「対馬丸」事件(4) その後の疎開
軍は「対馬丸」生存関係者に対して厳重な緘口令を敷いたが、数日を経ずして風聞は全島に広まり、一般疎開辞退者が続出したため、疎開業務はいったん頓挫した。
しかし十月十日、米第58任務部隊によって沖縄は激しい空襲に見舞われた。米軍の沖縄上陸は必至の情勢となり、再び島民の疎開機運が高まった。以降、沖縄各地から那覇へ疎開者が集結し、連日のように疎開船が本土へ向かった。疎開輸送に従事した船舶は大小延べ一八七隻に及び、うち航行中に撃沈された船舶は三二隻であった。
疎開は、船舶の航行がほぼ不可能となった昭和二十年(一九四五)三月初旬に打ち切られた。米軍は沖縄を攻略目標に選定すると、潜水艦と航空機により徹底して海上交通を遮断し、沖縄を孤立化したのである。疎開終了までに本土へ搬送された疎開者は約七万名であった。また、宮古島及び八重山島からは主に台湾への疎開が実施された。一般、学童合わせて約一万四〇〇〇名が東シナ海を渡り、基隆へ向かったという。
約七か月間に疎開できた島民は約八万四〇〇〇人だったが、島外に脱出できなかった島民約一二万人が戦闘に巻き込まれ、死亡した。
学童集団疎開は「対馬丸」遭難後も強行され、引率教員等の関係者を含め六五六五名が無事疎開地に到着した。この間、学童疎開船で撃沈されたのは「対馬丸」一隻のみにとどまった。潜水艦だけでなく空襲による被害が増大していた中での僥倖であったともいえるが、それだけに「対馬丸」の悲劇性が高まることとなった。
最後に余談だが、米潜水艦「ボーフィン」は真珠湾攻撃一周年となる一九四二年十二月七日に就役し、「真珠湾の復讐者」と呼ばれた。終戦まで活躍した同艦は今も記念艦として保存され、真珠湾で一般に公開されている。一方、「対馬丸」は今も悪石島沖の海底で静かに眠っているが、その悲劇を後世に伝えようと、遭難六十周年となる平成十六年(二〇〇四)八月二十二日、那覇に対馬丸記念館が開館した。
(初出:学研「歴史群像」太平洋戦争シリーズNo.37『帝国陸海軍 補助艦艇』)
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