戦史

2009.01.20

「対馬丸」事件(4) その後の疎開

 軍は「対馬丸」生存関係者に対して厳重な緘口令を敷いたが、数日を経ずして風聞は全島に広まり、一般疎開辞退者が続出したため、疎開業務はいったん頓挫した。
 しかし十月十日、米第58任務部隊によって沖縄は激しい空襲に見舞われた。米軍の沖縄上陸は必至の情勢となり、再び島民の疎開機運が高まった。以降、沖縄各地から那覇へ疎開者が集結し、連日のように疎開船が本土へ向かった。疎開輸送に従事した船舶は大小延べ一八七隻に及び、うち航行中に撃沈された船舶は三二隻であった。
 疎開は、船舶の航行がほぼ不可能となった昭和二十年(一九四五)三月初旬に打ち切られた。米軍は沖縄を攻略目標に選定すると、潜水艦と航空機により徹底して海上交通を遮断し、沖縄を孤立化したのである。疎開終了までに本土へ搬送された疎開者は約七万名であった。また、宮古島及び八重山島からは主に台湾への疎開が実施された。一般、学童合わせて約一万四〇〇〇名が東シナ海を渡り、基隆へ向かったという。
 約七か月間に疎開できた島民は約八万四〇〇〇人だったが、島外に脱出できなかった島民約一二万人が戦闘に巻き込まれ、死亡した。
 学童集団疎開は「対馬丸」遭難後も強行され、引率教員等の関係者を含め六五六五名が無事疎開地に到着した。この間、学童疎開船で撃沈されたのは「対馬丸」一隻のみにとどまった。潜水艦だけでなく空襲による被害が増大していた中での僥倖であったともいえるが、それだけに「対馬丸」の悲劇性が高まることとなった。
 最後に余談だが、米潜水艦「ボーフィン」は真珠湾攻撃一周年となる一九四二年十二月七日に就役し、「真珠湾の復讐者」と呼ばれた。終戦まで活躍した同艦は今も記念艦として保存され、真珠湾で一般に公開されている。一方、「対馬丸」は今も悪石島沖の海底で静かに眠っているが、その悲劇を後世に伝えようと、遭難六十周年となる平成十六年(二〇〇四)八月二十二日、那覇に対馬丸記念館が開館した。

(初出:学研「歴史群像」太平洋戦争シリーズNo.37『帝国陸海軍 補助艦艇』)

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2009.01.18

「対馬丸」事件(3) 「ナモ一〇三」船団の悲劇

 昭和十八年五月以来起きた船舶沈没の件は、いずれも機密事項であったが、すでに島民には風聞として伝わっていた。那覇~鹿児島間の海上交通が米潜水艦の危険にさらされていることから、保護者の中には島外への疎開に対する不安の声も少なくなかった。
 しかし事態は切迫しており、そのような不安の中で学童疎開が実施に移されたのであった。八月十六日、潜水母艦「迅鯨」が那覇に到着、疎開学童第一陣の一三一名を乗せて出航し、無事本土に到着した。
 八月十九日には「和浦丸」「対馬丸」「暁空丸」の三隻で編成された六〇九船団が上海より那覇に到着し、大陸から輸送してきた歩兵第62師団の兵員約九〇〇〇名と馬匹約一三〇頭を揚陸した。
 ここで三隻は船団名をナモ一〇三と変更し、疎開者の乗船を開始した。疎開者の内訳は次の通りであった。

「和浦丸」…疎開学童  一五一四名
「対馬丸」…疎開学童   八二六名
      一般疎開者  八三五名
「暁空丸」…一般疎開者 一四〇〇名

 ナモ一〇三船団は八月二十一日一八三五時、那覇を出航した。護衛には駆逐艦「蓮」と砲艦「宇治」がついた。
 出航後、輸送船三隻は丁字型となる陣形をとった。左側に「対馬丸」、右側に「和浦丸」、後方に「暁空丸」が位置した。そして「暁空丸」の左後方に「蓮」、右後方に「宇治」が占位した。
 沖縄近海を遊弋していた水艦SS287「ボーフィン」は、八月二十二日〇四一〇時、日本に向けて航行する三隻の船団を発見した。それは三日前の八月十九日に捕捉しながらも攻撃位置占位に失敗し、獲り逃がした六〇九船団=ナモ一〇三船団だったのである。
「ボーフィン」は悪石島西方海域でナモ一〇三船団を再び捕捉し、二二一二時、「対馬丸」に対して魚雷を発射、三発の魚雷が命中した。「対馬丸」は二二一五時、佐世保鎮守府に宛て魚撃による損傷を受けたという電報を発した後、沈没した。「蓮」はただちに米潜に対し爆雷攻撃を加えたが、効果はなかった。
 船団は洋上に漂う生存者を救出することなく、一路鹿児島に向かった。「湖南丸」生存者を救出した「柏丸」の二次遭難という前例があったように、夜間の生存者救出は困難な上、救助中の艦船が敵潜によって攻撃される危険はきわめて高かったからである。遭難による死者は疎開学童七六七名、一般疎開者七一七名であった。生存者は付近の漁船や海軍の哨戒艇に救助されたり、付近の島嶼や奄美大島にまで漂流した後、救助された。

