条氏政にも救援を求める書状をこの時期に送っていたと思われる。
 双方の調略戦の結果、五月には越後諸将の旗幟がほぼ鮮明となった。景虎方についたのは上越の諸将の他、越後統一期に上杉謙信政権を支えた栃尾城の本庄秀綱、三条城の神余親綱、古志長尾家の上杉景信などであった。また、金山城の由良成繁、沼田城の河田重親や厩橋城の北条高広・景広父子など、景虎の実家である北条家と領国を接する上野の諸将が景虎に同心した。
 景勝を支持したのは、地元魚沼郡の諸将であった。中でも上田長尾家を支えてきた景勝の家臣団、上田衆が終始活躍した。越後統一後に上杉謙信に登用され、政権後半を支えた河田長親・鯵坂長実・山崎秀仙、そして上杉謙信晩年に宿老となった揚北衆の新発田長敦・竹俣慶綱なども景勝方となった。
 一門親類衆も両派に分裂し、景虎方には山本寺定長・琵琶島弥七郎・上杉景信らが、景勝方には山本寺孝長・上条政繁・山浦国清らがついた。この他、本庄繁長・顕長父子、河田長親・重親父子などのように、一族の中で両派に分裂した例もあった。
 上杉家臣団の分裂は、政権上の対立、地域的な問題、さまざまな思惑を包含した一見複雑なものであったが、もっとも根本的な要因となったのは、古来から続いていた古志長尾家と上田長尾家のライバル関係で、越後騒乱の際には、必ずといっていいほどこの問題が影響を及ぼしていた。御館の乱も例外ではなく、両家の対立が景虎と景勝の家督争いに絡んで騒乱を激化させた。
 面白いのは、越後古参の武将が北条家出身の景虎方につき、他国新参の外様衆が越後出身の景勝を推したことである。このねじれ現象は、上杉政権の中で新旧家臣団の対立があったことを示している。かつて上杉謙信を擁立した旧家臣団は、新家臣団の台頭により政権の片隅に追いやられていたが、上杉謙信が後継者と定めた景虎を支え、新家臣団に対して巻き返しを図ろうとした。また、旧家臣団は古志長尾派でもあり、上田長尾家出身の景勝を推すわけにはいかなかったのである。
 上杉謙信死去の報は、周辺諸国にもたちまちのうちに伝わった。この政治的混乱は他国にとっても越後へ勢力を伸ばす最大の好機であり、それぞれの思惑をもって越後へのアプローチを試みたのである。
 小田原の北条氏政は景虎を支援するために出陣の準備をして、甲斐の武田勝頼と会津の芦名盛氏にも出陣を要請した。弟の三郎景虎が越後の当主となれば、これまで関東制圧の上でもっとも邪魔な存在だった上杉家が親類となる上、労せずして越後にも影響を及ぼすことができるまたとないチャンスだった。
 甲斐の武田勝頼にとっても、背後に存在していた上杉家が北条家と通じて同盟関係になれば、長篠合戦で手痛い打撃を受けた織田信長・徳川家康連合軍との戦いに専念できることになる。そのため越後に兵を出すメリットはあった。武田勝頼は北条氏政の依頼に応じ、出陣の準備を始めた。
 かねてから越後奥郡に勢力を伸ばそうと画策していた会津の芦名盛氏は、上杉謙信死去の混乱を狙って越後に兵を進めたが、景勝方に撃退されてしまった。その後、芦名盛氏は北条氏政の要請に応じ、景虎方についた。
 北陸で上杉勢と戦っていた中原の雄、織田信長は、四月二十日、越中の魚津城を守る河田長親に近江の地を与えることを約し、上杉家の混乱に乗じて降誘しようした。もともと近江の武将だった長親であったが、信長に応じることはなく、景勝に臣従を誓ったのであった。

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2009.02.10

御館の乱(3) 謙信時代の上杉景勝

 上杉景勝は魚沼郡上田郷の坂戸城主、長尾政景の次男であった。母は上杉謙信の姉で、法名仙桃院である。弘治元年(一五五五)の卯年生まれであったことから幼名を卯松といった。五歳で上杉謙信の養子となり喜平次顕景と改名したが、幼少のため坂戸城で育った。景勝の兄弟は二男二女であった。嫡男義景は夭折し、長女は上条政繁に嫁ぎ、次女は上杉景虎に嫁いだ。
 上杉謙信在世中の景勝に関する史料を追うと、上田長尾家の当主としての活動が主なものであった。永禄十三年(一五七〇)二月、上杉謙信の関東出陣に従って佐野飯守城を攻略、顕景の名で二通の感状を出した。景勝一六歳のときである。元亀二年(一五七一)二月には武田信玄が駿河に侵入し、北条氏政が上杉謙信に救援を求めた際、上杉謙信は顕景に命じて、上州沼田に出陣させた。やがて武田勢が撤兵したため、顕景も坂戸城に引き揚げた。
 天正三年正月十一日、二一歳のときに景勝と改名し、弾正少弼に任ぜられた。景勝が後継者であったという説については、上杉謙信が弾正少弼の官位を譲り与えたことがその根拠となっている。ところが『新潟県史』は、これに関係する二通の上杉謙信書状が、元和六年(一六二〇)頃の景勝自筆書状と筆跡が同じであるとしている。すなわち、景勝が自己の立場を正当化するため、後年に偽作した可能性がある、ということだ。
 住居に関しても両者の待遇には差があった。景虎は越後入国直後から、上杉謙信が起居する実城の東崖下である二の郭に屋敷を与えられた。だが景勝は、養子となった後も坂戸城に留め置かれ、天正三年に景勝と改名してから、ようやく春日山城三の郭に移ることができた。三の郭は中城とも称され、そこに屋敷を構えた景勝は「御中城様」と呼ばれた。
 このように、景勝は上杉謙信の養子ではあったものの、その待遇は上杉謙信の後継者としてではなく、上田長尾家の当主としてのものであった。幼少の頃は上杉謙信も書状を送るなどしてかわいがっていたものの、景虎が登場してからは突き放された感がある。府中長尾家出身の上杉謙信が越後当主となったとき、上田長尾家は最後まで上杉謙信に抵抗した一族であり、その過去の対立構造が景勝の待遇に影響を与えていたのかもしれない。
 そのような折、景虎の風下に置かれていた景勝の立場を覆す最大のチャンスが上杉謙信の死とともにやってきた。昏睡したままの上杉謙信は遺言できぬまま息を引き取り、政治的な空白状態が春日山城に訪れた。これを逃せば、上杉謙信によってすでに後継者とされていた景虎が当主の座に収まってしまう。過去の府中長尾家と上田長尾家の対立を差し置いたとしても、北条家の血を引く景虎に越後を明け渡してしまうことは、越後出身の景勝にとって我慢ならぬことであったろう。すなわち、景勝の実城占拠は上杉政権の奪取を狙ったクーデターだったのだ。

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2009.02.06

御館の乱(2) 謙信の後継者、上杉景虎

 上杉謙信には実子がなく、景虎・景勝・義春という三人の養子がいた。景虎は相模北条家出身で、越相同盟によって元亀元年(一五七〇)四月に人質として越後に入り、上杉謙信の養子となった。景勝は上杉謙信の重臣だった長尾政景の次男で、永禄七年(一五六四)七月の長尾政景の死後、上杉謙信の養子となった。また、能登畠山家出身の義春は上条上杉家に入り、親類衆として上条政繁を名乗っていた。
 現在までに上杉謙信の後継者について残された文書は発見されていないが、一般には景虎と景勝のいずれかであったと考えられている。だが、さまざまな状況証拠から、上杉謙信はすでに景虎を後継者として定めていたようだ。
 景虎は相模小田原城を本拠とした北条氏康の七男、北条三郎である。諸書には三郎氏秀と記してあることが多いが、三郎と氏秀が別人であることは黒田基樹氏の研究により明らかとなっている。また、甲斐の武田信玄の養子になったという記述が『関八州古戦録』にあるが、これも武田側の史料がないため、確実ではない。
 永禄一二年(一五六九)、甲斐の武田信玄が駿河に侵攻したことで敵対関係となったため、氏康は上杉謙信と越相同盟を締結した。このとき三郎は上杉家の人質となり、元亀元年(一五七〇)四月、上杉謙信とともに越後に入国した。当初は北条氏政の子国増丸が人質の予定であったが、五歳と幼少であったことから三郎に変更された。北条氏政が実子を人質に出すことを惜しんだということもあるが、これまで一度として同盟関係となったことがない上杉家との取次役という大役を果たすことのできる人物が、越後に赴く必要があったのである。
 越後に入った三郎は四月二十五日に上杉謙信の姪と婚姻、同時に上杉謙信の初名を与えられ、上杉景虎を名乗ることになった。上杉謙信の姪は景勝の姉妹であり、これで景勝とは義兄弟の関係になった。
 その後、景虎は上杉謙信に対する北条家の取次役として動いていたことが、元亀元年(一五七〇)八月九日と元亀二年(一五七一)十月三日の景虎書状でわかる。内容はどちらも北条家への援軍を上杉謙信に依頼したもので、宛先は直江景綱や山吉豊守といった上杉謙信譜代の重臣であった。上杉謙信の養子であったにもかかわらず、重臣を介さなければならなかったところに、当時の景虎の微妙な立場が垣間見える。
 元亀二年、景虎の立場を揺るがす事件が北条本家で起きた。景虎の実父北条氏康が十月三日に死去し、跡を継いだ景虎の実兄北条氏政が、十二月に再び武田信玄と同盟を結び、越相同盟を破棄したのだ。上杉謙信は「表裏の仁」と有名だった北条氏政の違約を非常に怒り、ただちに北条家と断交した。養子になったとはいえ、実質的に人質だった景虎は、この断交によって国へ返されるなり、最悪の場合には殺害されても仕方がなかった。
 だが、上杉謙信は景虎を成敗することなく、引き続き上杉謙信の養子として越後にとどまらせたのである。元亀三年閏正月二十四日、景虎が謙信家臣の河田長親に、海鼠腸を贈られたことに対する礼状を発しており、また同年、上野で越年した上杉謙信に景虎が同行していたことなどから、同盟破棄後も上杉家中における景虎の立場に変化はなかったことがうかがえる。
 その後、景虎は上杉謙信の後継者として次第に認められるようになってきた。注目すべき書状が二点ある。年代が確定できないものであるが、三条本成寺宛の書状と、雲門寺宛の新年の祝儀に対する礼状である。三条本成寺には過去に上杉謙信も同様の文書を送っており、替わって書状を発するということは、景虎が上杉謙信の後継者であったことを強く示している。また、越後の三大刹といわれた雲門寺と新年の祝儀をとり交わす関係であったということは、景虎の上杉家中での位置付けが上杉謙信に比する高位であったことを物語っている。
 この他にも、御館の乱に際して上野金山城の由良成繁が景虎の家督継承を祝う書状を景虎家臣の遠山康光に送っていたり、越後一ノ宮である居多神社や上越地方の諸城が景虎方についたことも、景虎が上杉謙信の後継者として認められていた証左といえよう。『北条五代記』は「誰もが家督は三郎殿が継ぐのであろうと考えていた」と記している。
 そして、景虎が後継者であったというもっとも有力な根拠として、景虎には軍役を課せられていなかったことがあげられる。一方、景勝は上杉謙信の甥であったが、他の諸将と同様に軍役を課せられていた。天正三年二月の『上杉家軍役帳』には、「御中城様」としてその筆頭に記されている。

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2009.02.04

御館の乱(1) 謙信の死と乱の勃発

 天正六年(一五七八)三月、関東出陣を控えた越後に衝撃的な事件が起きた。三月九日に当主の上杉謙信が春日山城の厠で倒れ、意識不明が戻らぬまま、三月十三日に死去したのである。死因は景勝の書状に「不慮の虫気」とあり、脳卒中だったと推測される。
 カリスマともいうべき上杉謙信の突然の死に、上杉家臣団は動揺した。昏睡した上杉謙信の意識は息を引き取るまで戻ることなく、当然のことながら事後の指示や遺言はまったく受けることができない状態であった。世継ぎをどうするかで家中は論争となり、三月十四日、重臣柿崎晴家が殺害された。
 謙信の葬儀は三月十五日、かつて上杉謙信が川中島から招いた大乗寺長海を導師として、不穏な空気の中で執り行われた。甲冑を着せた遺骸は甕に納められ、春日山城内の不識院に埋葬されたという。享年四九。法名は不識院殿真光謙信である。
 春日山城内の混乱状態に機先を制して動いたのが、上杉謙信の養子であった上杉景勝だった。上杉謙信の葬儀が終わるや、麾下の上田衆を率いて春日山の実城(本丸)を占拠し、もう一人の養子、上杉景虎の屋敷があった二の郭に弓・鉄炮を撃ち込んだのである。
 焼香の煙も消えぬうちに突発した事変で、春日山城内は戦場となった。実城を占拠した景勝はその事情を弁明するため、三月二十四日、国内の諸将に書状を発した。その内容は、「上杉謙信公が遺言されたのだから実城へ移りなさいと皆が強く言うので、その意見に任せ、春日山の実城に移った」という主旨のものであった。
 だが、前述のように上杉謙信は人事不省で遺言できるような状態になかった。景勝が上杉謙信の後継者であることを主張し、自己の立場を正当化しようとするものであったことは明白である。ではなぜ、景勝はそのような弁明をする必要があったのか。それは、景勝が正統な後継者ではなかったからである。