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2009.01.16

「対馬丸」事件(2) 沖縄シーレーンの戦い

 昭和十八年(一九四三)、沖縄の戦いはすでに洋上で開始されていた。潜水艦による通商破壊戦である。
 米海軍は開戦直後より無制限潜水艦戦を宣言していたが、当初は魚雷の不良などのトラブルや単独攻撃が主だったこともあり、さほどの脅威でもなかった。しかし、昭和十八年にもなると技術的問題が解消され、三隻一単位で船団を攻撃するウルフパック戦術を取ることで、効果的な戦果を挙げるようになっていたのである。
 米潜水艦部隊にとって最大の目標は日本本土と南方資源地帯を結ぶ東シナ海及び南シナ海で、まだ攻略目標となっていない沖縄への航路は副次的な目標であった。このため、沖縄航路を狙う潜水艦は警戒目的の単独艦が多かった。
 沖縄航路における最初の犠牲が出たのは昭和十八年五月二十六日、大阪商船所属の「嘉義丸」であった。鹿児島から沖縄に向かう鹿11船団に加わっていた「嘉義丸」は命により僚船「開城丸」とともに護衛なしで先行したが、SS189「ソーリー」の雷撃を受けて船体後部が爆沈、約五時間後に船首を屹立して沈没した。乗客約五五一名のうち三二一名が死亡した。
 次の損害は同年十二月二十一日、商船四隻、護衛二隻の船団を組んで沖縄から本土へ向かっていた「湖南丸」であった。同船はSS208「グレイバック」の発射した魚雷二発を受け、沈没した。「湖南丸」には軍需工場への動員者、満蒙開拓団応募者、海軍少年飛行兵合格者など五八三名が乗船していたが、そのうち約四〇〇名が救助され、護衛にあたっていた特設捕獲網艇「柏丸」(※)に移乗した。
 ところが三時間後、今度はその「柏丸」が反転してきた「グレイバック」の雷撃を受け、轟沈した。救助された「湖南丸」の乗客もすべて「柏丸」と運命を共にしたのである。
 昭和十九年に入ると、奄美諸島から沖縄近海を遊弋する米潜水艦も増加し、それとともに損害も増大した。四月十二日、鹿児島から那覇に向かっていた鹿004船団の「台中丸」が、奄美大島西方でSS232「ハリバット」の雷撃を受けて沈没、二八名が死亡した。
 八月五日には、奄美大島から沖縄に向かっていた「宮古丸」がSS316「バーベル」の雷撃により沈没、船客三四三名のうち約三〇〇名余が死亡した。駆潜艇三隻の護衛があったにもかかわらず、「宮古丸」が先頭に立ち、駆潜艇三隻が後方につくという不可解な陣形で、まったく護衛の意味をなしていなかった。
 沖縄には疎開船だけでなく、第三二軍の増援部隊を本土や大陸から輸送する徴傭船が往来していたが、これらも例外なく潜水艦の攻撃にさらされた。
 その中の一隻、「富山丸」は六月二十五日、独立混成第44旅団及び独立混成第45旅団の兵員を乗せて鹿児島を出港し、沖縄に向かった。しかし同二十九日〇七三〇時、徳之島東方を航行中、付近を警戒中だったSS187「スタージョン」の雷撃を受けた。魚雷は「富山丸」の左舷に三発命中、約一分後に沈没したが、積載していたガソリンの炎上により、乗船将兵約四六〇〇名のうち約三七〇〇名が死亡または行方不明となる大惨事となったのである。
 この遭難で両旅団は戦わずして壊滅したため急きょ再建され、同年九月、再び沖縄に送り込まれた。またこの影響により、第15独立混成連隊が七月六日から十二日にかけて本土から沖縄へ空輸されるという異例の措置がとられ、後に再建された独立混成第44旅団へ編入された。

※特設捕獲網艇「柏丸」:海軍徴傭船。宇和島運輸より徴傭。515トン。特設捕獲網艇の標準装備は8サンチ砲×1、7.7ミリ機銃×1、掃海具×4、爆雷20~24であった。