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2009.02.03

家康の東部戦線(10) 高天神城攻略

 武田勝頼との戦いは有利に推移していたが、天正七年(一五七九)は家康にとって試練となる年だった。織田信長から嫡男信康とその母築山殿が勝頼に内通しているという不審を受けた家康は、信長との関係を重視し、信康を自害させたのであった。家康と信長は表面上同盟関係にあったが、この事件以降、家康は実質的に信長の方面軍司令官的な存在となっていく。
 そのような内憂の中でも、駿遠をめぐる勝頼との戦いは続いていた。四月二十五日、勝頼が高天神の国安に出陣してきたため、家康は馬伏塚へ兵を進めた。ここ数年間続いた父子での出陣はもうない。勝頼は戦わずして兵を撤収すると、家康はこれを追撃するかのように大井川を渡って駿河へ侵入、田中城を攻撃した後、浜松に帰城した。
 九月五日、家康は小田原の北条氏政と盟約し、武田氏を東西から挟撃する情勢を築き上げた。すでに北条・武田両家は関東から駿河にかけて戦端を開いており、二正面作戦を強要されることになった勝頼は、ついに全力をもって遠江へ出兵できない窮地に追い込まれた。
 遠相同盟の効果は早くも現れた。駿河の黄瀬川で北条軍と対峙する勝頼を背後から牽制するため、家康は九月十七日に掛川に出陣、駿河に兵を進め、十九日には武田家の属城である持舟城を陥れたのである。
 もはや勝頼に高天神城救援の余力がないことを確認した家康は、天正八年(一五八〇)になると、高天神城を一挙に攻略するための付城戦略に出た。駿河田中城や遠江小山城を攻めて武田勢を牽制している間に、小笠山・中村・能ケ坂・火ケ峰・獅子ケ鼻・三井山の六箇所に砦を次々と築き、高天神城の周りに深濠を掘削して柵を結び、高天神城を完全に孤立させたのである。
 家康は馬伏塚に本陣を置き、包囲戦の指揮をとった。包囲の状況は家康から安土の織田信長へ報告され、信長は検分のため猪子兵助ら四名を派遣した。事実上の軍監であり、もはや徳川軍が織田軍の一方面軍という扱いであることを象徴する事実であった。
 高天神に籠城していたのは、城将岡部長教をはじめとする軍兵一〇〇〇であった。徳川軍の包囲陣が着工されるや、長教は甲斐へ使者を送り、解囲のための援軍を要請した。
 しかし、武田軍の主力は関東で北条軍と対陣しており、後詰を差し向ける余裕はなく、九月には高天神城を後詰しないと決した。これまで高天神城を維持・補給するために続けられてきた出陣は結局、戦略的に何の意味も持たず、武田軍に大きな負担を強いるばかりだったのである。それを悟った勝頼は遅ればせながら戦略的に正しい判断を下したが、逆に信長による情報戦の好餌となってしまった。すなわち、勝頼は信長の軍勢を恐れ、出陣しないのだと喧伝されたのである。
 甲斐から援軍どころか何の連絡もなく、勝頼から見限られたという空気を察した岡部長教は天正九年(一五八一)一月、矢文で降伏の意向を家康方に伝えた。しかし、家康は降伏を認めなかった。勝頼が高天神城を見捨てた、という事実を効果的に演出するための信長の指示だったという。
 天正二年の攻略以来、武田氏の遠江における最前線基地となっていた高天神城は完全に包囲され、干殺しの形でじりじりと進んでいった。
 城内の兵糧が途絶え、もはやこれまでと見た岡部長教以下の城兵は最期の一戦と覚悟して、二手に分かれて城から打って出た。が、待ち受けていた徳川勢の返り討ちに遭い、ことごとく討死してしまったのである。家康は榊原康政・本多忠勝らに城内への突入を命じ、三月二十二日、高天神城はついに陥落した。
 特に具体的な戦略目的があったわけでもなく、武田勝頼の威厳を誇示するがために攻略された高天神城は、勝頼の威厳を完全に失墜させる形で失われたのであった。
 その効果は絶大だった。高天神城が失われた翌年、天正十年(一五八二)二月、一時は無敵とも恐れられた武田家は信長の侵攻を受け、もろくも一か月で滅亡した。家臣団の大半が高天神城を救おうとしなかった勝頼を見限ったからであった。
 一方、高天神城の攻略により、ようやく遠江を支配下に収めた家康だったが、その間、信長の命により嫡子信康を失い、独立行動権をも失った。家康は信長の同盟者であったが、武田家との戦いの中で両者の実力差は大きく隔絶し、いつしか信長の属将という立場に追いやられていたのであった。武田家滅亡後、家康は信長から駿河を拝領した。家康の心中は、いかばかりのものだったのであろうか。

(初出:学研『歴史群像』No.73 2005年10月号 「徳川家康、東部戦線の死闘」)

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2009.02.02

家康の東部戦線(9) 家康、攻勢に転じる

 この時期における高天神城の脅威は決して大きくなかったが、徳川家康は高天神城に備えるため、去る天正二年八月、小笠原氏の旧城であった馬伏塚城を修築し、大須賀康高を城将として入れていた。
 敵中に突出している高天神城に兵糧を搬入すべく、武田勝頼は遠江へ軍勢を繰り出した。天正四年三月上旬のことである。前年に諏訪原城を失った勝頼はこの出陣の際、新たな遠江進出拠点として相良城を築いた。
 武田軍を阻止するため、家康は嫡子信康とともに八〇〇〇の兵を率いて出陣、横須賀の丸山に陣を張ったが、高天神城兵と山県遺臣衆が対抗して出陣してきたため、兵糧の搬入を許してしまった。
 家康は同年八月、大井川を越えて駿河へ侵入したが、勝頼が出陣してくるという風聞を得たため、兵を引き揚げた。もっとも、天正四年は故信玄の葬儀が行われた年であり、勝頼は自重して大軍を動かすことはなかった。この時点においても、家康は武田勢との直接対決を恐れていたのである。
 天正五年(一五七七)になると、勝頼は再び遠江へ出陣してきた。二万の軍勢を動員した勝頼は八月二十五日、高天神城南方の横須賀に布陣した。西進の気配を示す武田軍に対抗すべく、家康は嫡男信康とともに兵を発して丸山に陣取り、武田勢を撃退して威勢を示した。ついに武田軍将兵の質が大きく低下していた事が発覚し、勝頼は退却を余儀なくされたのであった。
 これ以降、家康は武田軍主力を恐れることがなくなり、逆に勝頼が戦いを避けるようになったのである。十月に入ると、勝頼は再び遠江の小山城に進出したが、家康・信康父子が馬伏塚まで軍勢を進めると、戦わずして甲斐へ引き揚げてしまった。
 天正六年(一五七八)一月、鷹狩のため三河にやってきた信長と岡崎で会見した家康は、この年から積極的な攻勢に転じた。三月七日、浜松城を出馬して掛川城に入り、翌八日、大井川の河畔に陣を移すと、九日には駿河に侵入して田中城を攻撃し、外曲輪を破った。十日には遠江の牧野城に兵を引き揚げ、城を修築。三月十三日には、家康の旗本衆のみが出陣し、小山城を攻撃した。三月十八日、家康は浜松城へ帰還した。
 家康は五月四日にも駿河に侵入して、田中城を攻撃した。七月には横須賀城を築き、高天神城からの唯一の西方進出地点を封じた。以後、この横須賀城が高天神城に対する攻略拠点となるのである。
 家康は八月二十一日にも浜松を出陣して小山城を攻撃し、二十二日には駿河へ乱入して、持舟城まで攻め寄せた。九月四日には牧野城へ兵を戻し、二日後に浜松へ帰城した。
 一連の家康の攻勢に対し、勝頼が出陣することはなかった。その頃、越後で大政変が起こり、勝頼もその渦中に巻き込まれていたからである。天正六年三月に上杉謙信が急死、養子となっていた上杉景虎と上杉景勝との間で謙信の跡目をめぐる争乱が勃発した。いわゆる御館の乱である。北条家と同盟を結んでいた勝頼は、北条家から養子に入った景虎を助けるため、五月二十九日に越後国境まで兵を進めた。
 ところが、景勝の破格の和睦条件を受諾して兵を引いたため、景虎を見殺しにする結果となり、これに憤った氏政は勝頼と断交した。勝頼は上杉家と同盟したが、その代償として徳川氏だけでなく北条氏も敵に回し、二正面作戦を余儀なくされたのである。
 越後から戻った勝頼は十一月、大井川を渡って遠江に進出し、相良に陣を張った。家康父子は三日に馬伏塚城に入り、横須賀城に迫った武田軍を邀撃する態勢を整えた。この徳川勢の動きを見た勝頼は高天神城に軍を引き、十二日には合戦することなく甲斐に帰国した。勝頼の撤収を確認した家康もまた、二十五日に浜松に帰城した。

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2009.02.01

家康の東部戦線(8)  長篠の合戦

 天正三年四月末、武田勝頼は三河長篠城を奪回しようとこれを包囲し、激しい攻撃をかけた。徳川家康は織田信長に救援を要請。信長は今度こそ武田勢を撃破せんものと、設楽原に布陣して巧妙なる馬防陣地を構築し、武田勢を待ちうけた。
 果たして、勝頼は五月十九日に一万五〇〇〇の軍勢を率いて設楽原に進出し、決戦を企図して織田・徳川連合軍三万八〇〇〇に対峙した。
 五月二十一日、勝頼は麾下に突貫を命じたが、織田・徳川連合軍はあらかじめ準備していた大量の鉄砲を駆使して迎撃し、攻め寄せる武田軍を完膚なきまでに撃破した。武田勢は馬場信春・山県昌景・内藤昌豊ら、信玄以来の重臣多数が討死し、勝頼は命からがら甲斐へ落ち延びるという大敗北を喫したのである。
 長篠の合戦後、有利な情勢に転じた家康はこの機を逃さず、遠江で攻勢に出た。武田勢によって奪われた失地を回復しようというのである。
 遠江に戻った家康は五月末、二俣城の攻略に向かい、鳥羽山・毘沙門堂・蜷原・和田島に砦を築き、二俣城を取り囲んだ。
 二俣城を守るのは依田信守・信蕃父子であった。信守は六月下旬に病死したが、信蕃が跡を継ぎ、引き続き二俣城を固く守っていた。天険を利した二俣城は落城の様子を見せなかったため、大久保忠世らに攻城を任せ、家康は浜松に帰陣した。
 家康は六月二日に駿河へ侵入すると、各地に放火して回った。七月には諏訪原城に軍勢を出して強襲したが、城将の室賀昌清と小泉忠季がよく防いだため、なかなか陥落しなかった。
 だが八月二十四日、松平忠次の奮戦により、諏訪原城は陥落した。城を守っていた室賀昌清と小泉忠季は諏訪原城を落ち、小山城へ向かった。家康は忠次を賞して城主とし、牧野城と名を改めた。諏訪原城の攻略により、家康は駿河への侵攻ルートを確保したことになる。
 続いて家康は、大熊長秀が守る小山城を囲んだ。遠江侵攻のため大井川西岸に築かれた橋頭堡であり、ここを奪回すれば、高天神城は孤立する。
 ところが、勝頼が二万の大軍を率いて駿河に出兵してきた。かき集めた兵は一二、三歳を過ぎたばかりの少年や還俗した者などで、長篠のダメージは癒えていなかったが、東海道筋の要衝諏訪原城を失い、さらに小山城まで囲まれたとあっては、出陣しないわけにはいかなかった。
 長篠で打ち破ったとはいえ、一万に満たない徳川勢だけでは形勢の不利は免れなかった。家康は小山城の包囲を解き、牧野城に軍勢を後退させた。
 さて、徳川勢に包囲された二俣城に籠城していた依田信蕃は、危急を甲州に報じたが、長篠のダメージはあまりに大きく、救援の兵を出すことができなかった勝頼は十一月、二俣城を開城して甲斐へ後退せよと命じる書状を送った。信蕃は勝頼の命に従い、攻城軍の大久保忠世に開城を申し出た。報告を受けた家康はそれを認め、信蕃は十二月二十四日に二俣城を明け渡し、甲斐に帰国した。後に信蕃は家康に仕え、甲斐・信濃平定戦で大いに活躍することになる。
 天正四年(一五七六)になると、家康は二年前に攻略できなかった犬居城へ向けて兵を出した。まず樽山城を落として信州からの援路を断った後、犬居城に向けて兵を繰り出すと、守りきれなくなった天野景貫は犬居城を捨て、甲斐へ落ちていった。
 犬居城の奪取により、東遠江における家康の失地は回復し、武田軍の信州方面からの脅威はなくなった。この後、家康にとって最大の課題となったのは、西遠江に残る武田方最大の拠点、高天神城の奪回であった。
 さらに家康は、駿河への本格的侵攻に向けて準備を進めていった。その最大の布石が、今川氏真の招聘だった。家康は駿河旧主という氏真の地位を利用して、駿河侵攻を正当化しようとしたのである。掛川開城の条件だった駿河回復を実現するという名目もあっただろう。
 家康は氏真を駿河国境に近い牧野城に迎え入れると、三月十七日、牧野城主松平家忠に対し、氏真の擁護と丁重な対応を命じた。以後、氏真は徳川氏の客将として武田氏滅亡の頃まで牧野に在城し、「氏真衆」という独自の家臣団まで編成したのである。