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2009.01.15

「対馬丸」事件(1) 疎開の決定

 昭和十九年(一九四四)七月七日、絶対国防圏の一角であったマリアナ諸島のサイパン島が玉砕陥落した。東条英機内閣は緊急閣議を開き、一般疎開の促進および学童疎開の強度なる促進を閣議決定した。
 同日深夜、文部省から沖縄県知事に対し緊急電報で通達があった。その内容は、奄美諸島および沖縄の老幼婦女子をただちに島外へ疎開させること、沖縄・八重山・宮古の三島から本土へ八万人、台湾へ二万人、計一〇万人を七月中に疎開させよ、というものであった。
 県内政部はこの決定に基づいて急きょ学童集団疎開計画を策定し、七月十九日、各学校に対し「学童集団疎開準備ニ関スル件」及び「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令した。
 疎開の目的は、国土防衛態勢の確立、県下児童の安全地区での教育運営の維持、食糧事情の調整などであった。 
 当時、沖縄には守備兵力として第三二軍が配備されていたが、六月の米軍サイパン上陸という事態を迎え、大幅な増強が決定された。だが、それによる兵員増加に伴い、狭い島嶼内における営舎の不足と食糧事情の悪化が予想された。そこで非戦闘員である島民を疎開させ、学校を営舎とするなど、諸事情の好転を図ろうというのである。沖縄での疎開は非戦闘員を戦闘に巻き込まないという配慮もさることながら、戦略的に必要な要請でもあったのだ。
 学童疎開の対象は当初、国民学校初等科第三学年から第六学年までの男子希望者を原則とし、初等科第一、第二学年の者であっても心身の発育十分で付添が不要と認められた者は許可するとなっていた。また、児童四〇名に対し一名の割合で教員を付すること、児童二〇名に対し一名の割合で世話人を付することとされた。あわせて博多に業務事務局、鹿児島と佐世保に南西諸島引揚援護局を設置、疎開者受入先の宮崎・熊本・大分三県にそれぞれ担当者を派遣した。
 だが、疎開は遅々として進まなかった。周知の通り、沖縄県は本土から遠く洋上を隔てた島々からなり、一般には鹿児島まで船で往復するしか方法がなかった。当時、すでに航路が米潜水艦の危険にさらされている事は周知の事実であり、島外への脱出は一種の賭けであった。また、本土と沖縄の人々の気質の違いや、異郷への疎開による家族離散の不安なども、疎開を躊躇させる大きな理由となっていた。
 そこで県は昭和十九年七月中旬、県庁の役人や警察署職員の家族を疎開第一陣として出発させた。これは役職関係者の優先的避難ではなく、疎開を敬遠する県民に対して垂範啓蒙の意味があったという。

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2008.12.31

震天制空隊

 昭和十九年(一九四四)十一月一日、マリアナから飛来したB29爆撃機の偵察型F13が初めて帝都上空に姿を現した。たった一機のF13に対し、陸軍第一〇飛行師団はその全力をもって邀撃に出た。しかし、高度一万メートル以上の高高度を飛行するF13を捉えることはできなかった。その後も偵察飛行は繰り返されたが、邀撃機はどれも高度一万メートルに到達するのがやっとの状態で、そのさらに上空を悠々と飛行するF13を見送るしかなかった。帝都上空、衆人環視の中で繰り広げられた初の空中戦である。彼我の技術力の差は歴然であったが、そのようなことを知る由もない参謀本部や防衛総司令部、さらには市民の間からもこのふがいない状況に非難の声が上がり始めた。
 第一〇航空師団長吉田喜八郎少将は、そのような声に決断せざるを得なかった。十一月七日、隷下の各戦隊に対し、空対空特別攻撃隊の編成を命じた。
「敵は高度一万米(メートル)で来襲、残念ながら我方には今これを邀撃するだけの優秀な飛行機はない。(中略)ここに於て、砲も弾丸も持たず、飛行機重量を軽減し、敵より上にあがり、体当たりを以て必墜以外にない」(『帝都防空戦記』原田良次)。
 後に「震天制空隊」と命名されたこの空中特攻隊は、武装や防弾装備を取りはずした特別攻撃機で、高度一万メートルを飛行するB29に体当たり攻撃をかけ、自機もろとも撃墜しようというものであった。特攻機には大きな赤い梓弓の矢印が描かれた。「帰らじとかねて思えば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」という楠木正之の古歌からとったものであった。同様の特攻隊は西方の防空を担う第一二航空師団でも編成され、こちらは「回天 制空隊」と命名された。当初は各戦隊四機ずつの編成であったが、後には八機に拡大された。
 この空中特攻隊が一般的な認識の特攻と異なるのは、搭乗員がパラシュートを装備していたことだ。B29に対する体当たり攻撃は延べ六十二回、うち生還の事例が十七ある。中には二四四戦隊の小林照彦少佐のように、二度特攻を敢行して二度とも生還、戦後を生き延びたという例もある。パイロットたちが「決死」の意気をもってB29に当たったこの特攻、「必死」の出撃ではなかった、ということがわずかな救いであろうか。
 この空中特攻に対しては悲壮、愚劣、無謀といろいろな声がある。たしかに、太平洋戦争末期の圧倒的劣勢下における帝都防空戦は軍事的にほとんど無意味な戦いであった。特攻隊員も自ら望んで特攻を敢行した者ばかりではない。しかし、彼らが自らの命をかけて特攻を敢行させた最後のものは、一般市民を空襲から守るという純粋な激情であった。空の勇士たちの志は、敬意を以て永く後世に伝えられるべきであろう。

(初出:新人物往来社「別冊歴史読本」戦記シリーズNo.55「日本軍戦闘機」)

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本土防空戦(7) B29の夜間焼夷弾爆撃により日本全土が焦土と化す