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2009.01.31

家康の東部戦線(7) 武田勝頼の高天神城攻略

 信玄死去の混乱に乗じて長篠城を奪われた勝頼は、その屈辱を晴らすべく、五月に二万五〇〇〇の兵を率いて甲府を発した。こちらは満を持しての出陣である。
 その進撃先は三河ではなく、遠江であった。武田軍は駿河を経て大井川を渡り、遠江に侵入すると五月十二日に高天神城を囲んだ。これは元亀二年における信玄の行動を模倣したものであったが、勝頼は全兵力をもって攻撃を開始したのである。
 城の北西には穴山梅雪が布陣し、駿河先手衆は、西郭の西方にある「犬戻し猿戻し」から兵を寄せた。南の大手には内藤昌豊と山県昌景、搦手には信濃先手衆が展開した。東は天険で、兵で取り巻いているだけであった。
 武田軍は鉦・太鼓を打ち鳴らし、喊声を上げて一斉に高天神城に攻めかかった。しかし、城兵は弓矢と鉄砲でよく防戦に努めた。大手に攻め上っても池が障害となり、しかも東西の郭から挟み撃ちの格好で弓矢と鉄砲に射ち込まれたため、武田勢は攻めあぐね、多くの死傷者を出したが、城兵の損害はわずかだった。
 勝頼は高天神城を強攻する一方、穴山梅雪を使者として、城主小笠原長忠に対し開城の交渉を進めた。和戦両面の構えである。
 二〇〇〇の兵とともに籠城していた小笠原長忠は、和議交渉に応じるそぶりを見せて時間を稼ぎつつ、家臣の匂坂牛之助を浜松城の家康のもとへ送り出し、後詰を求めた。
 二万五〇〇〇の武田勢に対し、徳川勢はせいぜい一万程度であり、単独で対抗するには無理があった。家康は再び、織田信長に援軍を要請した。
 京都にいた信長は家康からの注進を受け、ただちに岐阜へ帰国、軍兵を召集すると、六月十四日に岐阜を出陣し、十七日には三河の吉田に到着した。
 武田勝頼は小笠原長忠に対し、降伏開城すれば、駿河に新たな所領を与えることを条件とした。長忠は援軍を待っていたが、いつになっても到着する様子はなかった。高天神攻防戦も六月に入ると西郭が陥落し、井戸曲輪も占領され、長忠にとって不利な状況になってきていた。
 一方、勝頼の方にも織田・徳川勢の後詰が迫っているという報は入っていた。そこで援軍が到着する前に決着をつけようと、勝頼は長忠に駿河富士郡に一万貫の所領を与えるという破格の条件で交渉したのである。
 攻防一か月が過ぎても、援軍は姿を見せなかった。長忠は家康に見捨てられたと判断し、ついに六月十七日、勝頼から提示された条件を受け入れて開城したのであった。
 織田勢は浜名湖に面した今切を渡ろうとしたところで、信長は高天神落城の報に接した。六月十九日のことである。このため、信長はやむなく軍勢を吉田城に戻した。高天神城の陥落はこの時点における徳川家の軍事力の限界を改めて示す事件であり、家康にとって大きな失点となった。
 開城後、高天神城には長忠に代わって武田方の武将、横田尹松が城番を命じられ、軍兵一〇〇〇を率いて入城した。
 高天神城を攻略したにもかかわらず、武田家には重苦しい空気が流れていた。
「三年間は攻勢に出ることなく国力の充実に努めよ」という信玄の遺言に従わず、高天神城を攻め落とした勝頼に対して、重臣の高坂昌信や内藤昌豊が苦言を呈し、軽慮を諫めた。すると、勝頼側近の長坂長閑と跡部大炊助が反論し、両者の間で激論となった。
 前述した通り、高天神城は故父信玄が落城させることのできなかった城であった。戦略的には元亀三年に信玄が行動した通り、勝頼も見付方面に兵を出して掛川・高天神両城を孤立させるべきであった。だが、それでは信玄の作戦を模倣したに過ぎないとみなされ、勝頼の実力が家中に認められることはなかった。信玄にできなかった高天神を落城させることで、重臣らに勝頼の実力を見せつけ、家督代行から家督として認めさせる必要があった。勝頼が高天神城で戦っていたのは家康でなかった。勝頼の実力を認めようとしない重臣たちだったのである。
 このような事情があったから、もとより勝頼の高天神城攻略に戦略的な意図があったはずもなかった。あるとすれば、諏訪原城・小山城等、遠江に築いた橋頭堡を西方に推進させた程度のものであろうか。
 高天神城攻略により、浜手の横須賀街道を押さえることはできるだろうが、もっとも重要な主要街道である東海道の押さえとはなりえない。後述の通り、勝頼が高天神城を攻略した後も、度重なる家康の駿河侵攻には何の障害にもなっていない。東海道を制するという意味であったら、諏訪原城の方が戦略的重要性を持っていたのである。
 では、遠江進出の橋頭堡になりうるかというと、そうでもない。これもまた後述する通り、掛川と横須賀を押さえてしまえば容易に武田勢の西進を抑えることができるのだ。もし、高天神を遠江支配の拠点とするならば、掛川も攻略しなければ機能しないのである。ある意味、勝頼は遠江の袋小路に入ってしまったともいえる。
 そして、武田家臣団は深刻な対立を抱えたまま、天正三年(一五七五)五月二十一日の長篠合戦を迎えることになる。

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2009.01.30

家康の東部戦線(6) 信玄の死と勝頼の立場

 天正元年(一五七三)となり、三河に入った武田信玄は、二月十一日に野田城を攻略した。ところが突然、武田軍は信州へ帰国する道をとった。
 上洛を表明していた信玄の不可解な行動に不審を得た家康は、いったん浜松に帰還して情報の収集に努めた。すると四月十二日、信濃の駒場で信玄が没したという。その事実を確認するため、家康は積極的な行動に打って出た。五月九日、大井川を渡って駿河に侵入すると、岡部・久能・根古屋、さらに駿府にまで進出し、城外に放火して回った。武田氏に対する徴発、出兵させることを目的としたものであったが、武田軍が出てくることはなかった。
 駿河から掛川城に帰還した家康は、反転して三河方面も偵察した後、岡崎城に戻った。六月には武田軍に奪取された二俣城に備えるため、社山城を修築して兵を入れている。三方ヶ原の合戦で敗れ、所領を侵された家康は、その強敵の死によって絶体絶命の窮地を救われた。
 上杉謙信からの情報により、信玄の死が確実なものであることを確認した家康は七月二十日、信玄に調略で奪われた長篠城の奪回に出た。奪取したばかりで籠城の準備ができていなかった守将室賀信俊らは九月八日に城を明け渡し、退散してしまった。長篠城は徳川方の城となり、武田氏は東三河の拠点を失った。
 武田信玄の死去により、武田家の実質的な支配権は信玄の四男、勝頼が握ることになった。しかし、その立場はあくまで家督の代行であった。信玄以来仕えてきた重臣の多くは、諏訪家の後継者となるべく育てられてきた勝頼に対して懐疑的であり、事あるごとに勝頼に異議を唱えた。
 ここに家臣団体制の問題が露呈してきた。彼等がこれまで信玄に心服してきたのは信玄の人間的な魅力とカリスマ性であって、武田家そのものに臣従していた訳ではなかったのだ。信玄の死により、武田家臣団は国人衆の集合体に戻ってしまった。未だに亡き信玄に心服している彼等を服属させるためには、勝頼自身が戦場で信玄を上回る結果を出すしかない。勝頼はそう考えたのである。
 十一月に入ると、勝頼はこれまでの家康の行動に報復すべく、一万五〇〇〇の兵を率いて甲斐より出陣した。駿河を経て大井川を渡り、遠江に入って諏訪原城を築いた。この地は駿河方面から遠江に対する橋頭堡となる位置であり、掛川、高天神いずれにもアプローチできる位置にある。戦略的に見事な着眼であった。
 武田軍は掛川城下に進み、放火して回った。このとき勝頼は、要害堅固な掛川城を見て、容易に落ちる城ではなく、無理に攻め落とす必要はないと判断した。しかし、掛川城の重要性はこれまでに述べた通りである。この時点で、勝頼は重大な判断ミスをしたことになる。掛川城は確かに容易に落とすことのできない城であったが、この優勢な時期に是非とも攻略しておかなければならない城でもあった。勝頼が攻略すべき城は、高天神でも長篠でもなく、この掛川だったのである。
 さて、掛川城を攻めることなく西へと向かった勝頼は、久野城下にも放火して見付に陣を張り、天龍川を渡って浜松城を攻めようとする気配を見せた。しかし、徳川勢の防備が固いため攻撃に出ることなく、二俣・犬居・天方・只来などの諸城の守りを固め、徳川勢に備えた後、甲斐に引き揚げていった。 
 すると家康は、勝頼が撤収するのを見計らうように兵を出した。天正二年(一五七四)三月、再び駿河に侵入すると、田中城外を検分して回ったのである。家康の行動は、いかにも勝頼を挑発するかのようであるが、信玄亡き後とはいえ、この時期は明らかに武田軍の方が優勢であり、家康としては敵の虚を衝いてのゲリラ的な作戦しか取れなかった。また、勝頼が全軍を率いて美濃へ出陣、織田方の明智城を攻略しており、その牽制の意味もあった。
 浜松に戻った家康は北遠州に軍勢を発し、天方城を奪回、四月には犬居城を攻撃した。この城を攻略して、信州からの入口を一気に閉じてしまうことで信濃方面からの武田軍の進出を封じようという作戦だったが、十分に兵糧を準備しなかった上、降雨による出水で身動きが取れなくなってしまった。
 水がおさまったところで家康本隊は御蔵の砦まで後退したが、このとき犬居城主の天野景貫が追撃してきたのである。しかも、景貫に同調した地侍が伏兵となり、あちこちの山裾や木陰から弓矢・鉄砲を撃ちかけてきたため、徳川勢に少なからぬ損害を出し、ついに敗走したのであった。この時期の家康は意外と軽率な行動が多く、武田方としても付け入る隙はいくらでもあったといえよう。

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2009.01.28

家康の東部戦線(5) 三方ヶ原の合戦

 伊那に引き揚げた武田勢は四月に入ると、信州から南下して三河へ侵入した。以後、対武田戦線は遠江から三河まで広がり、家康は文字通り東奔西走しての苦戦を強いられることになった。
 この武田軍の動向に対し、織田信長は「浜松を放棄して吉田に退き、三河の守りに専念すべきである」と家康に助言した。武田信玄と同盟を結んでいた信長は、家康の遠江進出で信玄を刺激することを恐れていたのだ。
 だが、家康は「浜松を捨てるくらいなら武士を捨てる」と信長の助言を拒否した。この頃の家康はまだ信長と同格の戦国大名として、そのような強い態度に出ることもできた。
 武田軍との戦いの中で、家康にとって最大の危機となったのは、元亀三年(一五七二)十二月の三方ヶ原の合戦だった。信長と対立していた一五代将軍足利義昭の画策する反織田包囲網に加わり、上洛を標榜した信玄は、すでに信長と戦っている石山本願寺や浅井・朝倉両家と連絡を取り合い、事実上の戦略指導者として諸勢力に指示を与えると、十月三日に甲府を出馬した。
 二万五〇〇〇の武田軍は、信州伊那口より天龍川沿いに南下して青崩峠を越え、遠江に乱入、犬居城の天野景貫を降誘し、信州方面からの遠江侵攻路を確保した。さらに只来城・天方城・飯田城を次々に落とし、犬居城から平野部に至るルートを確保すると、東海道筋に出て各和城を攻略し、浜松城と掛川城との間の交通を遮断した。久野城にも攻撃を加えたが、城主久野宗能がよく防戦したため、武田勢は攻撃を中止、木原・西島のあたりに陣を張った。武田軍の物見に出た徳川勢の一隊は、三箇野で武田勢と接触し、一言坂まで追撃を受けたものの、徳川方の将、本多忠勝が活躍し、無事帰還した。
 ここまでの信玄の一連の行動は上洛作戦のためではなく、東遠江制圧を目的としていたことは明らかである。犬居城は見付方面を直撃する最短ルートであるし、高天神方面から横須賀・馬伏塚を経由する、いわゆる遠州横須賀街道は袋井に集約していた。木原・西島に布陣すれは東海道だけでなく、この街道も封じることができた。東海道筋の城を奪い、見付前面の木原・西島を押さえ、浜松から東遠江に通じる道を断つことで、信玄は掛川城及び高天神城の孤立化を図っていたのだ。
 実はここに、東遠江攻略の答えが潜んでいたのであった。もしここで信玄が東に進路を変え、半年の作戦期間中、東遠江攻略に専念していたと想定するならば、掛川城は孤立したままなすすべもなく陥落していたであろうし、後年の状況から推測して、高天神城に孤立した小笠原長忠も救援なく、降伏していたであろう。
 そうなれば、以後の遠江情勢も大きく変わることになる。掛川を支配すれば、駿河方面と信濃方面の連絡路が一本化し、西方への侵攻ルートが短縮される。また、相良から掛川、秋葉を経由して信州の塩尻に至る「塩の道」が機能するようになる。塩は重要な戦略物資である。掛川は遠州支配の戦略拠点だけでなく、信州支配にも必要な拠点のひとつだったのである。
 だが、このときの信玄の目的は織田信長の打倒であり、そのための西上であった。一言坂で徳川勢を追い払った武田軍は、天龍川沿いに北上した。途中の匂坂城を落として穴山梅雪を置き、合代島に布陣すると、中根正照の守る二俣城を攻めた。十月下旬のことであった。天然の要害である二俣城の攻略には約二か月を要したが、水の手を切ったことにより城兵が降伏開城したため、十二月十九日に武田方の城となった。信玄は重臣依田信守・信蕃父子を城番として置いた。
 この間、家康はまったくなすすべのない状態であった。織田信長から宿将佐久間信盛以下三〇〇〇の援軍が到着していたが、徳川勢八〇〇〇と合わせても武田勢に対して劣勢であった。にもかかわらず、家康は信玄の挑発に乗って浜松から打って出た。十二月二十二日夕刻、三方ヶ原で合戦となり、大敗した家康は、命からがら浜松城に退却した。信玄はこれを追撃することなく西進を続け、引佐郡刑部に陣を張り、越年したのである。

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2009.01.26

家康の東部戦線(4) 武田軍に侵掠される遠江

 元亀元年(一五七〇)九月、家康は三河の岡崎城を嫡子信康に譲り、遠江に本拠地を移した。遠江の支配強化だけでなく、氏真と約した駿河侵攻をも見据えた移転である。もっとも、家康には本心から氏真のために駿河を奪取しようという気はない。
 はじめは遠江の中心に近い見付に築城を開始したが、水利が悪いことを懸念し、引馬城の改築を決定、竣工後に浜松と名を改めた。
 この年、家康は初めて上洛し、金が崎の戦いや姉川の戦いなど、畿内で信長と行動を共にすることが多かったが、駿河を確保して、さらに勢力を遠江へ伸張しようとする信玄の脅威に直面していた。
 そこで家康は帰国後、越後の上杉謙信と盟約を結んだ。十月八日のことである。信玄の脅威に対抗するためであったが、信玄と同盟していた信長との関係にも影響を与えかねない事態でもあった。その頃はまだ、家康が信長に気兼ねすることなく、独自の判断で外交することができたということでもある。
 信玄は徳川・上杉同盟を知ると、ただちに家康と断交し、元亀二年(一五七一)、二万の軍勢をもって遠江へ侵攻した。二月二十四日に大井川を渡り、小山城を奪取、滝堺城を築き、遠江侵攻の橋頭堡を確保すると、その橋頭堡を一気に西方へ拡大すべく、高天神城へ軍勢を進めた。東海道筋はすでに諏訪原城で抑えていたことから、今度は海岸沿いのルートを制圧し、製塩拠点だった相良を確保しようというものであった。
 また、これは掛川孤立化の一環だったともいえよう。先に家康が攻略に苦労していたことからも明らかなように、掛川城は強攻で容易に落ちる城ではなかった。高天神城を攻略すれば、掛川城の東面と南面は武田勢に直面し、徳川方は掛川城に対し西方の見付方面からしか連絡できないことになる。
 武田軍を迎え撃ったのは、小笠原長忠だった。信州小笠原家の血を引く名族で今川家に仕えていたが、今川滅亡後は家康の麾下にあり、二〇〇〇(一〇〇〇とも)の兵で高天神城を守っていた。
 三月五日、遠江に出陣した信玄は塩買坂に陣を張り、重臣の内藤昌豊に命じて高天神城を攻めたが、長忠はよく防戦に努め、急崖に囲まれたこの要害を落とすことはできなかった。
 高天神城の防備のほどを確認した信玄は、攻略に執着することなく兵を引いた。いわゆる威力偵察である。
 先年の関東出陣のときなど、信玄の攻城法として多用していた事例だ。そして、守りの強固な城に対しては、戦略的な孤立化を計り、自落を待つ。信玄の常套手段であった。翌年、信玄は高天神城に対し、そのような孤立化を狙った行動に出たが、信玄が落とすことのできなかった城ということで、この後、高天神城が遠江の要害としてクローズアップされることになったのである。
 さて、高天神城から離れた信玄は、南信濃の伊那方面に引き揚げたということであるから、駿河経由ではなく、信州街道を使って掛川城下を通過したものと思われる。
 この時代、敵城下を通過するというのは、城兵が積極的な阻止行動に出ない限り、比較的容易であった。だが、通過できるからといって、その地域を支配しているわけではない。地域を支配するためには、拠点となる城を確保しなければならないのである。
 おそらくこのとき、信玄は掛川の堅城ぶりをその目で確認したことであろう。城将石川家成は、掛川城兵だけで二万の武田勢をくい止めることはできず、城門を閉じて守りを固めるしかなかった。

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2009.01.25

家康の東部戦線(3) 掛川攻城戦

 家康はこれまで通り小笠原父子に高天神城を任せると、今川氏真が籠る掛川城の強襲に出た。
 初戦は十二月二十七日、徳川軍が掛川城を包囲して攻め寄せ、城下に火を放ったが、朝比奈泰朝は自ら出馬してこれを迎え撃ち、徳川方の武将石川数正と槍を交えた。城兵の士気は旺盛であった。翌日、家康は見付まで兵を引き、両軍は対峙したまま越年した。
 見付で永禄十二年(一五六九)を迎えた家康は一月十二日に再び掛川へ進出、天王山の古掛川城を占拠した。すると一月二十三日、天王山を奪回せんものと掛川城兵が打って出て、両軍の間で激戦となった。
 掛川城が容易に陥落しないと判断した家康は、天王山に本陣を置き、二月に入ると青田山・二藤山・金丸山等に砦を築いて、掛川城と外部との連絡を絶った。これから後、家康が攻城戦で多用する付城戦略の嚆矢である。
 三月四日、家康は麾下に命じ、三たび掛川城を強襲した。本多忠勝・松平家忠ら旗本勢が先陣となって攻撃したが、依然として城兵の守りは堅く、徳川軍に多くの死傷者を出したため、家康は兵を引き、包囲戦を継続した。
 ところが、攻城開始から五か月余り経ちながら、掛川城は落城する様子もなく、さすがに家康も焦りを覚えた。このまま攻城戦が長引けば、せっかく降誘した遠江国衆が家康の器量を見限り、離反しないとも限らないのである。
 この間、さらに家康を焦慮させる事態が発生した。武田家の武将である秋山信友が見付に陣を張り、遠江へ侵攻する気配を示したのである。しかもこのとき、信友は遠江の国衆に対して降誘工作を開始していたという。
 また、同じく武田家の武将である馬場信春が遠江進出の策源とすべく田中城を改築し、東海道筋から大井川を越えて遠江へ侵入したともいう。
 いずれの事件も大井川を境にして駿河を武田家、遠江を徳川家で分割するという盟約に反する行為であり、家康としては信玄の意図に不審を抱かざるを得なかった。家康は信玄に抗議したというが、現実問題として掛川城を確保できなければ、武田勢の遠江進撃を阻止することができないことは明らかだった。
 そしてこれらの事実はまさに、高天神城が東遠江の要所たりえなかった証拠でもあった。先に高天神城を支配した家康だったが、武田勢の遠江進出を食い止めることはできなかったのである。
 家臣らの進言もあり、ついに家康は氏真と和議の交渉を開始した。その条件は、「掛川城を明け渡せば、駿河から武田を駆逐した後、駿河を氏真に返還する」というものであった。これはこれで、明らかに武田家との盟約に反する内容であったが、現に武田勢の侵犯を受けていた家康としては、そのような事にかまっていられないほど事態が切迫していた。
 一方、掛川城内も五か月の籠城で限界に達しつつあったため、家康の提示した条件が実現するかどうかわからないような内容だったにもかかわらず、氏真はこれに応じ、五月十七日に開城した。氏真は妻の故郷である小田原北条家を頼り、掛塚湊から海路駿河の蒲原を経由して、伊豆戸倉城に落ちていった。戦国大名としての今川家は、この時点をもって滅亡した。
 ようやく東遠江の要衝、掛川城を確保した家康は、譜代家老の石川家成を城代として入れた。家成は家康の従兄弟で、家康がもっとも信頼を寄せていた家臣の一人だった。家康の本拠地である西三河衆の旗頭を務めていた家成をわざわざ外してまで掛川城代にしたということは、遠江支配に際して掛川を非常に重視していたということになる。
 以後、家成は守将として武田軍の攻撃に晒されることになるが、この遠江の要衝を守りきり、地味ながら非常に大きな貢献をしている。
 さて、永禄十二年五月十七日に掛川城を攻略した家康は、服属した遠江国衆や今川旧臣に所領の安堵や新たな知行を宛がい、この年のうちに遠江全域を制圧することには成功した。
 一方、駿河に侵攻した武田信玄は今川勢だけでなく、今川方に立った相模の北条氏康とも戦いを交えていた。このため、永禄十二年の間は関東方面へ出陣し、北条氏の本拠地である小田原城まで攻め寄せた後、帰国途中の武田勢を追撃しようとした北条勢を三増峠で返り討ちにしている。

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2009.01.23

家康の東部戦線(2) 家康の遠江侵攻

 三河の徳川家康が甲斐の武田信玄と盟約を結び、今川領へ侵攻したのは、永禄十一年(一五六八)十二月十二日のことだった。家康の東部戦線が動き出した瞬間である。
 今川家は義元の時代まで、駿河・遠江・三河の東海三国を領する、当時最大級の戦国大名であった。しかし、永禄三年(一五六〇)に突発した桶狭間の戦いで義元が敗死し、その嫡子氏真が家督を継いでから、今川家の勢威は大きく低下していた。
 家康にとって今川家は元の主筋であったが、桶狭間戦後に三河へ帰還、独立を果たし、永禄五年(一五六二)に尾張の織田信長と同盟したため、三河統一後の進路は、必然的に遠江へと向けられた。
 一方、信玄にとっての今川家は甲相駿三国同盟の一角であり、嫡子義信の妻の実家であった。信濃をほぼ制圧したものの、その先の進路に行き詰った信玄は南進、すなわち弱体化した駿河への侵攻を画策した。ところが義信は強く反対し、信玄に対する謀反さえ企んだ。義信の密謀が発覚し、内紛を恐れた信玄は、義信とその麾下の家臣を粛清しなければならなかった。そのような代償を払ってまで、信玄は駿河侵攻の道を選択したのであった。
 それぞれの事情を抱えながらも、今川領侵攻で利害の一致した家康と信玄は、それぞれ遠江と駿河へ同時に兵を進めた。
 なすすべもなく駿府を落ちた氏真は遠江に入り、重臣朝比奈泰朝の守る掛川城に籠城した。十二月十五日頃のことである。
 これは、十二月十八日に引馬城(後の浜松城)に入った家康にとって大きな誤算だった。
 遠江は今川家に支配された属領であったが、その影響力の低下により、遠江の国衆は次々に徳川家に降り、「遠州錯乱」と呼ばれるような状況に陥っていた。家康にしてみれば容易に制圧できる状況だったが、よりによって遠江でもっとも堅固な要害に今川家の当主が入城してしまったのである。
 掛川城は応仁元年(一四六七)、駿河守護の今川義忠が重臣朝比奈泰煕に命じ、遠江への進出拠点として天王山に築城させたのがはじめという。これが古掛川城であった。その後、遠江の斯波氏と同盟した信濃小笠原氏の侵攻にも備えるため、今川氏は天王山の南西五〇〇メートルほど離れた龍頭山に新城を築いた。「塩の道」と呼ばれた信州街道と東海道が合流する拠点を押さえるためでもあった。そしてこの新城が、氏真の籠城した掛川城であった。
 南アルプス山系と小笠山系の隘路にあり、東海道をダイレクトに押さえている掛川城を攻略しない限り、家康はこれ以上東進できない。掛川城は、東遠江を支配するためには避けることのできない要衝であった。
 東遠江へ進出するもう一つのルートは高天神城方面であったが、西方からの攻撃は小笠山系が障害となっていた。高天神城に攻め寄せるとすれば、浜手から、あるいは掛川方面からいったん城の東側に回り込み、それから囲むしかないのである。
 幸い、家康は遠江侵攻初期の段階で高天神城を攻撃せずにすんだ。今川家を見限り、家康に降った遠江国衆の中に高天神城主の小笠原氏興・長忠父子がいたからである。
 家康は労せずして高天神城を確保したが、東遠江を支配する上での決定的要因とはならなかった。高天神城を手中に収めたことで浜手の街道筋を制することはできたが、これだけでは、より重要性の高い東海道筋を確保することができなかったからである。
 これが、高天神城の地勢的な弱点だった。掛川城は東遠江の北方を押さえ、高天神城は南方を押さえていた。掛川城と高天神城は東遠江を支配する上で一対の関係にあったのだが、東海道を押さえる掛川城の方が戦略的重要性が高かったのである。

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2009.01.21

家康の東部戦線(1) 高天神城は本当に戦略拠点だったのか?