 ルメイはアーノルドの指令により軍事目標に対する高高度精密爆撃を取りやめ、都市に対する焼夷弾攻撃を実施することにした。焼夷弾による本格的な爆撃は昭和二十年(一九四五)二月二十五日の東京空襲で実行に移された。木造家屋の多い日本の都市に焼夷弾爆撃はきわめて有効だった。ルメイはさらに空襲を効果的にするため、高度二〇〇〇メートルに爆撃高度を下げ、しかも夜間に実施することにした。かくして三月十日未明、三〇〇機以上のB29が東京の下町に来襲し、二〇〇〇トンにおよぶ焼夷弾の雨を降らせたのである。
 この夜間低空爆撃は意外にも日本側の盲点だった。日本の防空監視態勢では夜間に低空侵入されたB29を早期に発見し、邀撃することが困難だった。また、夜間戦闘機が少なく、これを敵編隊へ誘導する無線システムがなかったことも夜間迎撃を困難にさせていたのである。第一〇航空師団と第三〇二航空隊は出撃できる限りの夜間戦闘機を邀撃に向かわせた。夜間航空戦の主力は陸軍が二式複戦「屠龍」、海軍が「月光」だった。いずれも斜銃を装備した複座の夜間戦闘機であった。低空で逐次侵入してくるB29に対し、陸海軍夜戦部隊はこの防空戦で最大級といえる十五機撃墜の戦果をあげた。しかし、この奮闘も文字通り焼け石に水だった。この空襲により、一晩で八万を超える東京市民が犠牲となった。これは、広島の原爆投下をのぞく都市爆撃の中で最大の犠牲者数であった。
 東京空襲の成功により、アメリカ軍は作戦方針を夜間焼夷弾爆撃へと転換、以後、横浜、名古屋、大阪、神戸といった大都市が次々に焼夷弾で焼き尽くされた。こうなってはもはやなすすべ無し、というのが防空作戦の実状で、震天制空隊などによるB29への体当たり攻撃が恒常化していった。四月に入ると硫黄島から発進したP51戦闘機の護衛が付くようになり、B29に接近することすら困難だった。六月に入り、陸海軍は本土決戦を期しての戦力温存に方針を転換した。これは防空戦闘を放棄したようなもので、もはやB29の爆撃を止めるものはなかった。六月十五日、大阪および尼崎の空襲をもってアメリカ軍は当初の目標を達成し、新たに日本の中小都市の大半を次なる爆撃目標に設定し、本土空襲は日本のほとんどの都市が廃墟と化す無差別爆撃の最終的な段階を迎えた。
 B29による空襲だけでなく、空母艦載機による空襲も開始された。これに対して「紫電改」を装備した精鋭、源田実大佐の海軍第三四三航空隊が奮戦したが、この期に及んですでに時遅しの感があった。
 焦土と化した日本はなおも本土決戦を叫んだが、連合軍側はすでに戦後体制をめぐる段階に入っていた。終戦を早めるため広島と長崎に原爆が投下され、これに刺激されたソ連が参戦して、大勢が決した。八月十五日、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏したが、その日も秋田や熊谷、小田原が空襲の被害にあい、市民は最後まで空襲に苦しめられたのであった。
「将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ、人心阻喪の結果、我は或いは、敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだろうか。何ぜなら、是の時に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落とすこと能わず、その中の二、三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焦土たらしめるだろうからである。(中略)だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである。この危険以前において、我機は、途中これを迎え撃って、これを射落とすか、またはこれを撃退しなければならない」
昭和八年(一九三三)八月十一日、信濃毎日新聞に掲載された『関東防空大演習を嗤ふ』という記事の一部である。軍部批判ともとれるこの記事は当時大問題となり、記者の桐生悠々は新聞界を逐われた。しかし歴史は、十年以上も前に桐生が予見した通りとなったのであった。

(初出:新人物往来社「別冊歴史読本」戦記シリーズNo.55「日本軍戦闘機」)