 遠江の東南部に位置する高天神城は、標高一三二メートルの高天神山(鶴翁山)に築かれた城で、本丸を中心とした東峰と、西側の神社を中心とした西峰の、東西二つの峰を主郭とする一城別郭式の城郭である。明応~文亀年間(一四九二~一五〇四)頃、遠江進出を狙った駿河の今川氏が遠江の斯波氏に対抗するため、築城したという。
 遠江における徳川家康と武田勝頼の戦いは、天正二年(一五七四)の勝頼による高天神城攻略を契機として激化していった。徳川方の拠点であったこの城を勝頼が奪取したことにより、家康は総力を挙げてその奪回戦に出ることになる。
「高天神を制する者は遠州を制する」とは、城郭案内等に必ずと言っていいほど出てくるフレーズである。が、本当にそうなのであろうか。このフレーズを目にする度に、いつももたげてくる疑問がこれだった。
 その根本的な原因は、高天神城の持つ戦略的な位置づけが明確になっていないことにある。どの資料にも、高天神城は「遠江支配の要である」と記してある。中には「駿河・遠江・三河を結ぶ拠点」とまで記しているものまであるが、具体的にどのような要衝なのかがどれも明確でない。そこで自分なりにそれを明らかにしようと思ったのだが、史実を検証し、地図で確認しても、戦略的に重要な位置にあるとは思えないのである。
 後に詳述するように、たしかに家康は最終的にこの城を制することで遠江を支配下においたが、それは明らかに勝頼の敗色が濃厚になってからのことだった。つまり、落ちるべくして落ちてしまっているのである。
 ところが、先に高天神城を攻略した勝頼は遠州を制するどころか、これを契機とするように滅亡の坂を転げ落ちていった。当時、勝頼の方が明らかに勢力が優勢だったにもかかわらず、である。勝頼にとってみれば、高天神は遠州を支配する要ではなかったということになる。
 となると、果たして本当に高天神城を制することが遠州制圧に必要な条件だったのだろうか、という疑問に行き着くことになる。勝頼が遠江を支配するために必要な真の戦略とは、いったい何だったのだろうか。そして劣勢であったはずの家康はどのようにして遠江を制圧していったのか。それを明らかにするためには、家康の遠江侵攻の頃まで振り返らなければならない。

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2009.01.10

手取川の合戦(9) 毛利との東西挟撃戦を企図していた謙信

 織田勢を撃退した謙信は軍勢を七尾城に返したともあり、そのまま手取川を渡って大聖寺のあたりまで進んだともいう。しかし、水手の地形を苦手とする謙信が増水している手取川を渡って大追撃戦を実施したとは、どうにも考えがたい。合戦から三日後の二十六日には七尾城に戻り、鍬立て(城を攻略したときに旧城を破壊し、新規に築城を始める普請はじめの儀式のこと)のために初めて登城している。となれば、織田勢を手取川に追い落とした後、ただちに七尾城へ返したと考えるのが妥当だ。
 七尾落城から手取川の戦い、そして初登城までの模様は、当時厩橋にいた北条高広・景広父子にあてたといわれる書状に記されている。謙信らしい長文で緻密な描写の書状である。実のところ、手取川の戦いの様子が記された良質の資料はこの書状しかないといってよい。戦いの様子もここから推定していくしかない。『信長公記』には「北陸の加賀に出陣した兵は国内の作物を薙ぎ捨て、御幸塚城(小松)の普請を強化して、佐久間盛政を入れた。大聖寺城も普請して柴田勝家の兵を入れた」というようにあっさり記されているだけである。これもまた太田牛一の記述には珍しい。このようにあっさりと記された戦いはもう一つ、三方が原の戦いである。牛一は謙信と信玄に敗れた二つの戦いを記録に残したくなかったのではあるまいか。
 しかし、手取川の戦いの実相はこれまで記してきたとおり、『信長公記』にあるように単純なものではない。反織田同盟の一角としての謙信が織田勢に圧勝したことで、反織田同盟の戦意を大きく高めたのである。絶妙のタイミングで謀叛を起こした松永久秀は、織田勢に攻め滅ぼされるまで抵抗を続けた。翌天正六年の春には、播磨三木城の別所長治が織田家から離反した。これに応じて毛利輝元が播磨遠征を実施に移した。いずれも、謙信が織田勢を撃破し、いよいよ上洛するという期待からであった。
 残念ながら天正五年のうちに謙信が上洛することはなかった。手取川の戦いを終えて七尾城に戻った謙信は諸国の仕置を済ませた後、越後春日山城へ帰国した。十二月十八日のことである。上杉勢の大半は前年の七尾城包囲から、事実上一年にわたって国を離れていた。その消耗は相当のものだったろう。いったん越後へ戻って英気を養い、来春以降に出陣、と謙信が考えたのも無理はない。その目標は関東であったとの説が有力である。
 しかし、謙信は実のところ上洛戦を実施するつもりだったのではないかという可能性を否定しきれない。十二月二十三日、謙信は麾下の将八〇余名の名をしたためている。次の出陣における動員の台帳であるといわれている。そこには旧来からの越後諸将に加え、越中の神保、能登の遊佐・温井ら、一向宗の瑞泉寺・勝興寺といった新参の名が多く見られる。書き出しは厩橋の北条父子だが、北陸の将の方が比較的多い。ここから、さらなる北陸進撃を意図していたとも考えられる。これに加え、謙信は出陣を天正六年三月十五日と定め、諸将に参集を命じた。この出陣の日が、播磨の別所長治が三木城で反旗を翻したときとほぼ同じであった。天正五年春、雑賀征伐に出た信長の虚をついて東西から挟撃しようという、毛利輝元が謙信にあてた書状も残されている。これを翌春の実施に決めたのではないか。
 以上の状況から、謙信は輝元と東西相応じて信長を攻めるつもりだったのではないかという推測も成り立ってくる。晩年の謙信は戦術だけでなく、領国統治や家臣団支配などの政略面でも大きく成長していた。特に武田信玄が死去してから後、関東管領の呪縛が解き放たれてからが顕著である。北条父子にあてたとされる関東出陣を表明する書状も、実はその可能性を示しているだけであって、断言はしていない。出陣の段になって進撃目標を北陸に切り替える程度の謀略を働かせたであろうことは十分に考えられる。繰り返すことになるが、手取川の戦いは戦国史上の転機となりうる戦いのひとつであった。略術両面で大成した謙信を主軸に据えた反織田同盟の共同作戦が実現に至っていれば、信長の運命もどうなったかわからない。
 だが、越後の深い雪が解け、諸国の軍勢がほぼ集結した天正六年三月九日、謙信は厠で人事不省に陥り、そのまま還らぬ人となった。三月十三日のことであった。死因は脳溢血といわれている。奇しくもいよいよ信玄が信長を討とうとしたその直前に死去したのと同じく、謙信もこの世を去った。まるで神が信玄や謙信ではなく、信長を歴史の推進役に選んだかのようであった。

(初出:学研『歴史群像』No.49 2001年10月号)

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2009.01.09

手取川の合戦(8) 機動力と諜報能力が決した手取川会戦

 緩慢な織田勢に対し、上杉勢の進撃は疾かった。九月十五日に七尾城を攻略した謙信は同城に鰺坂長実を入れると、ただちに兵を進め、十七日には畠山方であった末森城を攻略した。ここには側近の斉藤朝信と親類衆の山浦国清を入れた。能登を平定した上杉勢はさらに南下して加賀へ入国、一向一揆勢と合流した。謙信は十八日に本陣のあった石動山城を発ち、二十日に先鋒と一揆勢が集結していた津幡城に到着した。上杉勢はさらに進撃を続け、最前線の松任城に入ったのが二十二日頃のことと推定される。ほぼ国道八号線に沿っての進撃で、その進撃速度は一日約三〇キロにも及ぶ。四日間連続の行軍速度としては驚異的な快進撃といえよう。
 松任城に集結した上杉勢は三万といわれる。その内訳は、慶長期の検地による石高から推定すると越後兵八〇〇〇、越中兵九〇〇〇、能登兵五〇〇〇、加賀兵八〇〇〇といった程度になろうか。
 織田方には、以上の上杉勢の動きがまったく伝わっていない。九月十日付の連書状には、能登の七尾城から末森城までの道が一揆勢に封じられており、七尾城の状況がまったくわからない旨の記述がある。頼りはときおり末森城からやって来た使者であったが、末森落城後はまったく途絶えた。謙信は敵方の物見をことごとく討ち取り、織田勢にまったく情報を与えなかったようである。これは、永禄三年の第四次川中島会戦において、犀川を渡った上杉勢が武田方の物見をことごとく切り捨て、八幡平で待ち受ける武田信玄に情報を与えなかったのとまったく同じ状況である。その一方で、謙信は滞陣している織田勢の様子を詳細に捉えている。第四次川中島会戦でも濃霧の中で武田本陣を発見した。謙信が物見、すなわち戦場の情報を重視していたことが明らかである。敵には情報を与えず、こちらは情報を得て、常に戦場のイニシアチブを握る。この諜報能力の差が、謙信が常勝の将たり得た第一の理由であろう。
 敵情をまったく得ることができなかった織田勢が謙信の松任入城を知ったのは、ようやく九月二十三日になってからのことである。おそらく勝家は、この時点で初めて七尾落城をも知ったのであろう。またこの頃、信長から勝家に対して北陸遠征の中止と帰国を命じてきたことが考えられる。信長の嫡男織田信忠が久秀討伐の軍勢を繰り出したのは九月二十七日のことであったから、時期的にも合致する。勝家はただちに軍議を開き、その日のうちに現地から撤収することを決定した。これまでの緩慢とはうって変わって勝家の決断が速い。これは信長が明確な指示を勝家に伝えた証左でもある。天正三年に信長から越前経営を委ねられたとき、何事も信長の指示に従えという国掟を与えている。信長を畏怖していた勝家は秀吉と違い、自らの勝手な判断で作戦行動をとることをができなかったのである。おそらく、信長の命がなければいつまでも手取川から動かなかったであろう。その夜、織田勢は密かに陣払いを開始した。
 だが、老練の闘将である謙信がこれを見逃すはずがなかった。当時、松任城の望楼から水島は一望のもとにあったと推測される。第四次川中島会戦では、炊煙の違いだけで武田勢の出陣を悟った謙信である。このときも敵陣の動きを見て、たちどころに織田勢の動きを察知したに違いない。謙信は全軍に出撃を命じた。第四次川中島会戦では、海津城から立ち上る炊煙を見て、謙信は武田勢の出陣を察知、先手をうって妻女山を下りた。そして手取川では、織田勢が撤収のため動き出したところで松任城から出陣した。敵が動いた機をすかさず捉え、臨機応変に行動を開始するという謙信得意の戦術パターンがここでも登場する。
 予想しなかった謙信の出現に織田勢は動揺した。織田勢の布陣は手取川を後ろにした背水の陣であった。通常、背水の陣は兵を決死の覚悟で戦わせる効果があるとされているが、このときは撤退のため陣形を崩した直後で、「合戦」ができる状態にない。ここで戦国時代における行軍と合戦についておおまかに説明すると、行軍は一人の大将が率いる部隊ごとに鉄炮・槍・大将・騎馬の順序で二列程度の縦隊を組み、進んでいくものである。そして合戦は、いわゆる八陣に代表されるように、決戦予想地域に両軍が行軍していき、陣形を整えて向かい合い、その後、合戦におよぶ、というものであった。ある意味、両者の合意の上で行われた戦だったから「合戦」であったわけだ。だからこの当時、軍勢が行軍の状態からそのまま戦闘に入るのはそう簡単なことでない。
 ところが謙信の軍勢は違った。謙信は笹杖で大まかに軍勢を仕切り、それを戦闘単位にしたという逸話がある。上杉勢の戦闘時の編制がかなりアバウトなものであったと推測される。にもかかわらず、戦闘では圧倒的な強さを誇っていた。このアバウトなところが状況に対して臨機応変に対応できる素地を作り出していたとも考えられるのである。
 ここでもまた、謙信が得意とする戦術パターンが出現する。索敵しつつ行軍を続け、敵を捕捉するや行軍隊形からそのまま攻撃に移る、というものである。第四次川中島会戦でも、謙信は物見を放って敵情を探りつつ濃霧の中を進み、信玄の軍勢を発見するや行軍隊形からそのまま全軍突撃に移った。手取川でもまた、行軍隊形からそのまま追撃戦に転じたと思われる。陣形を整えることなく攻勢に転じる謙信の戦術は、当時の合戦における暗黙の了解を否定したものであった。敵に情報を与えずに戦場のイニシアチブを握り、敵が動いた機を捉えて行動を開始、索敵しつつ行軍を続け、敵を捕捉するや止まることなく攻撃に移るこの機動戦術こそが、上杉謙信の得意とした「車懸り」だったのではないかと筆者は考える。謙信は敵の弱点を見つけるや、敵が布陣を整える前に急進撃し、俄然攻めかかる。態勢の整わない敵は布陣する間もなく、決戦予想地域から逃げざるを得ない、あるいは籠城せざるを得ないという形になる。機動力を駆使して敵部隊を混乱に陥れ、崩壊させるのが第二次大戦における電撃戦であったとすれば、謙信の機動戦もまた、一種の電撃戦であったといえるのではないか。
 さて、勝家が陣形を立て直すべき場所は、和田山城を中心とした手取川対岸しかなかった。手取川は連日降り続いていた秋雨のおかげで大きく増水し、川筋が乱れていた。土地勘のない織田勢は渡河に手間取ったに違いない。動揺と焦り、これらが織田勢を戦わずして混乱状態に陥れたことが容易に想像できる。そこへ上杉勢が来襲してきた。対する上杉勢は、土地勘がある地元の一揆勢を先導役として進撃したであろう。謙信は織田勢に攻撃を仕掛けるまでもなく、軍勢の接近を感じさせるだけで十分だった。上杉勢の来襲を知った織田勢はたちまちパニックに陥り、我先に川を渡ろうとした。しかし、手取川は暴れ川と化している。当時の川筋がどうなっていたか、いまとなってはまったく想像がつかないが、織田兵は濁流に呑み込まれ、それによって失われた兵は数知れなかった。逃げ遅れた兵は上杉勢によって討ち取られた。その数は一〇〇〇余人という。