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本土防空戦(6) ついに帝都へB29来襲

 十一月一日、初めて帝都に飛来した一機のF13に対し、帝都防空の重責を担う陸軍の第一〇飛行師団と海軍の第三〇二航空隊は邀撃に出たが、高度一万メートル以上の高高度を飛行するF13を捉えることはできなかった。その後も偵察飛行は繰り返され、その都度一〇飛師と三〇二空はスクランブルを繰り返したが、高度一万メートルに到達するのがやっとで、そのさらに上空を悠々と飛行するF13を見送るしかなかった。
 十一月二十四日白昼、ついにB29が帝都へ来襲した。その日の朝にマリアナのイスレイ基地を発進したB29は、オドンネル准将麾下の第七三爆撃航空団の一一一機。うち一七機が故障で引き返したが、残る九四機は硫黄島西方を通過し、最初の目標である中島飛行機武蔵野工場を目指した。
 午前十一時に小笠原の対空監視哨からB29の大編隊北上の報が東部軍司令部にもたらされた。続いて海軍監視艇からも発見情報が入る。十一時三十分、第一〇飛行師団は全力発進し、B29の邀撃に向かった。海軍の第三〇二航空隊も正午に空襲警報が発令されるや、延べ一〇九機を発進させた。
 しかし、高度一万メートルの戦いはジェット気流と各機の高高度飛行性能の不足から飛んでいるのがやっとといった状態で、B29に攻撃をかけることができたのは一度だけだった。高射砲隊も雲に遮られて十分な射撃ができず、B29は中島飛行機武蔵野工場を爆撃していった。約二時間半におよぶ邀撃戦で撃墜されたのはわずか一機、洋上不時着機が一機だけであった。撃墜したのは見田義雄伍長機で、体当たり攻撃によるものだった。これ以降、日本は体当たりによるB29攻撃を本格化していく。航空特攻隊「制空震天隊」を編成した第一〇航空師団長吉田少将は大晦日の夜、日記に「今やすべて遅し、依然、無理を強行する以外に手段なし」と記した。
 一方、B29の方もジェット気流と目標上空が曇っていたために、目標を爆撃できたのはわずか二十四機で、六十四機は市街地や横須賀に投弾した。武蔵野工場には爆弾四十八発が命中し、百三十名以上の死傷者を出したものの、発動機の生産ラインには大きな影響がなかった。だが、いとも簡単にB29の帝都侵入を許してしまった日本側の衝撃は大きかった。
 その後も第二一爆撃兵団のハンセル准将は日本各地の軍事目標に対する白昼高高度からの精密爆撃を繰り返した。高高度爆撃は日本機に邀撃されにくいものの、ジェット気流の影響から目標に爆弾を命中させることも難しかった。B29の損害に比べて戦果が少ないと判断した第二〇航空軍のアーノルド大将は高高度爆撃に固執するハンセル准将を更迭し、成都にいたカーチス・ルメイ少将をマリアナへ移すと、日本空襲の総指揮に当たらせたのである。

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2008.12.30

本土防空戦(5) 帝都の防空態勢

 昭和十九年(一九四四)七月のマリアナ諸島失陥により、B29による日本本土空襲は避けがたいものとなった。これに対する防空戦力を強化すべく、関東地方、特に帝都上空の防衛を任務とした陸海軍部隊の改編や航空部隊の配置転換が実施された。
 帝都防空の主力は、陸軍の第一〇飛行師団(師団長吉田喜八郎少将)であった。十一月一日の時点において、同飛師はその全力を東京周辺に集中していた。その配備は次の通りである。
 調布 第二四四戦隊(飛燕 四十機)
    独立第一七中隊(百式司偵 十二機)
 成増 第四七戦隊(鍾馗 三十機)
 松戸 第五三戦隊(屠龍 二十五機)
 柏  第一八戦隊(飛燕 十二機)
    第七〇戦隊の一部(鍾馗 若干)
 合計機数は約二〇〇機、そのうち可動兵力は一六〇機であった。さらに防空兵力を強化すべく、十月末に太田で編成された第二三戦隊(「隼」十二機)を十一月二日に印旛へ移動した。さらに教育・錬成を兼ねた東部二号部隊(各地に五個隊、出撃可能機数五〇機)と、フィリピンへ進出予定だった第二一飛行団が指揮下戦力として加えられ、防空戦力は約三五〇機に強化された。第二一飛行団隷下の第七二戦隊(疾風)は相模原、第七三戦隊(疾風)は所沢に展開した。
 厚木に展開していた海軍の第三〇二航空隊も帝都防空の主戦力の一つだった。保有機は次の通りである。
 雷電 四十機
 零戦 三十八機
 月光 二十四機
 彗星 二十機
 銀河 三機
 極光 一機
 合計機数は一二六機であったが、可動機数はその半数以下の約六十機に過ぎなかった。
 第一〇飛行師団はB29が京浜地区へ侵入する前に捕捉攻撃すべく、前方へ進出して敵を迎え撃つ推進邀撃に重点を置いた。また、皇居上空には第二四四戦隊の一部を直衛に振り向け、不可侵を期した。防空戦力を迅速に展開するためには、情報の早期入手が何よりも重要だった。
 マリアナから太平洋を越えて来襲するB29を邀撃する場合、中国大陸を横断してくる成都からの来襲とは異なり、早期に発見し、警報を発することは難しかった。八丈島および硫黄島に設置されたレーダーと目視監視哨が頼りであったが、B29が高高度で飛行してきた場合、日本の戦闘機がようやく攻撃高度まで上昇できたときにはすでにB29が本土に達しており、要地上空で邀撃しなければならなかったのである。
 沿岸の防空監視態勢は、第三二航空情報隊のレーダーと沿岸各都県に配備された防空監視哨が常時監視体制にあり、海軍もB29探知のため、小笠原から伊豆諸島にかけての東西約一一〇〇キロにわたり、十数隻の監視艇を配置していた。航空目標の発見情報は、直通電話によってただちに東部軍司令部へ通報された。
 帝都防空の重責を担う東部軍司令部および第一〇飛行師団司令部は東京の竹橋にあった。作戦室に設置された警戒機表示盤や監視哨情報盤には、各地から寄せられる情報が電光掲示され、B29の進入経路を逐次把握できるようになっていた。入手した情報は、直通電話によって防空飛行部隊や高射砲部隊に連絡された。海軍の第三〇二飛行隊からも連絡将校が派遣されており、陸軍と協同作戦をとることができるようになっていた。
 蒼空を睨む地上防空兵力は、高射砲約五二〇門、照空灯約二五〇基などで、十一月中旬にはさらに高射砲三十五門が加わった。しかしながら、高度一万メートルまで到達する十二センチ高射砲はわずか三十門たらずであった。