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2009.01.08

手取川の合戦(7) 遅々とした織田勢の進撃

 加賀へ乱入した後の織田勢の動きは明確でない。『信長公記』には「添川・手取川打越し、小松村・本折村・阿多賀・富樫所々焼払ひ在陣なり」とある。
 多くの場合、牛一の記述は進撃路のとおりに地名を並べているが、ここの部分は珍しく、まるで要領を得ていない。記述どおりに地図をたどるとわかるが、七尾城に向かって北上していたはずの織田勢が南下しているようにしか思えないのである。
「添川」は不明であるが、手取川の別名「湊川」の誤記であるという。字義からすると手取川の支流のひとつであるとも考えられる。「小松村」と「本折村」は手取川の南にある現在の小松市内、そして「阿多賀」は小松市内の安宅関のことである。
 問題となるのは「富樫」の地名で、これがかつて加賀守護であった富樫氏の南北の拠点いずれを示すものなのかが明確でない。北であれば手取川北方で、さらには上杉方の拠点松任城よりも北に位置する現在の石川県野々市町であり、これはいうまでもなく記述に要領を得ていない。しかし、南であれば富樫庄のあった加賀市高尾であり、織田勢の南下ルートがはっきりと示されることになる。
 筆者はこれを手取川合戦後における織田勢の退却路ではないかと考えている。この出陣に太田牛一は同行しておらず、記述は人聞きによるものであろう。退却路を誤って進撃路の如く記したのであろうと考えれば、この部分の記述は理解できる。
 余談が長くなったが、こうなると織田勢の進撃路は推定によるしかない。信長の側近堀秀政に送った九月十日付連署状によると、山手の道は一向一揆の拠点が多く、進撃が困難なので浜手を進む、とある。織田勢が手取川を渡ったのは、九月十日頃のことである。越前北ノ庄から五〇キロ程度の行程にもかかわらず、実に一か月以上もかかっている。織田勢の進撃としては、これまでになく遅い。
 連書状にあるように、一揆勢の抵抗が激しかったことも考えられるが、折しも秋の長雨の季節であった。河水の増水や氾濫などで進撃が大きく遅れたことも考えられる。そのような理由があったにしても、二日程度で進める距離の進撃にこれだけの日数がかかっては、七尾城の後詰としては遅すぎる。その上、手取川を渡った柴田勝家は水島に布陣し、実に半月近くも滞陣している。この長期滞陣の理由もまた謎である。
 緩慢な進軍と長期滞陣の理由として作戦上考えられるのは、信長が北陸へ出陣するつもりであったならば、信長の本軍が安全に前進できるよう、点在する一揆勢の拠点を掃討しながらの進撃だったということだ。そして本軍が到着するまで、勝家らが手取川の橋頭堡を確保しようとしていたということだ。
 九月十日付の連署状には、命令あり次第進撃するつもりである、重ねての援軍は無用という旨が記されている。信長が謀反を起こした久秀を説得している頃であった。織田勢の長期滞陣は、信長の出陣取りやめが北陸を進む織田勢に伝えられていなかったか、あるいは上方での決着がつくまで進撃を停止するよう命じられたからなのかもしれない。緊迫した上方の情勢を慮っての書状だったとも想像される。
 だが、この遅々とした行動に歯がゆい思いで同行していたのが羽柴秀吉であった。秀吉としては勝家のポイントにしかならない北陸の仕置をさっさと済ませ、自身が調略を行っていた播磨へ兵を進めたかった。そこへ入ってきた久秀謀叛の報である。
 秀吉は勝家に手取川南岸での進撃停止を進言するが、勝家はこれを拒否した。これが作戦上の対立を引き起こし、秀吉が無断で帰国するという重大な軍律違反を起こしてしまった。「羽柴筑前御届をも申上げず帰陣仕候段、曲事の由御逆鱗なされ、迷惑申され候」と『信長公記』にあるように信長は激怒し、秀吉に謹慎を命じたのであった。
 いずれにせよ、この進撃停止で謙信は救われた。織田勢に手取川を越えられてしまったものの、策源たる金沢まで失われずにすんだからである。

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2009.01.07

手取川の合戦(6) 初の謀略を使った謙信

 七尾城南方の石動山に城を構え、ここを本陣として七尾城の包囲を続けていた謙信のもとに、織田勢の後詰が加賀に乱入したという報が届いたのは、八月九日のことである。後詰が来る前に七尾城を落とさなければならない。謙信はただちに加賀の総領七里頼周に救援を約する書状を発するとともに、七尾城の攻略を急いだ。このままでは、織田勢に加賀を席巻されてしまうおそれが出てきたからである。
 織田方にとって加賀が防衛上の要衝たり得たのに対し、上杉方にとって加賀は上洛のための攻勢発起点として重要であった。加賀門徒は大きな増援兵力となり、上洛作戦の策源として機能しうる金沢という町がある。
 さらに、織田勢に加賀を押さえられることになれば、京都への進撃が難しくなる。おもな理由は前述したとおり、手取川流域の複雑な河川地形だ。水城で有名な関東の忍城や臼井城を攻めあぐねたように、謙信は平攻めが利かない水手の地形を苦手としていたようだ。手取川南方の御幸塚、後に小松城と呼ばれるあたりは典型的な水城地形であったから、謙信としてはここを固められる前に加賀へ進む必要が出てきたのである。
 さて、七尾城内では攻城戦のさなかに疫病が流行し、城兵が次々に斃れていた。そして、春王丸もわずか五歳で病死してしまった。畠山宗家が断絶し、死臭漂う城内には堅戦気分が蔓延した。それでも七尾城は落城する気配を見せなかった。
 ここで謙信は、初の謀略を試みる。「畠山氏の旧領および七尾城を与える」という内容で遊佐・温井一派に内応を誘ったのである。利をもって内応を誘うなど、義を重んじ清廉潔癖を旨とするこれまでの謙信には考えられないことであった。筆者は、ここに謙信の戦国大名としての成長を垣間見る思いがする。好むべきものではなかったが、織田勢が目と鼻の先まで迫っているいまとなっては、もはや使うことをためらっている場合ではないというのが、謙信の偽らざる気持ちであったろう。
 遊佐・温井一派が謙信に内応を約束する書状を送ってきたのが、九月十三日であったといわれる。その夜は中秋の名月であった。風雅を好む謙信は落城に先立ち、月見の宴を催した。宴もたけなわとなった頃、謙信は思わず次の七言絶句を口にしたという。

 霜満軍営秋気清
(霜は軍営に満ちて秋気清し)
 数行過雁月三更
(数行の過雁月三更)
 越山併得能州景
(越山併せ得たり能州の景)
 遮莫家郷憶遠征
(さもあらばあれ家郷遠征を憶うは)

 それから二日後の十五日未明、遊佐続光と温井景隆が内応を決行した。木落口から上杉勢を城内に誘い入れるとともに、織田方の長綱連とその一族百余人を一人残らず討ち果たしたのである。かくして、さしもの名城七尾もついに落城したのであった。

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2009.01.06

手取川の合戦(5) 七尾城攻略に手こずる謙信

 能登半島のほぼ中央に位置する七尾城は、加賀・能登・越中の連絡線を押さえる要衝であった。標高三六〇メートルの松尾山に本丸を置き、七つの尾根に曲輪を築いて要所を野面積みの石垣で固めた、北国随一の堅城である。北に七尾湾を望み、惣構えの城下町が形成され、東には木落川、西から南にかけては大谷川が流れる天然の要害となっている。さしもの謙信もこの城を攻めあぐね、攻城戦は二年もの長きにわたった。
 謙信が最初に七尾城を攻めたのは天正四年九月のことである。能登守護である畠山家は、天正二年に畠山義隆が家臣に謀殺され、義隆の子春王丸がその後継者として担ぎ上げられていた。が、春王丸はそのときわずか二歳。実質的に城主がいない状況であった。そこで謙信は、畠山家から養子に迎えていた上条政繁を同家に戻すという大義名分を立て、能登へ侵攻したのである。
 ところが、畠山勢は謙信の介入を嫌い、対決する姿勢を明らかにした。能登の諸城を攻略した上杉勢は七尾城を包囲したが、要害堅固を誇るこの城を落とすことは容易でなかった。雪の季節となり、天正五年の正月を迎えても包囲を続けていた謙信であったが、三月にいったん帰国、国内の仕置を済ませた後、閏七月に再び出陣した。
 城内の実権を握るのは、畠山家の重臣たちであった。彼らは長期の籠城に倦み、上杉家につくか、織田家につくかで分裂していた。遊佐続光と温井景隆を中心とする一派は、北陸を併呑しつつある謙信に与しようと主張していた。もう一方の長綱連一派は、旭日の勢いで勢力を伸ばしている信長に与しようと主張していた。
 再びの謙信出陣に際し、織田方の綱連は僧籍にあった弟の長連龍を使者に立て、信長に救援を要請した。信長は七尾城の救援要請を了承した。八月八日、柴田勝家を総大将とした織田勢が越前を進発し、加賀へ乱入した。
「八月八日、柴田修理亮大将として北国へ御人数出され候。滝川左近・羽柴筑前守・惟住五郎左衛門・斉藤新五・氏家左京亮・伊賀伊賀守・稲葉伊豫・不破河内守・前田又左衛門・佐々内蔵介・原彦次郎・金盛五郎八・若狭衆、賀州へ乱入」
 太田牛一の『信長公記』に記された、北陸遠征の面々である。大将は柴田勝家。羽柴秀吉、惟住(丹羽)長秀、斉藤新五郎、氏家直通、伊賀定治、稲葉一鉄、不破光治、前田利家、佐々成政、原長頼、金盛(金森)長近といった諸将に武藤舜秀ら若狭衆が加わっていた。この総兵力は約三万といわれ、さらに後から、信長自身も一万八〇〇〇の兵を引き連れて出陣の予定だったという。これはまさに織田勢主力の出陣である。信長はなぜ、北陸征伐に本腰を入れることにしたのか。
 これまで加賀の一向一揆は、上杉と織田の間で一種の緩衝地帯として機能していた。ところが、謙信と一向一揆との同盟により加賀が上杉方となったことで、謙信の勢力圏が一挙に越前国境まで迫ってきた。朝倉の時代より数度の一向一揆が発生し、大きな政情不安要素を抱えた越前である。天正三年に織田勢が越前一揆を平定したときは、一揆の残党が謙信に救援を要請している。上洛を表明した上杉勢が越前に迫ったならば、謙信に応じた一揆が勃発することは火を見るより明らかだった。
 畿内では、石山本願寺勢をその寺域内に追い込んだものの、毛利輝元の後援を受けて未だに頑強な抵抗を続けていた。石山本願寺を攻略しない限り畿内の安定は望むことはできなかったが、その早期攻略は困難であった。信長は長期包囲戦に切り替えて本願寺を厳重な包囲下におく一方、天正五年二月に本願寺を支援する紀伊の雑賀衆を攻め、これを降伏させた。これらの処置により、少なくとも本願寺が積極的な攻勢に出てくる可能性はきわめて少なくなった。
 西国では、本願寺勢を後援する毛利家が播磨の諸豪族に対して調略を施していたが、ただちに出陣してくる気配はなかった。織田方も羽柴秀吉が積極的に播磨勢の調略にあたっていたし、播磨勢の最大勢力である三木城の別所長治はこの当時、雑賀攻めに参加するなどして自主的に信長へ加担していた。どちらかといえば、播磨の情勢は織田方有利で進んでおり、毛利勢に対する緩衝地帯として有効に機能していた。
 こうしてみると、信長の領域の中でもっとも緊迫していたのは北陸だった。緊迫の度合いは北陸に続いて播磨、最後に畿内という順序になろうか。北陸の情勢を安定させるために、信長は謙信よりも先に加賀を制する必要が出てきた。一揆勢だけなら比較的容易に制圧できるであろう加賀も、強兵の上杉勢が進出した後となってはその平定が困難になってしまう。謙信は七尾城の攻略に手間取っていた。この間に加賀を制し、七尾城の救援も成功したならば、逆に上杉との国境を一挙に越中まで後退させることができる。
 ここで加賀中部の地形に注目したい。加賀中部を流れる手取川は白山に源を発し、現在の美川町で日本海に注ぐ、全長約七〇キロの河川である。いまは穏やかに流れている手取川も、当時はたびたび氾濫を起こす暴れ川であった。川の流れは一定せず、氾濫のたびに方向を変え、無数の潟湖や沼沢が存在した。現在の川北町・松任市・美川町にかけて「島」の名がついた町名が数多く見受けられるのは、手取川の氾濫のさい、集落が島のように浮かんで見えたことから名付けられたともいう。手取川の南に位置する小松のあたりもまた川筋定まらず、泥田と潟湖ばかりの地形であった。ひとたび雨でも降れば進路が寸断され、軍勢が進撃するには最悪となる。逆に防衛上の観点から見れば阻害地形の連続であり、守りやすい土地ということになる。信長の鉄炮邀撃戦術は完成の域に達しており、段丘状の河岸に馬防柵陣地を築きあげれば長篠を再現することも不可能ではない。そこまで決定的な状況にならなかったとしても、謙信の進撃を食い止めるには適当な地形である。
 武田信玄亡き後、信長がもっとも脅威と見ていたのは戦国最強と評判の謙信だった。これまで謙信に対しては卑屈と思えるほど慎重を期していた信長だが、その一方、天正三年の長篠合戦で精強の武田勢を完膚無きまでに叩きのめしたということで、戦術的にも自信が出てきたに違いない。その自信が、謙信に対する積極的な作戦となって表れたのであろう。かくして、信長は自ら北陸への出陣を決意した。
 信長は進軍に先立ち、越後北部を領する上杉方の将で、再三謀叛の過去がある本庄繁長を誘い、背後から謙信を攻めさせようとした。しかし、あの向背常ならなかった繁長がこの好機に応じなかった。家臣の主権さえも認めた謙信の仁政による家臣団掌握の成果であったといえる。
 それと対照的な事件が畿内で突発した。信長麾下の将、松永久秀の謀叛である。石山本願寺の包囲陣に加わっていた松永久秀・久通父子が八月十七日、勝手に砦を引き払い、大和の信貴山城に籠城したのである。これは足利義昭の御内書に応じての謀叛といわれているが、織田勢の北陸出陣直後を狙った絶妙なタイミングであった。これが畿内でどのように飛び火するかわかったものではない。信長にとっては、北陸の情勢よりも久秀の謀叛鎮圧の方が急務となった。久秀の説得をあきらめた信長はその討伐を決意し、北陸の仕置は勝家に任せざるを得なくなったのである。