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2008.12.29

本土防空戦(4) B29、高高度昼間爆撃に戦術変更

 夜間爆撃では大きな成果を期待できないことから、第二〇爆撃兵団は高高度からの昼間爆撃に切り替え、八月二十日に実施した。支那派遣軍から早期に情報を得た西部軍は午後四時三十二分に空襲警報を発令、第一二飛行師団の八十七機が邀撃に向かった。海軍の三五二空も三十七機を発進させた。来襲したB29は七十五機で、高度七五〇〇メートルからの爆撃であった。この日は野辺重夫軍曹の屠龍が体当たり攻撃を敢行して二機を撃墜するなど日本機による激しい邀撃を受け、損失は十四機に達した。目標となった八幡製鉄所は被害を受けたものの、二日後には操業を再開した。しかし、邀撃に向かった戦闘機は高高度での飛行性能が大幅に低下し、攻撃高度に達するまでに一時間もかかった。無理な運動ができず、攻撃機会は一度だけと、邀撃の困難を痛感させた。
 第二〇爆撃兵団はしばらく満州の鞍山と台湾に対して爆撃を実施、再び北九州上空に来襲したのは十月二十五日のことであった。五十九機のB29は大村の第二一海軍航空廠を爆撃、海軍の第三五二航空隊と大村航空隊合わせて七十一機が邀撃に向かったが、高高度爆撃を実施するB29に対して撃墜一機とふるわなかった。この反省から三五二空は戦術を変更、十一月二十一日の空襲に対しては、来襲したB29六十一機のうち五機を撃墜、事故も合わせて九機を損失せしめるという戦果を挙げた。その戦術は夜間複座戦闘機「月光」を索敵を兼ねて前方に配置し、その一〇〇キロ後方の高高度に待機した「雷電」と零戦が襲撃するというものであった。
 この後、成都から飛び立ったB29による北九州爆撃はマリアナからの空襲が開始されたこともあって、二十機程度の小規模な爆撃が二度実施されて終了した。成都からの爆撃は遠距離のため爆弾搭載量が少なく、困難の割に成果が伴わなかった。さらに、支那派遣軍からの早期警報により北九州上空で邀撃態勢を整える余裕があった。
 高高度の邀撃戦は大きな困難を伴い、撃墜数は決して多いものではなかったが、B29は日本側の執拗な邀撃のために爆撃の精度が低下した。早期警戒態勢が整っていれば、B29といえども十分な爆撃の成果を挙げ得ないことを示したのであった。

(初出:新人物往来社「別冊歴史読本」戦記シリーズNo.55「日本軍戦闘機」)

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2008.12.28

本土防空戦(3) 北九州の攻防戦

 北九州では、成都から来襲するB29との死闘が続いていた。成都を基地としていたのはアメリカ軍の第二〇爆撃兵団で、八幡製鉄所や佐世保海軍工廠、満州の鞍山製鉄所など、おもに軍事戦略目標に対する爆撃を実施した。最初の司令官はウォルフ准将であったが、後に日本を焦土と化したことで名を馳せたカーチス・ルメイ少将に変わる。
 この方面を護るのは西部軍指揮下の陸軍第一九飛行団(古屋健三少将)で、隷下に「屠龍」を装備する第四戦隊と「飛燕」を装備する第五九戦隊があった。後に四式戦闘機「疾風」を装備する第五一、五二両戦隊が加えられ、さらに「鍾馗」装備の第二六四戦隊が中部軍から編入された。総機数は約一五〇機となった。
 B29最初の空襲となった六月十五日の八幡空襲は、三〇〇〇メートルの高度からの夜間爆撃であった。灯火管制のため目標を視認することができず、成都を飛び立った七十五機中、目標をレーダー照準で爆撃したのは四十七機であった。五機が「屠龍」に撃墜され、二機が往復途中の事故で失われた。八幡製鉄所が受けた被害はわずかであり、損害の割に爆撃の効果はなかった。
 続く七月七日の空襲は、B29十八機による小規模な夜間爆撃であった。前回の爆撃の反省から、中国大陸に展開していた支那派遣軍や第五航空軍から早期の通報があった。第十九飛行団は約五十三機を発進させ、B29の来襲を待ち受けた。B29の損害はなかったものの、日本機の邀撃を嫌い、目標であった八幡と佐世保に対する爆撃もそこそこに引き上げていった。
 この空襲後、第一九飛行団は第一二飛行師団に昇格した。さらに、海軍の呉航空隊と佐世保航空隊のうち戦闘機隊が第三三二航空隊及び第三五二航空隊と改称し、それぞれ陸軍西部軍司令官の指揮下に加えられることになった。これは完全とはいえないものの、陸海軍の指揮系統が初めて一元化されるという画期的な出来事であった。
 八月十一日もB29二十九機による小規模な爆撃であった。目標は長崎と八幡であったが悪天候のため、ほとんど爆撃の成果を挙げることができなかった。日本側も十分な邀撃を行い得なかった。この空襲の後、第二六四戦隊が中部軍指揮下に戻され、大阪へ引きあげていった。