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2009.01.05

手取川の合戦(4) 謙信と信長の同盟決裂

 天正元年、武田信玄が遠征途上で死去、軍勢が帰国したことで状況は一転した。ひとまず東方の脅威が去ったことを確認した信長はまず、信玄の死を知らずに京都槇島城で挙兵した足利義昭を攻め、義昭を京都から追放した。続いて、近江北部の小谷城域に追い込んでいた浅井・朝倉勢を徹底した追撃戦で滅亡させて、越前と近江北部を制した。
 天正二年には伊勢長島の一向一揆を討滅し、腹中の濃尾勢を安定させたが、越前では朝倉残党と一向宗徒による大規模な一揆が発生し、信長の手から失われた。
 天正三年、最大の強敵とみなしていた武田勝頼に長篠で決定的な打撃を与え、東方を徳川家康に任せることができるようになった。秋には越前へ兵を進めて一揆を鎮圧、領国経営を宿老柴田勝家に任せて、その支配体制を強化した。「かかれ柴田」「鬼柴田」などと形容されるがために、勝家はかなり剛胆な武将に思われがちであるが、その実は細事に気を配る質実剛健な武将であった。もちろん、剛胆のイメージは民衆に知れ渡っていたから、武威をもって一揆で荒廃した越前を立て直すには適任であった。
 信長がそうであったように、謙信もめぐる状況もまた信玄の死後に一変する。関東管領としての関東平定を主な戦略目標としていた謙信の目が、北陸へ転じられたのである。謙信が突如として現実的な戦略方針をもって動き出したのだ。この変心の理由は明らかでないが、関東征伐の大義名分でもあった北条氏康・武田信玄という二人の強敵が相次いで逝去したことが理由かもしれない。
 関東管領はもともと信玄を討伐するための名目だった。ところが、関東管領に就任するや今度はその職務を果たすべく関東へ出陣を繰り返す羽目となる。その信玄という存在がなくなったことで、謙信は関東管領の呪縛から解き放たれたと見ることもできる。
 労ばかり多く利の少ない関東遠征に比べ、本拠の春日山城にも近く、父祖以来の攻略目標であった越中に進出する方が現実的であった。謙信にとって最後の関東出陣となった天正二年の二度の越山は北陸方面への進出に専念するための地歩固めだった。厩橋城を中心とした上野領の統治を北条高広・景広父子に任せた謙信は、以後、北陸の一向一揆討伐に全力をあげる。
 信玄の死により大きな後ろ盾を失った北陸の一向一揆は、謙信が越中を制し、信長が越前を制したことで孤立、このままでは滅亡必至の情勢となった。
 天正三年六月、石山本願寺が謙信に救援を求めてきた。奇しくも信長が長篠での大勝を伝えてきた書状と同じ六月十三日付の書状である。九月には越前一揆の残党が越中富山の城将、河田長親に救援を求めてきた。謙信がこれに応えたのは天正四年になってからである。二月、謙信はついに信長と断交し、五月に父祖以来の宿敵であった一向一揆と和睦した。
 この歴史的決断には、一五代将軍足利義昭の暗躍が大きく影響していた。天正元年に京都を追放され、中国の毛利家に身を寄せていた義昭だったが、幕府再興をあきらめてはいなかった。持ち前の政治力をフルに生かし、信長討伐の御内書を諸国に発して、反織田同盟の再結集を図っていたのであった。
 義昭の檄に中国の毛利輝元、畿内の石山本願寺、加賀の一向一揆に越後の上杉謙信が加わり、再び反織田同盟が結成された。二度の上洛を果たした謙信にとって、幕府再興の一角に加わることは本望だったに違いない。信長に謀反を起こした松永久秀、甲斐の武田勝頼までが加わることになっていたというその反織田同盟は、参加した軍勢の規模を単に比較すれば、武田信玄を中心とした元亀三年のそれを大きく上回るものであった。
 反織田同盟に加入したことにより、これまで一向一揆の討伐が目標だった謙信の北陸戦略が大きく転換することとなる。義昭の外線戦略の一環として、足利幕府再興のために上洛を果たす、すなわち京都への進軍という大きな戦略目標が設定された。このとき、謙信の上洛を妨げていたものは、越前から加賀への進出をうかがっていた柴田勝家、そして能登七尾城に立て籠る畠山家であった。

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2009.01.04

手取川の合戦(3) 信玄を挟撃すべく上杉・織田同盟を締結

 尾張と美濃を制し、有力な戦国大名の仲間入りをした織田信長は永禄十二年に足利義昭を奉じ、上洛を果たした。義昭を室町幕府一五代将軍に据え、京都という日本の政治経済の中枢部を押さえることに成功した信長は、そこから勢力を急速に拡大していった。
 その過程で最初に訪れた危機は、元亀元年から天正元年にかけてであった。元亀元年の越前の朝倉義景討伐が、義景と好の深かった妹婿浅井長政の離反により失敗したことが発端である。畿内では三好長逸・三好政康・岩成友通ら三好三人衆との戦いが続き、信長は二正面での作戦を余儀なくされる。
 畿内の戦いは石山本願寺を中心とする一向一揆との戦いにまで拡大し、それが伊勢長島に波及した。将軍権威をもって事態を収拾させようとした信長であったが、信長の傀儡であることを嫌った義昭は信長討伐の檄を諸国に発した。これに応じたのが、甲斐・信濃・駿河を制したものの、北方および東方への勢力伸長が限界に達した武田信玄であった。
 元亀三年、反織田同盟に加わった信玄はそのホープとして大きな期待を受けながら、甲斐の躑躅が崎館を発った。北陸では信長に対する西上作戦に出た信玄に呼応して、越中の一揆勢に神保・椎名両勢が加わり、上杉方を攻めた。反織田同盟を策したのは義昭であったが、諸勢力の動向に大きな影響を与えたのは信玄だった。
 それまで信玄と好を通じていた信長は、信玄が西上の企図を明らかにするとこれと断交、謙信との同盟を打診してきた。信玄と一揆勢が敵である点において謙信と信長との利害は完全に一致していた。謙信もただちにこの盟約に応じ、上杉・織田同盟が成立した。
 この盟約が結ばれた時点において、それぞれが一向一揆と対抗していた場所は、謙信が越中、信長は石山本願寺と伊勢長島であったから、双方の利害がぶつかることは当面なさそうであった。
 四周に敵を抱えることになった信長は、岐阜を中心とした内線戦略で敵勢力に対抗した。内線戦略とは内線の利、すなわち領内の交通線を生かして軍勢を迅速に移動させ、外周に存在する敵の連携を断ち、各個に撃破していくものである。
 このとき、単純に比較した総合兵力では反織田同盟軍の方が上であった。兵力的に優勢な敵に内線戦略でうち勝つには、軍勢の機動性と敵の弱点を見定める戦術眼、そして一貫した戦略性が必要であった。
 信長は信玄との直接対決を避け、その対処を盟友徳川家康に任せる一方、反織田同盟の中でもっとも脆弱と思われた浅井・朝倉に政軍両面で対抗する戦略方針をとった。織田勢の攻勢により浅井・朝倉勢は小谷城域に追い込まれ、兵力を頼みとしていた朝倉勢が越前へ帰国した結果、織田勢に対して有効たりえる存在ではなくなってしまった。
 内線戦略に対抗する形となるのが外線戦略である。これは外周勢力が一致して敵を攻めることにより敵兵力を分散させ、包囲撃滅しようというもので、なによりもお互いの連携が重要であった。
 しかし、反織田同盟の外線戦略は、朝倉義景が越前へ帰国してしまったことにより破綻してしまった。信玄はこれをなじり、越前勢の再出陣を強く要請したが、義景が雪解けとなる春まで越前から動くことはなかった。
 一貫した戦略性を持っていた信長に対し、謙信の行動は関東、もしくは越中の将に救援を求められればそこへ出陣するという緊急展開軍的なものばかりであった。いかにも場当たり的で、明確な戦略ビジョンが見えてこない。性格といってしまえばそれまでだが、中小勢力の主権を重視する謙信ならではの欠点であった。信玄には見事にこの性格を衝かれ、謙信は関東と越中の間で文字どおり東奔西走させられた。結果として、関東・越中どちらでも成果をあげることができなかった。
 謙信と信玄の戦いもまた、内線戦略と外線戦略の戦いであったといえる。こちらでは春日山城を中心とする謙信の内線に対し、信濃で自ら戦い、関東では北条家と共闘し、越中では一向一揆を動かした信玄の外線がまさった。謙信に明確な戦略ビジョンがなかったため、信玄の思惑どおりに動かされてしまったからだ。

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2009.01.03

手取川の合戦(2) 信玄と因縁の戦いを続けた謙信

 越後を統一した上杉謙信は、川中島で武田信玄と戦う一方、北陸では一向一揆と抗争を繰り広げていた。これは一揆勢の総領である石山本願寺が武田信玄と盟約を結んでいたからという程度のものではなく、先々代長尾能景のときから続いていた根の深いものであった。長尾能景は永正三年、越中における一揆勢との戦いの中で討死した。その跡を継いだ謙信の父、長尾為景は越後における一向宗を一切禁止し、越中で一揆勢と手を組む神保氏と戦いを繰り広げた。その対立構図が謙信の代にも続いていたのである。
 永禄三年三月、神保長職が一向一揆と結んで、椎名康胤の松倉城に攻め寄せたのが謙信時代における越中騒乱の始まりである。以後、越中は神保長職と椎名康胤の二つの勢力に分かれ、謙信に対して向背常ならぬ状態が続いた。一方が謙信に対すれば、一方は謙信につき、謙信についた将も謙信が帰国すればまた離反するありさまで、戦乱が収まる気配はなかった。背後で彼らを動かしていたのは誰あらん、信玄その人だった。
 謙信と信玄が初めて川中島で対戦したのは、天文二十二年のことである。信玄に所領を逐われた村上義清の要請によるものだった。突然現れた謙信勢に、川中島へ進出した武田勢は散々に撃破された。謙信の一方的勝利だったといってもよい。謙信は武田勢との遭遇戦の中で、信玄にその精強ぶりを見せつけた。そして追撃戦では、中信濃の坂城南条まで進出するという機動力の高さをも見せた。この直後、謙信は最初の上洛を果たし、信玄討伐の勅命を得る。
 謙信が容易ならざる敵であることを知った信玄は、家臣の調略、和睦の一方的破棄による奇襲、近隣勢力との同盟、川中島に限定しない広範な戦略など、略術を駆使して謙信を翻弄した。この間、謙信と信玄は天文二十四年と弘治三年に川中島で対陣している。
 川中島を勢力下に収めつつあった信玄を討伐する大義名分を得るため、謙信は永禄二年に二度目の上洛を果たした。そして室町幕府第一三代将軍足利義輝に拝謁、関東管領補任の内意を得た。関東管領とは鎌倉公方を補佐して不破関以東を統括する室町幕府の役職で、戦国時代には有名無実化していた。しかし、謙信は越後へ帰国後に越山、上州厩橋城に着陣するや関東諸将一一万の大軍勢が集結したのである。有名無実といわれた関東管領であったが、謙信の武名がその威光を復活させてしまったのだ。謙信はこの大軍をもって難攻不落といわれた小田原城の北条氏康を攻めた。攻城一か月、ついに落城の気配を見せなかった小田原を離れた謙信は、鶴岡八幡宮で関東管領就任の儀を披露し、正式に関東管領となった。はれて信玄討伐の名分を得た謙信は勇躍川中島へ乗り込み、信玄に決戦を挑んだ。永禄三年九月の第四次川中島会戦である。
 決戦を志向して出陣した謙信は先手をうって出陣、妻女山に布陣して信玄の意表をついた。懐に飛び込まれた信玄はその意図を図りかね、当初は茶臼山へ布陣したものの、謙信の隙をついて海津城に入り、長期対陣状態となった。
 この状況に先にしびれをきらしたのは信玄だった。彼は軍勢を二手に分け、上杉勢の側背を衝こうとする啄木鳥の戦法を実行に移した。ところが、海津城から立ち上る炊煙を見て謙信は武田勢の出陣を察知、先手をうって妻女山を下りた。
 犀川を渡り、八幡平に出た謙信は武田方の物見をことごとく切り捨てることを命じ、敵の情報を断った。物見からの報告も別働隊からも謙信の動向に関する情報が入らず、八幡平に布陣した信玄は完全な情報不足に陥った。
 物見を放って濃霧の中を進んできた謙信は信玄の本陣を発見、行軍隊形からそのまま全軍突撃を命じた。いわゆる車懸りの戦法である。戦いは謙信と信玄の一騎討ちもあったと伝えられるほど、両軍勢とも一歩も引かぬ大乱戦となった。別働隊が合流し、最終的に数的優勢に立った信玄が川中島の確保に成功したものの、弟信繁を失うなど代償は大きかった。このときの損害が、勝頼時代の武田勢弱体化の遠因になったともいわれているほどである。この損害に懲りた信玄は、その後二度と謙信に合戦を挑もうとしなかった。信州から関東にかけて謙信のいないところへ出陣し、越中からの牽制を策して、文字通り謙信を東奔西走させたのである。

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2009.01.01

手取川の合戦(1) 天下無敵の戦術家、上杉謙信

「越後の龍」と称された上杉謙信は、とにかく戦さに強かった。毎年のように戦さを続けながら、一度として誰が見ても敗北というような結果になったことがない。実のところ、謙信の生涯における野戦の事例は少ない。多くの敵が城郭に拠り、謙信との野戦を避けたため、戦いは必然的に攻城戦となったからである。にもかかわらず、当時から「謙信は戦さに強い」という評判は高かった。
 謙信の戦術的評価を決定づけたのは、数次に及んだ信州川中島の戦い、そして永禄期における関東での戦いだった。謙信はこれらの戦いの中で、名将と並び称された甲斐の武田信玄、相模の北条氏康という東国を代表する二人の戦国大名を同時に相手にして、一歩もひけを取らなかった。戦略となれば圧倒的に謙信のそれを上回り、合戦でも強い信玄と氏康であったが、両将とも謙信との合戦を嫌い、戦術よりも戦略をもって謙信を打倒しようとした。ところが謙信は、二人の謀略に悩まされながらも、戦術だけをもって五分の戦いを演じたのである。
 この時期における謙信の出陣は、常に諸将の救援要請に応じてのものだった。悪くいえばいかにも場当たり的で、ここに謙信の戦略的意図というものをほとんど感じることができない。だが、ひとたび謙信が出陣すれば、武田勢も北条勢も潮が引くかのように後退し、ひたすら謙信の鋭鋒を避け、謙信のいないところを攻めた。信玄の信濃における、そして氏康の関東における戦略プランが、謙信の出陣により大きく狂いを生じさせることとなった。彼らが目的を達成することができたのは、調略によって諸将を降誘し、謙信が出陣する名目を失わせてからだった。
 これまでの戦史において、戦術の不利を戦略でカバーした例は快挙にいとまがない。ところが、戦略の不利を戦術でカバーすることができた例は、古今東西を見てもそうは見あたらない。そういった意味で、謙信はまれにみる戦術家だった。
 天正五年九月二十三日に生起した手取川会戦は、戦国最強と評された上杉謙信、最後の戦いだった。能登七尾城の攻略に出陣した謙信に対し、同城に籠城する畠山家の重臣長綱連が織田信長に救援を要請した。信長はこれに応じ、宿老柴田勝家を大将とする約三万の大軍を北陸へ派遣する。ところが、その後詰が到着する前に謙信が七尾城を攻略。余勢を駆って加賀中部まで進撃し、手取川に布陣する織田勢を撃破したというのが、そのあらましである。
 手取川会戦は上杉勢と織田勢との間で生起した初の戦いであったが、謙信と信長の直接対決とならなかったせいか、良質な資料がきわめて少なく、歴史の表舞台にもほとんど出てこない。なぜ謙信は七尾城を攻めたのか、なぜ謙信と信長が北陸で激突することになったのか、なぜ手取川だったのか……。戦いの実相はほとんど明らかでない。しかし、手取川の戦いに至るまでの過程を追っていくと、実はこの会戦が歴史の流れを変えかねない大事件であったことがわかるのである。手取川会戦が生起した要因はなにか、それは第四次川中島会戦が起きた永禄初期の頃まで遡らなければならない。

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2005.02.17

蘭丸メモ

信長お気に入りの小姓に蘭丸は3人いた。
森蘭丸と、伊藤蘭丸祐広・祐道父子である。

伊藤祐広は天正元年(1573)の若江城攻略戦で討死。
父の跡を継いだ伊藤祐道は本能寺の変後、浪人となり、江戸時代となってから名古屋で呉服店を開業。これが後の松坂屋となる。

参考サイト
松坂屋「ひと・こと・もの」語り

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2005.01.24

武田信玄家督争奪メモ

 武田信玄は大永元年(一五二一)十一月三日、武田信虎の嫡男として要害山城で生まれた。幼名を太郎といった。武田氏は平安時代末期に甲斐に土着した清和源氏の嫡流であり、新羅三郎義光が甲斐国司に任じられて以来、代々甲斐守護職を務めてきた名家である。
 だが、武田氏も例外なく戦国の動乱に巻き込まれた。国内の豪族どもが割拠し、駿州今川氏や相州北条氏の侵入に悩まされた。そのような時代に武田家を継いだのが、信玄の父信虎だった。信虎は積極的に攻勢に出て甲斐を統一し、他の守護大名が次々に滅びていく中で甲斐守護職を守り通した。
 大永七年(一五二七)、駿河の今川氏親と和議を結び、南方の脅威がなくなった信虎は享禄元年(一五二八)、信濃の諏訪へ攻め入った。が、境川の合戦で諏訪頼満と戦って敗れ、逆に享禄四年(一五三二)には甲斐国内の塩川まで攻め込まれてしまった。天文四年(一五三五)、信虎は諏訪頼満と国境を定め、太郎の妹禰々を頼満の孫頼重に嫁がせて、諏訪家と和睦した。両家は血縁により結ばれることになった。
 太郎は天文五年(一五三六)に元服した。ときの将軍足利義晴の一字を賜り、晴信と名乗った。正親町天皇より従五位下大膳大夫の官位を得た。同じ年、今川義元の仲介により、京都の公家三条公頼の娘を娶った。姉は管領細川晴元の妻、妹は本願寺法主光佐の妻だった。これが後に本願寺との強固な対信長同盟を形成する要因となる。この仲介に礼するかのごとく、晴信の姉が義元の妻として嫁いだ。
 晴信の初陣は天文五年十一月、信州佐久郡海之口城を攻めたときであり、父信虎とともに出陣した。十一月二十一日、武田軍八〇〇〇は甲斐を出陣、海之口城を包囲した。しかし、大雪のために落城させることができず、十二月二十六日、信虎は晴信を殿軍として撤退した。ところが晴信は手兵三〇〇〇だけを引き連れて海之口に引き返し、城を急襲、落城させてしまったのであった。
 だが信虎は、晴信の力量を認めようとはしなかった。天文七年(一五三八)正月、信虎は晴信に盃を与えず、弟の信繁に与えた。これは信繁が次の後継者であると宣言したようなものであった。それ以前から気まずい雰囲気のあった父子の関係は、これを境にさらに悪化していくのであった。
 天文十年(一五四一)五月、信虎は諏訪頼満、そして信州埴科郡の村上義清とともに、信州小県郡の滋野一族を三方から攻め潰した。
 信州より帰陣した信虎は、戦勝報告と娘孫の見舞いを兼ねて駿河へ赴いた。六月十四日のことであった。この好機を晴信は逃さなかった。甲斐と駿河との国境を封鎖したのである。重臣板垣信方、甘利虎泰を中心とした家臣団も晴信の動きに加担した。信虎の圧政に苦しんでいた領民たちは、信虎の追放を知り、上から下まで喜んだ。信虎は隠居として駿河に留め置かれ、以後、武田家は晴信が実権を握ることになったのであった。
(参考文献:光栄「信長の野望合戦事典 信玄vs謙信」福田 誠編、新人物往来社「武田・上杉軍記」小林計一郎)
※拙著「信長の野望合戦事典 信玄vs謙信」の一文を訂正加筆したメモです。

・従来伝えられているほど信虎の治世は過酷なものではなく、領民の不満の原因はどちらかというと飢饉の影響だったらしい。
・晴信の初陣は「甲陽軍鑑」にのみ経過が記述されている。
・クーデターは晴信自身の仕業というより、板垣ら家臣団が中心になって実施、後に晴信を担ぎ上げたという説もある。

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2005.01.23

幸若舞

幸若舞(こうわかまい)
中世芸能の一つ。室町後期、桃井直詮が声明(しょうみょう)・平曲(平家琵琶)などの曲節を採り入れて創始したという声曲である。曲舞の一種で、軍記物を素材とした物語を謡うのを特色とする。烏帽子・直垂を着用して、太鼓や小鼓に合わせて謡い、勇壮なシーンでは謡い手が舞う。
幸若舞は戦国武将、中でも「敦盛」が信長に愛されたことで有名。秀吉・家康らも愛好したが、そのため次第に民衆芸能から乖離した存在となってしまった。現在は福岡県山門郡瀬高町大江にのみ三人立の幸若舞が伝えられている。
(参考文献:岩波書店「広辞苑(第五版)」、福井県ホームページ瀬高町ホームページ

桃井直詮(もものい・なおあき、1403-1480)
「幸若舞」の祖。初代幸若大夫。南北朝で活躍した越中守護桃井直常の孫。幼名幸若丸。越前国丹生郡西田中(現福井県丹生郡朝日町)に育ち、父の死後、比叡山へ。生来、音楽的才能に恵まれていた。天台声明の節で謡う『平家物語』が評判となり、上洛して御所などで舞曲を披露。足利将軍家に仕えた後、越前に帰国、朝倉家に扶持された。
(参考:角川書店「日本史辞典」、福井県ホームページ

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2005.01.17

永禄飢饉

永禄初期の甲斐は疫病と飢饉に見舞われていた。
永禄二年4月に雹が降り、作物が壊滅的な被害を受けた。1月と12月に融雪洪水の被害。疫病流行。
永禄三年、6月から10月にかけて大雨が降り続き作物壊滅。昨年来の疫病が引き続き流行。
(参考文献:学研M文庫「川中島の戦い上」平山優)

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教来石

教来石(きょうらいし)
馬場信春の故郷。下教来石にへてこ石という文化財がある。日本武尊が座ったと伝えられる「経来石」が地名の所以。「清ラ石」の転訛とも。現北杜市(旧白州町)。
(参考文献:白州町ホームページ)

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