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2008.12.27

本土防空戦(2) マリアナ失陥で迫る本土空襲の危機

 昭和十九年(一九四四)に入ると、日本の劣勢は明らかなものとなった。同盟国ドイツの各都市が連合軍爆撃機の空襲を受けているという報は日本にも伝わっていたが、従来の大型爆撃機では、海を越えての本格的な日本本土空襲は困難であった。しかし、それを可能にする「スーパーフォートレス」B29爆撃機が実戦投入されたことを確認するに及び、日本は来たるべきB29の本土空襲を考えないわけにいかなかった。
 南方のソロモン諸島を制したアメリカ軍は中部太平洋に進出、マリアナ諸島が攻防の焦点となった。ここはB29が北海道を除く日本本土のほぼ全域を爆撃圏内に収めることができる重要拠点であった。日本もそれを十分に認識して絶対国防圏下に指定し、防衛態勢の強化に努めたが、その準備はあまりにも遅すぎた。六月十五日、アメリカ軍がマリアナのサイパン島に上陸。同夜、中国の成都を飛び立ったB29が九州の八幡を空襲した。これはサイパン上陸に連動して実施されたものであった。この空襲を皮切りに、B29による本格的な本土空襲が開始された。
 連合艦隊は「あ」号作戦を発動し、戦局の逆転に最後の望みを託した。同十九日、日米両機動部隊の間でマリアナ沖海戦が繰り広げられたが、それは日本の一方的な敗北に終わり、マリアナの運命が決定的となった。七月にはサイパン・グアム・テニアンの守備隊が次々と玉砕し、マリアナ諸島がアメリカ軍の手中に陥ちた。この戦略拠点を確保したアメリカ軍は、急ピッチでB29基地の整備を進めた。サイパン島に展開したのは、一〇〇機以上のB29で編成されたヘイウッド・ハンセル准将の第二一爆撃兵団であった。同兵団はトラック島と硫黄島に対して航法訓練を兼ねた爆撃を繰り返し、十一月に入ってからB29の偵察型であるF13による日本本土の偵察飛行を開始した。

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2008.12.23

本土防空戦(1) 無防備だった日本本土上空

 周囲を海に囲まれた日本は元寇という一度の例外を除き、古来より海という天然の障壁によって外敵の侵攻を阻んできた。しかし、航空機の急速な発達により、海は障壁としての意味をなさなくなった。
 日本本土防衛の任にあたっていたのは陸軍であった。明治の建軍以来、陸軍は海の障壁を頼りにして、もっぱら大陸への外征に努力を傾注してきた。航空機が登場し、第一次大戦で活躍した大正時代には防空の必要性が認識されたものの、本土に対する空からの侵攻という立体的な防衛の難しさというものを理解していなかった。
 最初に日本本土上空へ侵入したのは中国空軍である。昭和十三年(一九三八)二月、中国空軍機が台湾の松山飛行場を爆撃した。続いて五月、二機の中国軍機が九州上空へ侵入した。幸いにしてこのときは紙爆弾、いわゆる宣伝ビラをばらまいただけで飛び去ったのであるが、本土防空の任を預かっていた陸軍防衛司令部は、ついに敵機の内地上空への侵入を許してしまったのである。しかし、陸軍は中国空軍機の侵入を深刻な事態だと認識していなかった。いたとしても、それは一部の航空関係者だけであった。
 このような状態であったから、防空戦力を本格的に強化しようという気運は一向に高まらなかった。驚くべきことに、太平洋戦争が始まる直前まで日本の防空部隊は高射砲と聴音機という旧態依然たるシステムに基づいたものであった。航空部隊は必要に応じて付随させるという程度のものでしかなかったが、昭和十六年(一九四一)七月になって防衛総司令部が新設されると、それに併せてようやく防空専門の飛行戦隊五個が編成された。しかしながら装備は旧式の九七式戦闘機のみであり、本土防空の大任にはまったくもって不十分なものであった。一方、海軍は大正十二年(一九二三)に取り決められた本土防空任務分担協定により、要港防空がおもな任務となった。以来、防空に関しては要港を敵襲から護るという局地的な認識しか持っていなかった。
 陸海軍とも「叩かれる前に叩く」、先制攻撃による敵航空兵力の無力化を前提とした積極防衛思想であった。結果として、隼や零戦、九七重爆や九六陸攻といった長距離侵攻能力を重視した戦闘機や爆撃機が主戦力として整備されていく。後に「鍾馗」や「雷電」と命名されることになる防空任務に適した戦闘機の開発も行われていたが、その用兵思想は航空関係者になかなか理解されず、遅々として進まなかった。昭和十六年(一九四一)十二月八日、太平洋戦争が勃発した。日本は勝利の凱歌にわいていたが、その上空は無防備のままであった。
 緒戦に大きな打撃を受けたアメリカ軍だったが、ただやられっぱなしではなかった。昭和十七年(一九四二)四月十八日白昼、空母「ホーネット」から飛び立った米陸軍のB25爆撃機十六機が本土上空へ侵入、帝都を中心に各地を爆撃したのである。その冒険的な日本本土が空からの侵攻に対してまったく無防備である、ということが露呈してしまった。帝都を爆撃されるという由々しき事態に至り、ようやく陸軍も本格的に本土の防空態勢を考えないわけにはいかなかった。これまで防空任務に当たっていた旧式の九七戦に替えるため、二式複座戦闘機「屠龍」の配備を急ぎ、二式戦闘機「鍾馗」を装備してビルマ方面で作戦していた独立飛行第四七中隊を本土に戻した。
 連合艦隊は帝都が空襲されたことで陸軍や軍令部の反対を抑え、ミッドウェイ作戦を強行した。しかし、虎の子の空母四隻を失うという取り返しのつかない大敗を喫してしまった。八月にはソロモン諸島のガダルカナル島へアメリカ軍が上陸した。以後、南洋の戦局は悪化の一途をたどる。予備戦力のない日本は防空部隊を次々と抽出し、前線へ投入しなければならなかった。航空兵力の他にも高射砲部隊やレーダー網の整備が急務となっていたが、悪化する南方戦線の状況に本土防衛を顧みる余裕はなく、防空部隊の整備は遅々として進まなかった。

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2005.01.22

対馬丸メモ(2)

日本は1944年8月から1945年3月までの間に沖縄から8万4000人の沖縄県民を疎開させた。
沖縄戦による一般市民の死者は12万人あまり。
あの絶望的ともいえる海上交通線をつかって疎開させたことを考えれば、彼らがもし沖縄に残っていれば死者20万人超の可能性があったことを考えれば、これは日本船舶史上の偉業だったといえるのではないか。

(ついでメモ)
マリアナ失陥はB29の進出だけではなく、潜水艦母艦の前線進出も可能ならしめた。
具体的にはパールハーバーからサイパン島まで3600マイルも一気に前進。そのため、日本近海における米潜水艦の活動がより容易になってしまった。
その後、日本と南方資源地帯を結ぶシーレーンの攻撃が本格化。
こう考えると、マリアナ喪失で太平洋戦争の決着は完全についていたのであった。
(参考文献:光人社「モリソンの太平洋海戦史」サミュエル・E・モリソン/大谷内一夫)

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2005.01.16

対馬丸メモ

対馬丸
竣工:大正3年(1914)12月22日
建造:RUSSEL&CO.(英)
総トン数:6,754トン
主機:レシプロ2基
全長:135.64m
船幅:17.68m
喫水:10.36m
最大速力:13.72ノット
経済速力:12ノット
沈没:昭和19年(1944)8月22日
沈没位置:鹿児島県悪石島北西沖約10km(北緯29度31.93分、東経129度32.90分、水深約870m)
乗船客:疎開学童826名、一般疎開者835名
遭難者:疎開学童767名、一般疎開者717名
撃沈艦:SS287「ボーフィン」

ナモ103船団
編成:輸送船3隻(和浦丸、対馬丸、暁空丸)、駆逐艦1隻(蓮)、砲艦1隻(宇治)
発:那覇(昭和19年8月21日1835時)
着:長崎(昭和19年8月24日)
目的:疎開学童及び一般疎開者の本土搬送
疎開者内訳:
「和浦丸」…疎開学童1514名
「対馬丸」…疎開学童826名、一般疎開者835名
「暁空丸」…一般疎開者1400名

609船団
編成:輸送船3隻(和浦丸、対馬丸、暁空丸)、駆逐艦2隻(蓮、梅)、砲艦1隻(宇治)
発:上海(昭和19年8月16日発)
着:那覇(昭和19年8月19日着)
目的:歩兵第62師団の沖縄搬送
輸送内容:
「和浦丸」…兵員2409名、馬匹40頭
「対馬丸」…兵員3339名、馬匹49頭
「暁空丸」…兵員3175名、馬匹40頭

SS287「ボーフィン(Bowfin)」
竣工:1942年12月7日
建造:Portsmouth Navy Yard(米)
艦級:パラオ級
全長:93.57m
全幅:8.22m、
排水トン:1526トン、潜水時2414トン
速力:水上20.25ノット、水中8.75ノット
最大潜航深度:120m
乗員:85名
出撃数:9回
撃沈数:日本輸送船39隻(他に500トン以下船舶10隻)、ヴィシー・フランス輸送船1隻、日本海軍艦艇4隻
撃沈トン数:179,646トン(商船のみ)
※1979年8月1日、真珠湾にて記念艦となる。

(参考文献:出版協同社「戦時輸送船団史」駒宮真七郎、Bowfinホームページ)

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